第13話 ロジカルシンキング3

 俺の何気ない呟きに、隣に座っている彼女が物知り顔に答えた。


「あれが今、噂の待つ女よね」


「待つ女?」


「実験に熱心な貴方の事だから世間に疎いのは仕方ないわ。児童の下校時間に何時も同じバス停で子供を待っているの。バスから降りる子供の顔を確かめては、遅くまでバス停に佇んでいる。だから『待つ女』」 


「子供を待っていると言う事だよね?」


 迎えをしているだけで噂に上るという事は、他に何か興味をそそる理由があるのだろう。


 バス停から少し離れた定位置に佇む『待つ女』を眺めていると、遠慮がちな小さなホーンがに耳に届いた。何時の間にか信号は青へと変っていた。





 少し慌て乱暴に踏んだアクセルペダルが僅かなタイヤの悲鳴を残し、ルームミラーに映った軽自動車は見る見る小さくなってゆく。


「小学校低学年の一人息子が轢き逃げにあったのよ。帰る筈の無い子供の帰りを待ち続けているらしいわ」


「そう。それはお気の毒に」


 視線を前へ戻し、通り過ぎる『待つ女』に俺は一瞬視線を移した。日陰で『待つ女』の顔は乱れた髪でよく見えなかったが、紅が引かれたその口元だけがやけに浮き上がって見えた。その光沢ある鮮やかな赤い唇は不自然に持ち上がり、笑う様に口角を上げていた。


「あの人、笑ってたよ」


「えぇ。気が触れているそうよ。そんな下世話な話より、あたしにはもっと大切な話があるわ。貴方には早く教授に成ってもらわなくては。お父様も貴方には随分と期待しているのよ。教授会の派閥争いに巻き込まれて学長に成れなかった父と違い、貴方は実力で掴み取れるとみんなが期待しているわ」


 彼女はいったい何を笑っているのというのか?


 芽衣子はシートベルトのロックを外し、考え事をしている俺にからだを寄せてキスを迫った。

 

「危ないじゃないか!」


「貴方とだったら地獄へ落ちたって構わないわ。愛してるの孝明」


 鈍い光沢のチェリーレッドが上品な細身の眼鏡を外し、芽衣子は露になった裸眼で俺を見詰める。その濡れた瞳が欲しているのは俺の人生か? それとも俺の才能なのか。

 

 俺はクルマを路肩に停めるとネクタイを緩め、芽衣子の求めるものを与えた。






「二人で素敵な家庭を築きましょう。子供を迎えにも行けない様な惨めな暮らしは嫌よ。子供に親の責任を背負わせる家庭なんては最低だわ。あたしにはそんな暮らし想像もできない。でも貴方となら築ける筈よ。歴史に名を残す研究者と嘱望される貴方となら、幸せな家庭を築けるわ絶対に」


 彼女の父親、加納教授は俺が准教授として勤める大学の学部長だ。学生時代から俺にとっての憧れであり、実直な研究者である加納教授に師事して、俺は母校の施設で研究に没頭する毎日を送っている。彼女はそんな憧れの人のお嬢さんだ。学生時代から彼女は特別な存在だったのだ。そんな俺に人生の転機が訪れたのは、つい数ヶ月前の事だ。




 

 加納教授が現在実験しているのは、論理物理学の命題の一つだった。加納教授の説明が正しいなら、実験は成功する筈なのだ。しかし、幾ら条件を変え実験を繰り返しても実験は失敗が続いていた。教授ももう諦め掛けた時、俺が教授の理論を下敷きに条件を変えてみる事を提案した。それが加納教授が失敗していた原因と判明した。俺の提案によって実験は成功したのだった。

 

 この時から俺の人生は大きく変り始めた。教授は研究者生活の先が短い自分よりも、俺を引き立て自分の後継者にしようと考えた。以前から好意を寄せていた芽衣子さんが、彼女の方から積極的にアプローチする様になり、論文には連名で名前が挙がり、学会への発表では教授と同席して世界へと紹介された。芽衣子さんがこのクルマを選んでくれたのも当然だった。今の俺は、飛ぶ鳥を落とす勢いの世界的研究者として名乗りを上げたのだから。

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