A11.FREEZE!!!


 マスターは、こちらから声を掛ける前に、カウンターから鉄バットを取り出した。

 俺はそれを受け取りながら、そういえばこれで三度目だな、とふいに思う。

 琴姫さんから「三度目はない」と釘を刺されていたのだ。

 彼女の怒る姿は見覚えがないが、機嫌を損ねればよからぬことが起こるだろうことはわかる。

 それは重々承知の上で、しかし俺は止まるつもりもなかった。

 俺の意志が強いからではない。

 むしろ、弱いからこそ、それならそれで構わないかという諦観があった。


 実のところ、俺がどうしたいかというのはわからない。

 切見の言う通りだ。

 俺は俺のことがわかっていない。

 だからきっと信念も何も持ち合わせていないのだ。


 けれど、試してみても良いと思った。

 己を知るためだか、何かを手に入れるためだかはわからないが。ともかくやってみても良いと思ったのだ。

 だから、やる。

 俺が行動する理由なんて、そんなものだ。


「乙戯は外出していないな」

「今日の退出記録はないねえ」


 受付の牛谷氏へ確認を取り、二階へ上がる。

 AVルームは鍵がかかっていたが、中に乙戯がいることは明白だった。どうせノックしても反応はないだろうから、必要ない。


 鉄バットを振るうと、今度は一発で防音ガラスが弾き割れた。

 カーテンを引き、「乙戯、話をしにきたぞ」と中へ声をかける。

 現れた乙戯は、瞳を潤ませ、目下から頬にかけてを紅潮させていた。泣いていたのだろう。


「……な……なん……なんですか」


 乙戯はわなわなと唇を震わせる。


「わ、私、を、外へ連れ出しに、きたんですか」

「そんなつもりはない」


 無理に外へ引っ張り出しても結果は見えている。


「お前が外へ出たくなったのなら、お前の足で踏み出せ。それはお前自身がすべきことだ」

「で、出るわけ、ないと、思うんですけど」

「それならそれで良い。しかし、結論を出すのは、まだ早い」


 俺は、お前と会話をしに来たのだ。


「俺はお前をよく知れていない。おそらくは知った気になっていたのだと思う。そして同じようにして、お前だって俺のことを知らないだろう。これはコミュニケーションエラーの生じやすい状況だ。お互いの不理解というのは、非常に良くない。解決できる問題が解決できなくなてしまう。……俺の言葉が理屈っぽいのは、大目に見ろ」


 切見に言われたことが気になって最後に付け加えてしまう。


「ともかく、だ。まずはお前の話を聞かせてくれ。お前は、生まれてから今日に至るまで、どう育った。どうやって自分を作り上げた。何故そこまで、劣等感を抱くのだ」


 俺の言葉が届いているのかいないのか。

 乙戯は体を震わせるだけで反応を見せない。

 ――お前が先行を取る気はないというのなら、こちらのターンからだ。


「ようし。ならば、まずは俺の話をしよう」


◇ ◆ ◇


 ――語ってみろ、お前の物語を。

 そう告げても、乙戯はやはり口を開かなかった。


 これは駄目なのだろうか、とも思ったのだが、根気がないのは良くないことだ。切見に教わった。

 俺は床に尻をつけて、乙戯が話し始めるのを待った。


「ぎょ、魚類は、勝手ですね」


 久方ぶりに発せられた乙戯の言葉には、俺は見当がつかなかった。


「何がだ」

「こうやって私の部屋に踏み込んできてるのもそうですし、私に話をするよう強制してるのも、あとは自分の目的を他人任せにしてるとことか、全部です。……まぁ、勝手なのは、私も同じなんですけど」


 乙戯は、抱えていた枕を布団へ落とし、こちらへ体を向けた。


「こちらも大した話ではありません。貴方が我が家へやってくるよりも前からのことです」


 昔から、私はよく泣く子供でした。


 そうやって乙戯は切り出す。


「母や姉の影に隠れて、毎日を怯えて暮らしていた気がします。姉はそんな私にいつも『しっかりしなさい』とか『自分で話しなさい』とか文句を垂れていました。母は、口では私に優しかったですけど、いつも私を厳しい環境に放り出しました。無理矢理ジェットコースターに乗せられたり、蛇を首に巻かれたり、大型犬の群れの中へ放り込まれたり、小さな森の中心に置き去りにされて『3時間以内に脱出してみなさい』とか言われたり」


