A10.つきとさなぎ
ラッパー、メトロ。
本名、吉田雛。
17才、女子高生。万羽市赤星高校に在籍。
数ヶ月前から数々のバトルへ出場し、新人ながら輝かしい戦績を誇っている。
バトルスタイルは極めて攻撃的。ベテラン勢も顔負けのスキルで対戦相手を圧倒する。とあるバトルで彼女自身の放ったパンチラインから、ヘッズには『超新星』とあだ名されている。
「何故、メトロの出場を俺に教えなかったんですか」
『言ったら、おとぎちゃんに言っちゃわない?』
――――。
『あっははー☆ 黙っちゃうのが答えだよね? 面白いな~。じゃ、そういうわーけでっ!』
琴姫さんとの通話が切れる。
背後の切見が「おい、どうなったんだよ」と騒々しい。
「……メトロは、本当に出場する。お前らは、優勝するためにはメトロに勝つ必要がある」
「うへえ。マジかよ。なかなか骨が折れんぜ」
その反応で済むのが、こいつの美徳なのだろうな。メトロが出場しようとまったく意に介さない。特に問題視する必要はないだろう。
問題があるのは、もう一人の方だ。
ポスターを貼る作業を一旦止め、鞄を提げて万羽高校を出る。
「おいコラ、どこ行くんだよ」
「図書館に決まっているだろう」
「あん? 作業の途中なんだろ、もう練習始めんのか? まー俺様は嬉しいけどな」
想像力の欠如している切見を引き連れ、図書館へ向かう。
ホールを抜け、喫茶『太陽』を覗くが姿はなし。図書館の二階へ上がり、AVルームのドアをどんどんと叩く。
乙戯は「うるさいんですけど」と不機嫌そうな顔で現れた。
「ちょっと来い」
「はい? 何ですか急に? 練習始めるならまぁ行きますけど」
乙戯を連れて喫茶『太陽』へ戻る。切見は律儀に後ろを付いてきていた。
マスターへアイスティーを注文し、三人でテーブルを囲む。
間髪入れず、俺は乙戯へ「見ろ」とポスターを手渡した。
ポスターを「何ですか、これ?」と受け取った乙戯は、初めつまらなそうに紙面へ目を落としていたが、次第に表情を険しくさせてゆく。
「こ、これ、前に、渋谷で観た……」
「そう、あのメトロだ。さすがに予想外だったな。なかなか勝つのは難しいだろうが、ひとまず対策を考えるぞ」
乙戯は何も答えなかった。
ポスターを手に、だらしなく口を半開きにして体を震わせる。
心情は理解できる。
乙戯は小心者だ。切見と違って、メトロなんていう強敵が目の前に立ちはだかれば、尻込みしてしまっても仕方がないだろう。
けれど、勝利をおさめるためには、恐怖を捨て去り、挑まなければならない。こんな場所で立ち止まっている場合ではないのだ。
「乙戯。一刻も早く、対策を打つ必要がある。九条よりもこの切見よりも、最大の強敵はメトロだ。あいつとは明白な実力差がある。対策なしで勝てる相手ではない」
切見が「あん? 俺様は対策なしで勝てるっつうのか?」と肩をいからすが、こいつの実力も、メトロと比べれば月とすっぽんだ。
乙戯は、俺が声をかけても変化を示さない。
「……ともかく、一旦、作戦を練るぞ。幸いにも、メトロのバトル動画はネットに何本かあがっている。まずはこれを研究して――」
「ぎょ、魚類、は……」
乙戯が口を開いた。
「魚類は、わ、私が、こ、この人に、勝てると思ってるんですか」
「そりゃあ難しいだろうが、可能性はあるさ」
「そ、そんな、わけ、ないじゃないですかっ!」
乙戯が甲高く叫ぶ。ぎゃあぎゃあと騒いでいたアマテルズの連中が口を噤み、こちらへ視線を寄せる。横目でマスターを見れば、彼女も新聞をめくる手を止めていた。
「魚類だって、実力差は明白だって言ったじゃないですかっ! こ、こんなの違う世界の住人ですけどっ! わ、私は、と、図書館に篭もる、陰キャで、あんな、ステージの上で、輝いてる人なんかとは、全然、違うんです」
「違おうとどうだろうと、お前には勝つべき理由があるんだろう」
「そ、そんなの、知らないです。知らないんですけど。あ、あぁ、もう無理。無理です。所詮、私なんかには到底不可能だったんです。もう嫌です。もうたくさんです。もう、折れました」
……尻込みするとはいっても、まさかここまでとは。
「そう簡単に折れるなよ、乙戯」
「か、簡単じゃ、ないんですけどっ! 悩んだ末ですけどっ! あぁもう、最悪です。ラップなんて、もうやめです。始めたのが、そもそもの間違いでした」
ラップを始めたのが間違い?
