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第2話 なぁ~んて、うそうそっ
今年は開花が遅かった桜も入学シーズンまでは持ちこたえてくれませんでしたね、などとニュースキャスターが今朝言っていた。
小高い丘の上にある学生寮から校舎へ真っ直ぐに伸びる下り坂。確かに両脇に佇む桜からはほとんど花びらが失われていた。だが、背理にはそんなことどうでもよかった。今日これから行われる入学式自体がどうでもいいのに、そこに花を添えられたところで気持ちが高まるものでもない。
学校までは徒歩五分。始業は八時半。期待と不安で胸いっぱいの新入生たちが集まる教室の空気はさぞかし浮き足立って居心地が悪いだろうが、初日から遅刻して無駄に目立ってしまうのも嫌なので10分前に到着するように計算して寮を出た。現在八時十七分。
目にかかりそうな長い前髪を風が揺らす。この日のために切りそろえてくるのが筋だったかもしれないが、どうも短髪は落ち着かない。なんとなく髪が人との壁として働いてくれる気がするのだ。
「拾って!」
──突如背後から声が響く。背理は咄嗟に振り返ると坂の数メートル上に初老の女性が立っていた。そして道を転がってくる五、六個のりんご。
「そこのお兄さん! お願い!」
ご婦人の視線は間違いなく背理に送られている。こんなシーン、カラオケで流れる古ぼけた映像でしか見たことがない。
面倒臭い。──背理はそれしか思わなかった。
だが振り返ってしまった以上無視をするのも人の道理に反する。どうにか感じの悪い奴だと思われないままにして無駄な労力を払わずに済ませる方法はないだろうか。
これだけの数。全てキャッチするのは無理だ。いくつかは背理をすり抜けてさらに下まで転がり落ちるだろう。走って追いかける義理もない。
……そうだ。
「おわぁ!」
背理は一番近くまでやってきたりんごに大げさに飛びついて転倒してみせた。つけていた腕時計の金具をこっそり外しておき、倒れたドサクサに紛れてご婦人の方向に飛ばす。
「あらあら、大丈夫?」
ご婦人は時計を拾い上げてから背理のそばまで歩いてきて心配そうに語りかける。自分のせいで若者を転ばせてしまったという罪悪感を背理は無理矢理引き出したのだ。
「大丈夫です。……すいません、拾えなくて」
わざとらしく申し訳なさそうな苦笑を浮かべてみせる。背理が拾ったもの以外はコロコロと坂を下り続け、それぞれが徐々に進行方向を逸らして左右の植え込みにバラバラに潜り込んで行った。
「いいのよ。ほら、これ時計」
「ありがとうございます」
背理は立ち上がってパンパンと服についた土や枯れた桜の花びらを払う。
「悪いんだけど残りも手伝ってくださらない?」
背理の進行方向もこの坂の下。背後を歩いていたご婦人もそれを知っている。ついでに拾いながら歩くくらい大した労力にならない。
──普通ならそう思うだろう。だが背理はそれすら億劫だった。
「あれ!? もうこんな時間!?」
受け取った時計の盤面をあえてご婦人にも見えるようにして突然声のボリュームを大きくしてみる。
時計の針が指しているのは八時二十七分。背理はりんごに飛びつく前の一瞬で十分進めておいたのだ。
「す、すいません。遅刻しそうなんで急ぎます。あと三分しかない!」
血相を変えて慌ててやればご婦人も引き止めることなどできるはずもなく、
「あら、それは大変! いいわ、私一人で拾うから急いで」
「ありがとうございます! じゃあ!」
背理はバッと見を翻して小走りに坂を下る。ご婦人からはもう顔が見えないことをいいことにほくそ笑む。
拝島背理はこういう男だ。
面倒ごとからは逃げるに限る。努力が求められる場面ではなんとなくやりすごし、継続が求められる場面ではさりげなく離れていく。これまでの15年間ずっとそうやって生きてきた。機転が利き、変に賢い。その力を逃げることばかりに投じてきた男。
校門をくぐってご婦人の位置からは姿が見えなくなった後、背理はのんびりと時計の針を元に戻す。
お芝居の都合上急ぎ足で来たため予定より若干早く到着した。これでは面倒なことになる。教室にいる時間が長くなるほど早く友人を作らねばと躍起になっている人種に話しかけられてしまうリスクが高まる。
昇降口には誰がどのクラスに配属されたのか掲示されていた。背理はD組のところに早々に自分の名前を発見したが、このまま見つからない風を装って一、二分稼ぐことにした。
四十名のクラスらしい。自分を除いた三十九人のうち、背理は何人の名前を覚えることになるだろうか。中学の時は覚えたところで話しかけることも話しかけられることもなかったので、フルネームがわかるのは10人前後だった。
興味のないものを長々と眺めるのも退屈になってきたので背理はようやく教室に足を向けた。エレベーターがあったが待機列ができているし、教室は二階なのだからかえって面倒だと判断して階段を選択する。
二階に到着するとエレベーターホールを中心に二本の廊下が伸びており、AからE組が右、FからJが左。背理のD組は昇降口からの近さランキング二位。なかなかの良物件だ。
しかしおかしな点がある。教室のドアにクラス名が書かれたプレートがありそうなものだったが取り外されている。その代わりドアに「仮D組」と書かれた紙がセロテープで貼り付けられていた。
仮……?
