A8.RGTO


 小節を教えた。韻を教えた。ビートを教えた。バトルを教えた。


 知識としてのヒップホップは――切見はさておき、乙戯の頭の中には構築できているだろうと思う。

 次は実践だ。けれど実践に移るには、一枚、大きな壁の隔たりがある。

 知識を得るだけならば受動的で良い。だが、実践には能動的なアクションが必要になる。乙戯が、自ら、一歩を踏み出す勇気を持たなければならない。


 正直、乙戯はまだ切見という人間に慣れていない。切見に話しかけられればぽつぽつと返事はするが、逆に言ってしまえばそれだけだ。

 俺相手には、なかなかでかい口を叩いている乙戯である。やってやれないことはないはずだ。

 ここで、勇気を振り絞らなければならない。

 でなければ、バトルのステージには上がれない。


「む、無理……っ! 無理ですけど! わ、私、ラップなんてできませんしっ! 魚類、私を殺す気だと思うんですけど! 私の心臓を見くびりすぎですけど! ショックで死にますけど! 訴えたら勝てますけど! なんなら裁判に持ち込んでも私は構いませんけど! 弁護士雇いますけど!」

「けどけど五月蠅いぞ。今更つべこべ言うなよ」


 喚く乙戯をなかば引きずるようにして図書館から連れ出す。

 ずるずると駐車場を歩いてゆくと、商店街の光が徐々に近付いてくる。


「え、あ、あの……どこに行こうとしてます……?」

「歩いている方向でわかるだろう。商店街だ」

「ま、まさか、商店街でバトルをしろと……?」


 何も答えない。

 乙戯が逃げる力を強めたので、「切見」と声をかける。


「お、横暴ですっ! スパルタにも程がありますけど!」

「うるせえなあ。殴り飛ばすぜ」


 二人がかりで乙戯を引きずり、ようやく商店街へと辿り着く。

 土曜の夜10時。こんな時間帯に商店街を歩くのは有象無象の酔っ払い共だけだ。

 乙戯を切見に任せると、肩にかけたバッグからノートPCとスピーカーを取り出す。スピーカーは地面に並べ、その上へノートPCを広げる。縁石へと腰を下ろし、スピーカーをノートPCへ接続し、DJソフトを起動。これで準備は万端だ。


「乙戯はそこの看板の横へ立て。切見は――そうだな、乙戯から適当に距離を取ってくれればそれで良い」


 俺が言っても乙戯はいつまで経っても移動しようとしない。痺れを切らした切見が乙戯を引きずった。乙戯は「ふぅうう」と鳴き声を発する。

 すると、俺たちの姿に気付いたのか、まばらにいた商店街の酔っ払い共が「なんだなんだ」と楽しげに寄ってきた。さすが酔っ払い。イベントごとには敏感である。


「へぇえ~~い、何をしてんだい、ぼーいずえんが~る?」

「ストリートライブかい? へいへぇええええええいほぉお~~」


 四十過ぎのおっさん二人組に話しかけられたので、俺は「MCバトルだ」と短く返す。酔っ払い共は「おっほお知らなああ~~~~い」と叫び声をあげた。アルコールに脳をやられたそのどうしようもなさは、リビングでビールを煽るうちの父に似ている。

 あぁ、というか実際、酔っ払い集団の中に、よく見知った姿も混じっているではないか。後輩らしき男に肩を預け、「しゃらしゅけ~~」と赤ら顔の父は見ていられない。他人のふりをしようと思う。


 しかしそれはさておき、このテンションの高さは丁度良いな。


「よし、こいつらを審査員にするぞ。バトルの結果は、酔っ払い共の歓声が大きい方で決める」

「お、面白そうだな」

「~~~~~~~~っ!」


 乙戯は何か言いたげにこちらを睨んでくるが、気にせず話を進める。


「今日は司会進行役がいない。俺がビートを流すので、先行は適当なタイミングで始めて良い。勝負は8小節2本制。8小節ごとにスクラッチが入るから、そうしたらターンが入れ替わると思え」

「スクラッチってなんだよ」


 散々今日の大会で聴いたはずなのだが、仕方ない、DJソフトでスクラッチを流してやる。ドゥクドゥクと音が鳴り、切見は「おうそれか」と納得した表情を見せた。


「酔っ払い諸君。これからこの二人がMCバトルをする。MCバトルというものをよく知らない人間もいるだろうか、各々の観点で適当に審査をしてほしい。良かった方に声をあげろ」