「――お前は、ラップが出来るっ! 十分備わっているだろうっ! それをどうして立ち止まる理由があるっ! ふざけるなよ!」
「ぎょ、魚類は実際にバトルしないから好き放題言えるだけだと思うんですけど! じ、自分は、ラップなんて、できないくせにっ! 外側からとやかく言わないで欲しいですけど!」
「…………っ」
俺はラップができない。
その事実は、自他ともに認めるところだ。
しかし、だからこそ、俺は心臓に釘を打たれかのような痛みを覚えた。
自覚していたつもりだった。けれど、客観的に指摘されるのは、また違った感触がある。
この場に張り付けられて、一生涯、動き出すことができないかのような痛みが体中に広がるのがわかった。
そうやって、怯んでしまったのが駄目だったのだろう。
誰の止める間もなかった。
「もう知りません」
と、突然に立ち上がった乙戯は、喫茶『太陽』を飛び出していった。
図書館を走っては駄目、と乙戯はいつだか俺に注意していたが、彼女自身がそのルールを破っている。小さな背中が去って行くのを、俺は見守ることしかできなかった。
乙戯の姿が完全に見えなくなったところで切見が言った。
「おいコラ、シャケ、あいつ逃げたぜ」
「そうだな」
「いや、『そうだな』じゃねえだろタコ。てめえも行かねえのかよ」
俺は、乙戯にラッパーとしての素質を見出した。
自分とは違うものを持つ乙戯は、ラッパーとしてステージの上へあがれるのだと信じた。
乙戯は小心者だ。そこが乙戯の弱みの一つ。
弱みなら克服すれば良い。尻込みしてしまったとしても仕方ない。それを乗り越える気力があればバトルには臨める。そう思っていた。
しかし小心者にも限度がある。
この世界には、逃げて良い局面と、逃げてはならない局面が存在する。
残された時間は限られている。すぐにでも打倒メトロを目標に対策を練っていかなければならない。
そんな状況で、逃げる?
――俺の選択は果たして、正解だったのだろうか。
ここで逃げてしまう人間が、本当にラッパーたりえる器なのか?
小心者というのは弱みどころの騒ぎでなく、ラッパーとして致命的なのではないか?