 本当に無茶苦茶だな、あの人は。


「母は、姉と同じことが私にも出来ると思っているようでした。姉――九条は優秀です。スポーツも勉強も何でもできます。……あぁ、そうです。極めつけは、小学生の頃、九条が作文で県の最優秀賞を取ったことです。スポーツも勉強も敵わないなら、せめて文章の世界で、と思っていた私の心は、見事に打ち砕かれました」


 俺も九条の作文が表彰されたのは覚えている。父から聞いたのだ。あいつの通っていた小学校のみならず、市での表彰式もあったらしい。


「貴方が我が家へ顔を見せなくなったのもその頃からだったと思います。……社家くんがうちに来た時、最初はショックだったんです。母は弱気な私のことも冷徹な九条のこともあんまり好きではないようでしたし。社家くんの言う通り、代わりに新しい玩具――子供を手に入れてきたのかと思いました」


 おそらくその見立ては合っているだろう。


「九条は上手く理由をつけて避けていたので、母に連れ回されるのは社家くんと私の二人でした。初めこそ、ショックでしたけど、あの、ええと、言いづらいですね……ん、わ、私は、社家くんのこと、仲間みたいに、思ってました。理不尽に振り回される、仲間。歪んでるかもですけど、良いじゃないですかそのくらい。でも、社家くんはいなくなって、母から連れ回されることもなくなりました。母は、私のことなんて社家くんのついでだとしか思ってなかったんです」


 そんなことはないだろう、と思ったのだが、事実は琴姫さんにしかわからないことだ。俺から口にできることはない。


「九条と明確に比較されだしたのは、中学生に入ってからのことです。クラスメイトが、先輩が、後輩に至るまで、みんなが『九条さんと姉妹なんて信じられない』と言いました。世間話のように、あるいは私に直接、耳が腐るほどです」


 あとは、もう沈んでゆくだけでした。


 そう言って、乙戯は顔を伏せた。


「初めは学校の図書館に篭もりました。けれど、そこにも他の生徒はいるし、嫌でも九条の噂話は私の耳に入りました。家でも同じです。部屋に篭もっていても平気で母は入ってくるし、家政婦さんだっています。居場所はなかったですけど、まだ学校よりも家の方がマシだったので、中学時代の後半はほとんどを家で過ごしました。幸いにも、高校は九条と違う所を選んで合格できたんですけどね」


 乙戯が通うのは赤星高校。

 九条の万羽NL学院とは同じ市内にありながら、教育方針も地理的な距離も大きく離れている。


「高校生活は、中学よりマシでした。九条はいませんでしたし、教室の隅っこで息をひそめるくらいのことはできました。でも、今度は大名賀の家にいるのがどうにも耐えがたくなって、我慢できず、貯めたお小遣いで生活に必要なものや錠前を買って、このAVルームへ住居を移しました。司書の人は、『凄いことをするなあ』って言うだけで許してくれました」


 以上。これが、私の物語ですけど。


「あまり面白くもないでしょう。ありふれた話です。小説の中でも、私みたいなのを嫌になるほど見てきました」


「お前の人生は、お前のものだ。他の何にだって代わるものではない」

「社家く――社家くんとか言っちゃってますけど、ええと、魚類は、平然とそういうことを口にしますよね。それも、自分がないから、ですか」

「呼び名は『社家くん』の方が蔑称でない分、マシなんだが……」


 俺が言うと、乙戯は「知りませんけど」と膨れ面をする。


「魚類。こういうのが、私です。貴方が期待するような人間じゃないんです。私の語った内容のどこにヒップホップ要素がありました? ないですよね? 勝てるわけないんです。私は、ここに篭もっているのがお似合いなんです」


 ――――。


「乙戯、人間にはどうして口が付いている?」

「ご飯食べるためですけど」

「それはそうだが。……言葉を操るためだと、そう言いたかった」


 乙戯は「回りくどい話やめてほしいです」と零す。


「だったら直接的に言ってやる。おい乙戯、以前にも伝えただろう。お前は勝てるわけがないと言うが、俺はお前がラッパーになれると思っている。ステージで勝利をおさめられると思っている。お前の物語は、お前の強みだ。劣等感は力だ。敗北の味だって、力になる」