 俺が言うと、酔っ払い共がやんややんやと奇声を上げる。俺の言葉を理解しているのかは怪しいが、まぁ問題ないだろう。


「二人とも、じゃんけんだ」


 切見が「いくぜコラっ! 最初はぐう、じゃあんけぇええんっ!」と威勢良く腕を振りかぶる。乙戯は慌てた様子でそれに従い、結果は乙戯の勝利となった。


「乙戯、先行後攻どちらにする」

「……う……こ、後攻で、お願いします」


 ここまできたら逃れられないと思ったのか、バトルに参加するつもりはあるようで何よりだ。


「では始めるか。先行、切見。後攻、乙戯。好きなタイミングで始めろ」


 ビートはこれ。こいつらのために、やるならこの曲だろう。

 RGTO。ラップゲームのトライアウト。曲のテーマとしても、ビートのわかりやすさからしても、二人にはおあつらえ向きだと思う。

 ビートが開始。好きなタイミングでと言ったからか、すぐさま切見は口を開いた。


「よーよー俺様 切見 夜音 ふろーむアマテルズっ! イェー! 覚悟は良いかよおいてめえコラ さっきからクソなしけた面っ!」


 まったく韻を踏んでいない。

 が、バイブスは感じられるし勢いはあるな。リズムキープもぼちぼち出来ている。悪くない。


「そんなんで俺様に 勝てると思ってんのか よお! 背負ってるもん 何もねえんだろ? 大会前に潰してやるぜ馬鹿っ!」


 若干リズムに怪しい部分はあるが、まぁ及第点といえる。ラップにはなっている。


 けれど、対する乙戯は――、


「……ぁ……の……」


 うめき声のようなものを口にしたきり、一向に言葉を返さない。


 ――乙戯は自他共に認めるあがり症だ。もうその性分を取っ払うことは出来ない。

 観客の数はせいぜい十数人。この人数であがっていては、本番ではどうなってしまうことか。


 しかしだからこそ、今のうちに慣れてもらうしかない。

 バトルも一つの会話だ。俺との会話をずっとずっと延長させていくと、その先にバトルがある。少しずつでも歩いて行けば、いつか辿り着けるはずなのだが。

 しかし乙戯は8小節を一言も発さないまま終え、ターンを切見に渡してしまった。スクラッチ。


「おいおい続けんのかよこれ まぁシャケが止めねえならやってやるか よおコラ 黙ったまんまじゃ何もわからねえ 俺様の勝ちか? / マジで 勝ちか 本番もこりゃあ 俺様優勝まっしぐらだぜ ……あー マリエッティっ!」


 マリエッティってなんだよ。


 再び乙戯の番。スクラッチを入れるがしかし、


「…………っ」


 歯を食いしばり、震えるのみ。乙戯は口を開かない。

 そしてそのまま8小節が過ぎ、バトルが終了する。


「一応聞いておくが、先行・切見の勝ちだと思う奴は手を挙げろ」


 言うと「うぇいうぇいうぇーーーーーーいっ」と酔っ払い共が手を挙げる。後攻の乙戯については聞くまでもないな。


「勝者、切見夜音」

「よおおおおおっしゃあぁああああああっ! おおおらああぁぁぁぁあああっ!」


 名前を呼んでやると、切見は高らかに雄叫びを上げた。野生に目覚めている。


「そりゃ当たり前でしょ」「ようわからんけどまあ喋らんのはよくないわな」「うぇええい」「その子どうしたの? 大丈夫?」「しゃらしゅけえ」「おなかすいた?」「飴やろかな?」「おっちゃんのソーセージ食べる?」「セクハラ親父死に晒せ」「ポークビッツ!」


 酔いが回っているのか、おっさん連中は阿鼻叫喚だ。


「切見、ビートを変えずもう一度やるぞ。先行後攻もそのままだ」

「シャケおいコラ。まだやんのかよ。俺様の勝ちで終わりで良いだろ。もう言うことねえよ」

「いやお前、とりあえずマリエッティってなんだよ」

「俺様の後輩だ! 一緒に飯も食っただろ! 知らねえのかよてめえ!」


 そう堂々と答えられると「そうか」としか言えない。


「これはお前のための練習でもある。本番で突然に後輩の名前を叫んでどうする。言うことがなくとも絞り出すのがラッパーだ。意味のない韻は嫌われるぞ」

「んあー、確かにそれもそうか。一理あるぜ」


 間髪入れず、スクラッチ。


「おいおい急すぎんだろ まぁいいや とりあえずてめえの駄目なとこ全部言ってやる まず顔 体 あと頭っ! 全部俺様に劣ってんぜ! / 良いとこありゃしねえ そりゃ勝てねえ 俺様に勝ってるとこ一つもねえ 永遠に勝てやしねえ 経験値の差だぜ!」