内に何を秘めていようが、それらを発露できなければ何の意味もない。
ラッパーとしての素質というのは、内に秘めた感情だけでは不十分なのだろう。
俺にはない、その感情を、あいつは持っているというのに。
それ以外が足りていなければ、ラッパーにはなりえない。
「……今日は、一旦、練習はやめにする」
「あん?」
「明日からのことは、また明日決めよう。俺にはまだ作業が残っている」
机の上へ放り出されたポスターへ目を落とす。
もしかすると、ポスターの修正が必要になるかもな。
立ち上がり、喫茶『太陽』を出ようとしたところでマスターから声がかかった。
「アイスティーは?」
あぁ、そうか、三人分を注文していたのだった。
「すまん、いらん」
俺はそう答えると、ホールに何枚かポスターを貼り、そのまま図書館を去った。
◇ ◆ ◇
「今日は家にいるのか。どうしたんだ?」
土曜の午前。部屋へ現れた父にそう声をかけられた。
一ヶ月前ならば、父からそんな言葉は出てこなかったろう。
かつての俺は、土曜だろうと日曜だろうと、部屋に篭もってヒップホップを聴いたりバトル動画を観たりなどするばかりだったからな。
しかしここのところは、すっかり図書館通いの身になっていた。こんな生活は、琴姫さんに連れ回されていた頃以来のことだ。
それがまたぱったり元戻りになったのだから、父の懸念も理解できる。息子の心境にどういう変化があったのかと、気にもなるだろう。
「午後になったら琴姫さんのところへ顔を出す。一日中部屋に篭もっているわけではない。そう心配するな」
「うーん、そういう意味じゃなくて、他にやっていることがあったんじゃないのか。お前、いつだか駅前の商店街で音楽をかけていただろう」
なんだ、あれだけ酔っ払って、覚えていたのか。
「そちらも、心配するな。その後で図書館へは行くつもりだ」
「ふうん、それなら良いんだが……」
あれから、乙戯からは何の連絡もない。
おそらく、もう戻ってこないつもりなのだと思う。
心が折れてしまったという彼女の言葉は、その場限りの嘘ではなかったのだ。
だとすれば、残念だが、俺も諦める他ない。
乙戯自身の言うように、初めから難しい話だったのだろう。引き籠もりを患っていた乙戯が、外の世界へ出て、切見とバトルをするまで至った。これで上等だろう。これ以上は、あいつの出来る範囲を超えている。
バトルに誘う際にも、難しそうなら途中で棄権しても構わないと伝えていた。あいつは棄権を選んだ。俺は、大会の実行委員としてそれを受理した。それだけのことだ。なにもおかしなところはない。
それに、乙戯はいなくとも、まだ切見が残っている。
俺の生徒は一人ではない。俺には切見をステージに立たせる義務がある。
打倒・メトロ。俺はその力添えになるのだ。
乙戯と同じくラップ初心者だった切見がメトロを倒すところを見られれば、もしかしたら俺は変わることができるかもしれない。
乙戯が駄目なら、切見に託す。
非道なようだが、これが俺だ。
「相談事なら俺が聴いてやるぞ。お前はどうにも顔や言動に出にくいからなあ」
父はそう言って扉を閉めた。
余計なお世話だと思ったが、それを口にする間は与えられなかった。
俺はバトル用ビートの選定作業へ戻り、腹の虫が鳴き始めると部屋を出て昼飯を食べた。
◇ ◆ ◇
琴姫さんと大会当日の段取りを打ち合わせ、図書館へ向かうと時刻はすでに16時となっていた。
喫茶『太陽』へ入った瞬間、切見から「おせえぞコラっ!」と怒鳴られる。そういえばスマホにも何件か切見からメッセージが届いていたのだった。一言「すまん」と告げると、俺は昨日飲みそびれたアイスティーを注文して、切見の正面へ座った。
「さて、今日からは、お前自身の特訓と並行して、メトロへの対策を考えていこうと思う。ようは、作戦を練るわけだな」
「おいコラ、ちょっと待て。俺様の特訓は良いんだけどよ。相手がいねえんじゃできねえだろ。あのクソ眼鏡はどうした」
「今日は、ここにも現れていないのか」
「つうか、普段もほとんど来ねえよ。練習の直前に時たま顔出すだけだぜ」
「ふうん、ならば仕方ない。相手はアマテルズの誰かに務めさせよう。壁に向かってラップするよりはマシだろう」