疑問に思ったがすぐに理由を推測するのをやめた。どうせ後で説明されるだろう。答えの出ないものを考えるなんて面倒臭い。
だがこの不可解な張り紙の意味を、ひいてはこんなものを貼るこの学校の異様さを、背理はじっくりと考察しておくべきだったのだ。
***
背理がこの私立玉蜂学園に進学したのはある理由がある。
元々住んでいた場所とは遠く離れた県にあり、背理は寮生活を余儀なくされた。よっぽどの動機がなければこんな選択はしない。もっと近くに背理の学力に見合った高校はいくつかあった。
同じ中学の出身者がいない高校に行きたい。理由はそれだけだ。
別に中学時代地元で何かやらかしたとか会わせる顔がないとかいうわけではなかった。嫌われてはいなかったし、逆に仲の良い友人もいなかった。できるだけ人との交流は避けてきたから当時の同級生の多くはもう背理のことを思い出せないだろう。
だが、背理はその程度の薄い薄い人間関係すら煩わしく感じたのだ。自分のことを誰も知らない環境の方がなんとなく気が楽だからという、持ち前の逃げ癖から生まれた発想だけで敢行した逃避行は、結果的に数百キロに及んだ。
実家からもさっさと出て行きたかったので寮の存在は非常にありがたかった。しかもこの学校の寮は個室が与えられるという点も魅力だった。
高校生にして普通のアパートで一人暮らしをするなんて両親が許すはずないとわかりきっていた。なのではなっからそんな交渉は省略し、寮で学友とともに自立心を育みたいと雄弁に語ることで承諾を引き出したのだ。
遠い。個室の寮。この条件だけを重視して受験ガイド本をめくっていた時に見つけたのがこの学校。しかも入学時の偏差値に対して進学先やその後の就職先が優れているお買い得校との評判が記載されており、彼の逃げ癖がビクンビクンと反応した。
それなりに成績の良かった背理でも入学には多少の努力を要するレベルだったが、後々楽をするためだと珍しくせっせと勉強を重ねた。この用意周到さは親から見ればまだ若いのに将来を見据えている立派な子供として映ったらしい。誰も損をしない賢い選択、背理はそう自負していた。
しかし、現実はそう甘くない。
背理がこの学園の異常性に直面したのは最初のHRが始まる五分前。懸念していたさっさと話せる友人を作って落ち着きを得たいマンに話しかけられてしまった時だ。
「オレ、能登春樹! よろしく頼むぜ!」
一つ前の座席に座っていた男子が背理の方に振り返る。涼やかな短髪とハキハキした語り口。いかにもスポーツマンらしい彼は春とはいえまだそれほど暖かくもない教室の中で制服のブレザーを脱いでおり、白いYシャツが爽やかさをより引き立てていた。声が大きくて背理は少し驚いたが、表情の明るさのせいか威圧的ではない。
「……俺は拝島背理。よろしく」
面倒ではあったがそれを顔に出して嫌われるのはより面倒だった。当たり障りのない会話を繰り広げてやろうと覚悟を決める。
「ハイリってどう書くんだ?」
「背理法の背理」
「ほぉ~! なんか賢そうな名前だな」
春樹は大げさに目を見開いてうんうん頷く。たったこれだけの会話でもすでに話しやすさを感じさせ、多分良い奴なんだろうなと背理は思う。積極的に関わりたいかといえば話は別になるが。
「背理法……。なんかこの学校っぽいな。来るべくして来たって感じか」
「……ぽい?」
「論理とか理屈とか、そういうのにまみれた学校だかんな。なあ、専権は何になりたい?」
「……センケン?」
なんだそれ、聞いたことない、そんな困惑を浮かべると、春樹も春樹でなぜ知らないんだと言わんばかりに怪訝そうに眉根を寄せた。
「専権っつーのはポジションのことだよ。アレの」
専門用語を使ってしまったから伝わらなかったと考えた春樹が解説を添えてくれたが、背理がわからなかったのはその言葉の意味ではなく何の専門用語なのかだ。
「アレって?」
「『縛接闘議』だよ! ……お前、まさかなんも知らずにこの学校に来たってのか?」
背理がこの学校について知っているのは実家から遠いこととお買い得であることだけだ。それ以外は興味がなかったし、説明会にも参加していなければ学校案内のパンフレットなんかも目を通していない。