「い、意味のわからないことを言わないでほしいですけど」


「それが、ヒップホップだからだ。MCバトルだからだ。言葉がそのまま武器となる。負け続けてきたお前の人生の中で、言葉で九条に勝負を挑んだことはあったか?」


「……口喧嘩と呼べないほどの、口論なら、幼い頃に少しだけ」


「技術だけではない。頭の回転だけでもない。才能もあるだろうし、なにより想いが込もってこそ人は魅了される。実のところ、吐き出す言葉が何で構成されていようが関係ない。それが極限まで研ぎ澄まされてさえいれば、想い一つでも、バトルには勝てる」


「……勝てないと思いますけど。プロのラッパーには」


「あぁまったくっ! これだけ言葉を重ねているというのに、どうすればお前は俺の言葉を信じる。俺とて、全力を出しているのに信用されないのは腹が立つ。いいか、おい、乙戯。お前の足で踏み出せとは言ったが、それはこれからずっとお前一人で踏ん張れという意味ではない。ステージに立つまでの道程をお前一人で歩む必要など、まったくない」


 なるほど、こうして言葉を紡ぐことで、俺自身、気付くこともあった。

 切見の言葉もあながち間違ってもいなかったのだ。


「お前の背中なら、俺は喜んで押し上げてやる」


「ふぐぅっ」

 乙戯が短く呻く。


「俺は自分のラップをすることはできない。けれどお前を説得する言葉は持ち合わせている。くだらない悩みは捨てろ。勝てないかもだなんて思うな。お前は勝てる。どんな強敵だろうと勝てない試合はない。勝つために全力を尽くして、もしそれで負けてしまったとしても、お前を責める奴は一人もいない。その頃にはもう、お前はラッパーになっている」


「わ、私、ラッパーになりたいわけじゃ……」


「俺は、お前がラッパーとしてステージに立つところを見たい。そうすれば、きっと俺にも違う景色が見える。あぁ、そうだな、この期に及んで図々しい話だ、確かに俺はお前に自分を託している。お前の意志を蔑ろにしている部分があるかもしれない。けれど、実際のところは、お前は、どうしたいんだ。勝ちたいのか。それともここに篭もっていたいのか」


 卑怯なものだ。

 俺は以前、乙戯の口から『勝ちたい』という言葉が出るのを聞いている。

 本心ではそう思っているのを知っているのだ。

 あとは乙戯が勇気を振り絞るだけだと、知っている。


「……勝ちたい」


 その瞬間は思ったよりも早く訪れた。


「と、以前の私は、思っていました」


 けれど、すぐさま奈落に突き落とされる。


「ずっとずっと劣等感を覚え続けていた私の中に、ふいに、一度くらい勝利をおさめてみたいと願いが生まれました。それは、生まれてみれば爆発しそうなくらい大きなものでした。どす黒いですけど、本物だったと思います。でも、すぐに霧散しました。メトロは強すぎます。あんなのに対峙したら、誰だって折れます。だからまた私は逃げたんです」


「……そうか」


 ここまで言葉を尽くしても、やはり乙戯は――、


「でも、勝ちたいと思う理由は、それだけではないと思います」


 顔を上げた乙戯が「ちょろいですね、私」と呟く。


「私は、明るい場所を知ってしまいました。魚類やヤンキーさんと一緒にヒップホップの練習をしていた私は、確かに以前とは違う私だったんです」


 乙戯が立ち上がる。パジャマに付いた毛くずを払う。


「このAVルームは天国かもしれませんけど、少し、寂しいんです」


 おもむろに乙戯が右手を差し出す。

 握手だろうかと思い、その手を握ると、乙戯は言った。


「引っ張って、くれないんですか?」


 思わず笑ってしまった。


「背中を押し上げてやるとは言ったけどな。まぁ、それならそれで」


 俺は彼女の手を引く。

 乙戯は楽しそうに言った。


「仕方ないですね。魚類がそんなに熱心に誘うなら、やっぱり大会に出てあげます」

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