「そうじゃねえだろ、てめえコラぁ……」
がたんと音を立てて切見が立ち上がる。うなり声を発し、鼻と鼻がぶつかるほどの位置まで、顔を近づける。
「俺様はなあ、乙戯の奴を連れてこいっつってんだよ」
「あいつ自身が諦めているんだ。無理筋だろう」
切見は、そのままの体勢で「無理じゃねえよボケっ!」と叫んだ。唾が俺の顔へ飛んでくる。
「そりゃあ俺様も最初は無理だと思ってたぜ。でもよ、結局、あいつは俺様と一戦やり合っただろうが。おいシャケこら、てめえは今まで何を見てきた? 何度も何度もバトルを繰り返してきたあいつを、ここにきて見捨てんのかよ?」
「見捨てるわけではない。おい、切見、お前は、ここで逃げるやつがステージに上がれると思うのか? ラッパーに必要な胆力があいつにないのなら、素質も意欲も何も持ち合わせていないのなら、終わりなんだ。ラッパーは、自分自身で立ち上がらなければならない」
「ぐだぐだうっせえええなっ!」
切見に胸ぐらを掴まれる。払いのけようと彼女の右腕に両手を回すが、びくともしない。己の非力を恨む。
「ラッパーがどうのこうの、今は関係ねえだろうが! てめえのポリシーだかなんだか知らねえけどよ、気にくわねえことは気にくわねえと自分の言葉で言えよコラ。何に気を遣う必要もねえ。おい、あいつはお前のダチじゃねえのかよ? ダチがへこんでたら普通は助けるもんだろうがっ!」
俺のポリシーだとか、自分の言葉でだとか。
そういうことを言えるのは、切見が俺の性根を知らないからだろう。
俺に喜怒哀楽はあれど、信念はない。
乙戯をステージに立たせたかったのも、強烈な義務感に駆られたからだ。あいつをステージに立たせれば俺も変われるかも。その小さな可能性を見出した。だからあいつが勝利する姿を見たかった。
けれど今はもう、その可能性を無くしている。
「……俺のなかに、友情という言葉はない」
「ああん?」
「乙戯とお前に稽古をつけたのも、渋谷へ連れて行ったのも、DJを務めてやったのも、全て自分のためだ。全て俺が、欠けた何かを手に入れるために、行動していた」
「いや、よくわかんねえ話されてもよくわかんねえけどよ」
俺の言葉を切見は一蹴する。
「俺様から見りゃ、てめえが色々手を回してたのは、全部、乙戯のためにしか思えなかったぜ」
「残念ながら、それは違うな。お前の目が濁っていただけだ」
「うるせえなボケ。何で違うって言えんだよ。てめえのことはてめえが一番わかってるなんて嘘っぱちだぜ。てめえはきっちりしてそうに見えてふわふわしてやがるからな。理屈っぽい言葉で誤魔化してるだけだろうが。むかつくけどよ、俺様と乙戯とじゃ、対応の違いがよくわかったぜ。良いか、耳かっぽじってよく聴けよ」
目蓋を大きく持ち上げて、切見は続きを口にする。
「お前が乙戯の世話をしてたのはな、お前が乙戯に惚れてたからだよ」
十数秒、切見は表情を崩した。
「あ、んー、あれだぜ。惚れてたっつっても、その、男女的な? 意味あいじゃないぜ?」
再び眼力を取り戻す。
「……人間として。てめえ風に言い換えりゃあ、ラッパーとして、だ。てめえはラッパーとしての乙戯に惚れてたんだよ。だから尽くした。そんだけの話だろうが」
「――そう、言われても。俺は、まったく、そんなつもりは」
そうやって戸惑う自分に驚いた。
きわめて暴力的だが、切見の言葉は俺の脳へ突き刺さったのだろう。
頭の中がリセットされ、真っ白になってしまっていて、思考がままならない。
「おう、ようやく悩み出したかボケ。しっかし悩む時間も無駄だ。まずは話しやがれ」
「誰と?」
「そんなことも言わなきゃわかんねえのか。ちったあ自分の脳みそ使って考えろ。少なくとも、俺様よりもてめえの方が頭の出来は良いんだろうが」
そこでようやく切見は俺の胸ぐらから手を離す。
解放された俺は、一人、その場に立つ。
「飲む?」
マスターからはアイスティーが差し出される。
俺は「どうも」とグラスを受け取ると、ぐいっと一息に中身を飲み干した。
真っ白になっていた思考に、徐々に色が灯りだす。
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