 リズムは良いが、あまりにも言葉が的を射ていない。顔も体も頭も全て乙戯に勝っているとは言いがたいし(特に頭)、二人とも初心者なのだから経験値など似たようなものだ。


 けれど、まぁ言ったもん勝ち。

 相手はまったく返事をしない乙戯だ。何を言おうが問題ない。


「ちっ 俺だってよお 気持ちはわかるぜ いや嘘 わかりゃしねえがなんつうかあれ お前を理解はしてる おうこれだなこれ / 俺様 たまに 怖がられる だってアマテルズの番長だ仕方ねえさ けど怒ってるわけじゃねえし まずは喋ってみろコラ!」


 やはり返事はなし。バトルが終わる。

 酔っ払いによる判定で、勝者は切見。当然だ。


「次いくぞ。ビート変わらず、先行後攻も同じだ」

「マジかよ!」


 切見の文句を聞き流し、スクラッチだ。


「上等だよ ありえねえ 徹底的に言ってっやる 俺は正直文字が嫌いだ 本が嫌いだ小説が嫌いだぜ! / お前の好きを 全否定 図書館に篭もってんだろ よお 乙戯 どうだコラ 口に出してみろよ おい!」


 返事はない。


「あぁああああ例えばそうだな てめえ 市長の娘 なんだって あのクソ市長 アマテルズ舐めやがって 地獄に落ちろ! / 親が親なら娘も娘 言葉通じねえ ふざけてやがる おら返してみろよ! 勝つんじゃねえのか勝つ気はねえのか! 大名賀乙戯!」


 切見の叫びも届かない。乙戯は震えるのみだ。勝者は切見。

 切見は、長く息を吐くと、低い声を出した。


「シャケ、コラ。もう良いだろ。三度目のなんちゃらっつう奴あんだろうが」

「…………」


 さすがに、このまま続けても先はないか。

 ここで諦めたら、おそらく乙戯は終わりだ。もう立ち上がれない。

 ほんの一歩だ。一歩、踏み出す何かがあれば、乙戯は進み出せるはずなのに。


「乙戯……お前に、琴姫さんや九条みたいながめつさがあれば良かったんだけどな」


 ふいに乙戯が顔を上げる。

 瞳を大きく開き、こちらに目をやっている。


「どうした。口にしなければ何も伝わらない。琴姫さんだって九条だって、切見だって、全部口に出すだろう。コミュニケーションの基本だ」

「に、二度目、なんですけど」

「二度目、と言われても意味がわからない。……ともかく、このまま俺とお前で会話を続けていても仕方ない。切見に悪いからな」


 そう、一応は乙戯だけでなく、切見も俺の生徒だ。バトルの練習というのは、相手がいなければほぼほぼ意味がない。残念ながら、返事をかえさない乙戯では練習相手にはならないのだ。


「一旦、バトルをやる気になるまで、お前の代わりに酔っ払い辺りを切見の相手に――」


「は、はぁあっ?」


 びたりと、時が止まったかのように思えた。

 それほどまでに、先ほどまでの震えが嘘のように、乙戯は急激に声を大きくした。

 乙戯の言葉に野次を飛ばしていた酔っ払い共が口を噤み、切見が振り返る。


「……魚類、ビートをよこしてください。今ならやれそうです」


 低く威嚇するような乙戯の声は、場に緊張感を漲らせる。


「じゃあ、先行後攻入れ替わって――乙戯からだ」


 スクラッチ。

 乙戯が、大きく大きく、口を開いた。


「魚類 いえ社家佐良助ですか 本当に他人の心がわからないんですね 信じられないですけど 国語の授業ちゃんと受けてました? あなた 馬鹿な 頭 魚 / だから? 韻ってこんな感じで良いんですか? 私の代わりとか 母のこととか九条のこととか 話したじゃないですか何でそうやって比較するようなことを言いますかっ!」