背理の様子から冗談ではなく本気で何も知らないのだと悟った春樹はことさら大きな声で笑った。バカにしているのではなさそうなのがせめてもの救いだ。
「すげぇな背理! んな奴いるなんて思わなかったぜ! おもしれぇヤツだな!」
「な、何なんだよ、バクセツトウギって」
「この学校の伝統だぜ! 『縛接闘議』を知らずにここ受験するなんて、ダブルクリックも知らねぇのにプログラマーになるようなもんだぜ?」
それは確かに使い物になるまい。……自分が今そんな深刻な状況にある? 背理は身震いした。何がわからないかもわからないなんて、これほど恐ろしいことはない。
「お、教えてくれよ。バクセツトウギって一体……」
「あのなぁ、この学校では全てが『縛接闘議』で……」
ガラッ。
春樹が説明を始めた瞬間、教室のドアが開く。生徒達はまだ見ぬ担任の教師がやってきたものだと思って視線をドアに向けるが、──そこに立っていたのは小学生くらいの少女だった。
「はぁい、静かにぃ~!」
少女はキンキンと頭に響く甲高い声を放つ。しかし要求されるまでもなく、生徒達は言葉を失っていた。
……誰だ? この子供は。
「みなさぁん、入学おめでとぉございます! アタシがこのD組の担任、剛田悦子でぇす。えっちーせんせいって呼んでねぇ~」
少女は教壇に立って高らかに宣言した。彼女の言葉を素直に受け取るなら、教卓で顔の七割が隠れてしまっているこの少女がこのクラスを束ねる担任教師らしい。容貌のせいで意識に上らなかったが、そういえば服装はスーツだった。
彼女は生徒達を一通り見渡した後、小首を傾げてツインテールを揺らしながら白い歯を見せる。
「せんせい、ちょっとだけ童顔で小柄だけどみなさんの三倍は生きていますからねぇ。なめた口きくとブッ放しますから気をつけてねぇ☆」
突然の乱暴な脅迫。
開いた口がふさがらない。ただでさえ『縛接闘議』なる得体の知れない伝統があると聞いて慄いていた背理である。目の前にこんな珍獣が現れたら不安はさらに加速する。
「な、なあ、これはその『バクセツトウギ』とやらと関係あるのか?」
藁にもすがる気持ちで前の席に座る春樹に尋ねる。
「いや、ない。だから俺もビビってる……」
あたりを見渡すと背理や春樹だけではなく全員が驚愕していた。不自然に若いこの担任は勝手に不自然に若いだけで『縛接闘議』とは無関係のようだ。
パァンッ!
突如鋭い破裂音と共に背理の視界が白く染まる。
何が起きたか理解できたのは数秒後、白い粉が雪のようにふわふわと頭に降り注いできた後だ。机には爆心地と思われる跡がくっきりと残っている。
──誰かがチョークを投げつけたのだ。それも欠片も残らないほど粉微塵になる勢いで。
「えぇ~っと、座席表……。キミは……、拝島クンかなぁ? せんせいがおしゃべりしてる時には静かにおとなしくしてねぇ……」
担任・剛田悦子ことえっちーせんせいが背理の目を見てニコリとあどけない笑顔を送る。いや、確かに頬は緩んだのだが、目は全く笑っていない。
「ゴメンね、びっくりしちゃったかなぁ? せんせい見た目でどうしてもなめられちゃうから、毎年初日に誰かにチョークをブチ投げ散らかすことにしてるのぉ。でも体にはぶつけないから安心してねぇ」
教室はさらに静まり返る。呼吸の音すらない。
「す、すいませんでした……!」
硬直しきった体からどうにか声を搾り出せたのは奇跡と言える。なめているつもりは全くなかったしむしろ怖かったのだが、これでさらに恐怖の対象になった。なんせチョークが爆散するところなんて初めて見たのだ。
「これでも昔よりおとなしくなったのよぉ~、せんせい。四、五年前までは気に入らない生徒がいたら肋骨を一本没収することにしてたのぉ。たくさん集めたからそれで本棚作っちゃったりして☆」
ナイスジョークかましてやったぜのドヤ顔を生徒達に披露したが誰も笑っていない。泣いている女子は数名いたが。
「なぁ~んて、うそうそっ」
嘘であってくれ。初日してクラスは団結し、過去の教え子の無事を祈った。
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