 速い。畳み掛けるように言葉を紡ぐ。同じ8小節で、切見の倍ほどの言葉を吐き出してるんじゃないか。


「お、俺様が返すのか?」


 切見がそう思うのも無理はない。乙戯のディスは、俺へのディスだ。


「あぁ返答がないようなのでもらいましょうか。不肖・大名賀乙戯 ここからはヤンキーにもの申します」


 本来なら切見のターンだったはずの8小節が終わる。スクラッチだ。


「難しいこと考えられない頭 つつましい胸 それでよく私が劣ってるなんて言えますね 頭の中でたわしが踊ってるんじゃないですか? 回り回って形見残して消えてください / そもそも魚類と私のマンツーマンだったはずなんですけど 何でヤンキーが参加してくるんです? 短気なだけのヤンキー いらないです嫌ですやめてほしいんですけど!」


「はっ」


 スクラッチと共に吐き捨て、切見がアンサーする。


「いきなり言うよなてめえよお こっちから見りゃ邪魔者はてめえだぜ アマテル妨げる お前らみんなが敵だっつうの! / そもそも俺様がきたら勝手にいやがったのてめえの方だろ どんだけ自己中 やってられねえクソ雑魚女 図書館に引き籠もってろ!」


 終了。

 酔っ払い共がわっと沸く。

 勝敗を聞くと、乙戯の名を呼んだ直後、大きく声が響いた。


「ふっふー、あら私の勝ちみたいですけど。いえ大きな口を叩くだけのヤンキーさんはやっぱり口だけなんですねよくわかりましたね」

「なんだとてめえそもそも三回負けてんだろうが! おいシャケもう一回ビート流せボケ」


 じゃあジャンケンをしろ、と言う前にすでに二人は腕を振りかぶっている。


「ビート変わらず。先行、乙戯。いくぞ」


 スクラッチ。


「ヤンキー昔から嫌いなんです 短気だし頑固だし 簡単なことを散々言っても理解できないあんぽんたんじゃないですか ですよね? ね? / 本当に頭が痛くなります 正直あれを口走りたくなりますね! はい! 可愛く言うならマザファですマザファ! まさかのマザファ! どぉおーんっ!」


 ……普段は大人しくしている癖に、内面は本当に歪んでいるよな、こいつ。


「はあー? なんだとてめえ喧嘩売ってんのかこらボケナス とぼけたって無駄だぜおい こっちこそ返してやるぜ おらマザファだぜ! / イェー お前片手 俺様両手 どうだ 倍プッシュでマザファだぜ これで俺の勝ち! マジ! 確定だっぜっ!」


 乙戯と切見は、互いに中指を立て合っている。本番でやったらブーイングの嵐だろう。

 ビートが鳴り止んでも、二人は「野良犬!」「毒キノコ!」ともはや韻も踏まぬ単なる暴言を吐き続ける。

 そんな二人を取り囲む酔っ払い共は「うひょおおお」「ええねえ」「しゃらしゅけえ」「青春だあ」「わしのことも罵倒して」「ポークビッツ!」と野次を飛ばしたり爆笑したり。もはや地獄絵図である。

 けれど、そんな地獄の中でも、乙戯は「魚類っ! ビートっ!」と俺を急かす。

 その姿にもはや壁はない。


 くだらないバトルでも、バトルはバトルだ。

 乙戯は、ラッパーとしての道程の、初めの一歩を踏み出した。

 乙戯はラッパーになれる。俺の審美眼は間違っていなかったのだ。


 乙戯と切見は三度ぶっ続けでバトルをして、切見が一本、乙戯が二本取得。勝負は切見の勝ち越しとなった。

 ぜえぜえと肩で息を吐く二人は、憔悴しきって地面に倒れ伏している。

 酔っ払い共は、初め二人の激闘を称えていたが、次第に飽きたのか、家へ帰ったり居酒屋へ戻ったりと、散り散りになっていった。最後まで父と他人で通せたのは喜ばしいところである。

 地に伸びた背中の内、黒髪が乗っかっている方へ言葉を落とす。


「どうだ、乙戯。満足したか」

「……前哨戦としては、まぁそこそこに、ですけど」


 良い答えだ。本当に満足されたら困る。吐き出すものがなくなれば、戦えなくなるからな。


「はっ。前哨戦? 雑魚が吠えやがるぜ」

「なんですかヤンキー。もう一回やりますか」

「俺様は別に良いけどよ、てめえがもう限界だろうが」

「は? 限界じゃないですけど。私のことは私が判断しますけど。何言ってますか?」


 乙戯はもはや切見とも普通に話せている。

 この調子なら、問題ないだろう。大会にだって出場できる。


 RGTO。ラップゲームトライアウト。

 文句なしの合格だ。

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