A5.無重力ガール
「ふうん、乙戯ちゃんは大会に出場するんだ~?」
「ですね」
「シャケくんやるな~☆ 思ってた通りだね。じゃ、引き続き頑張って~」
報告をしろと呼ばれて来てみれば、琴姫さんとの会話はものの数分で終わってしまった。
勝手なものだと思うが、姫さまらしいとも言える。
出場者はこれでようやく三人だが、琴姫さんにはあまり焦りの色がない。もしかしたらそれほど多くの登録を期待していないのかもしれない。
だとしたら乙戯には朗報だろうが、琴姫さんの目的には疑問が及ぶところだ。これまでの経緯からして、てっきり、乙戯を叩き潰し、図書館から連れ戻すために大会を企画したのだと思っていた。乙戯を勝たせにくくするなら、出場者は多い方が良いに決まっている。
果たして何を考えているのか。もしくは何も考えていないのか。本当に、真意の読めない人だ。
家へ帰ると、乙戯は、荷物を背に玄関口へ立っていた。
にやりと薄く笑みを浮かべ、
「魚類。いいところへ帰ってきました。さあ、早くこれを図書館へ運んでください」
乙戯が『これ』と言うのは、背後の鞄二つを指しているのだろう。
「いや自分で運べよ」
「はあ? 魚類は私に協力するって言ってたはずですけど。嘘は良くないと思うんですけど。魚類には義務が生じているはずですけど」
「都合の良い解釈をするな。ヒップホップのことを叩き込むと言っただけだ」
母親が母親なら、娘も娘だ。
乙戯は似ていない家族と言っていたが、血の繋がりは拭えない。
「そんなの知りません。いいから運んでください」
なおも詰め寄ってくるので、俺は仕方なしに「半分は自分で持てよ」と鞄を手に取った。自分でもお優しいものだと思う。
「持つならこっちを持ってください」
厚かましくもそう言って手渡された鞄は、初めのものより倍ほど重い。苛立ちが募る。
AVルームへ荷物を運び入れ、重かった方の鞄を開けてみると、中から出てきたのは大量のCDだった。そのジャケットはどれも見覚えのあるものばかりだ。
「お前、これ、もしかして俺の私物じゃないか」
「ちょっと拝借しただけですけど。悪いですか」
「勝手に部屋へ入るなよ。悪いことしかないだろう」
涙を流して吹っ切れたのか、乙戯の厚かましさはもはやうなぎ登りだった。俺を家来か何かだとでも思っているのだろうか。
とはいえ、以前の乙戯と比べたら、月とすっぽん。ラッパーとはこうでなくては、と思うところもある。腹は立つが。
「まぁ良い。それなら、丁度良いから今日一日はずっとそのCDを聴いてろ。まずは耳をヒップホップに馴染ませる」
俺が言うと、「仕方ありません」と答え、乙戯は先頭の一枚を開いた。
奇しくも、ここはAVルーム。どれだけ大音量で聴いても咎められはしない。ヒップホップの練習をするのにも最適な場所と言えるだろう。
トラックが流れ始めたのを確認し、俺はそっとAVルームを出た。
さて、やらねばならないことは、星の数ほどある。
当然ながら大会の実行委員として琴姫さんの指示はこなす必要があるし、同時に、乙戯をラッパーとして育てなければならない。
いくら乙戯がやる気を出したとて、道程はなかなか長い。九条や切見というのは意志力の化け物ともいえるだろうから、単純な素質だけならおそらく向こうの方が上だ。他にも出場者はいるだろうし、その中で勝ち残るにはそれ相応の技術を身につける必要がある。時間はいくらあっても足りやしないだろう。
特訓を進めていくにあたって、大きな問題も一つ残されている。
――それは、練習相手がいないこと。
MCバトルというのは、相手がいて初めて成立する。単なる音楽でなく、MC同士の対話だからだ。いくらビートに乗っても韻を踏んでも、相手がいなくてはバトルではないのだ。
だから、乙戯にバトルの練習相手を用意しなければならない。
そしてそれは、ラッパーの素質を持たぬ俺には務まらない。
CDを聴いたり韻を踏んでみたり、しばらくは一人での練習も出来るだろうが、バトル形式の練習を始めるのは早い方が良い。さすがに来週からでは遅すぎる。
……まぁ、最悪、隣町の駅前でサイファーをしているアマチュアラッパー集団に混じっていけば良いのだが、乙戯にはなかなか荷が重いだろう。初めの一歩は、やはり周りの人間で慣れさせていきたいところだ。手頃な練習相手を探さなければならない。
受付で本を読んでいた牛谷氏に「また明日」と見送られ、図書館のゲートを抜けると、ちょうど喫茶『太陽』から頭を掻きながら現れる切見と出くわした。
「おう、シャケ野郎かよ」
「シャケではない。俺の名は社家佐良助だ。猿は巣に帰れ」
俺が返すと、切見は「うるせえボケ」と、女子トイレの方へ去って行く――が、
「おーーーーーーっと、おいコラ、ちょっと待て」
ふいに大声をぶつけてきた。
いまはこの馬鹿の相手をしている暇はない。面倒事になる前に帰ろう。
切見の声を無視して俺は歩を進めた。
「待てっつってんだろ」
が、肩を掴まれる。
「用がある。ちょっと面貸せ」
「断る。俺の方はお前に用はない」
そう言って立ち去ろうとするが、肩を掴む切見の手が予想以上に固い。思い切り力を振り絞ろうとも動く気配はない。自分の筋力のなさを悔やむばかりだ。
切見は涼しい顔で「まあここで話しゃいいだけか」と呟く。
「あれから俺様もヒップホップについて勉強したんだよ。勉強すんのなんて十年ぶりだから苦労したぜ。いや、苦労してるっつう方がいいのか……あぁああ、とにかく、なんつうか、正直、困ってんだ」
切見は苦い顔を浮かべ、余った左手でがりがりと頭を掻く。
どうやらこれは会話に付き合ってやらないと逃れられないパターンだ。
俺はため息をつき、
「困ってるって、何に」
「ああん? だから言ってんだろ。勉強だよ、オベンキョー。俺様、ヒップホップの勉強なんて何やったらいいのか全然わかんねえんだよ。手詰まりって奴だぜ」
切見はそう言って薄い胸を張るが、まったくもって自慢げにしてよい内容ではない。
「で、だからどうした」
「てめえ、察しが悪いな。俺様にヒップホップ教えろっつってんだよ。てめえ、あれだろ、実行委員って奴だろ。大会出場者にレクチャーぐらいしろよ」
「……実行委員の役割に出場者の世話は含まれていない。甘えるな。自分で何とかしろ」
ふいに「うるせえボケ!」という叫びと共に、重力が失われた。ふくらはぎに感触を覚え、見上げると切見の顔。どうやら俺は、切見に抱き上げられているようだ。
「いや、お前、本当に、やめてほしいんだが」
女子高生に横抱きされる(俗にお姫さま抱っこという)男子高校生なんて、はたから見ても情けないにも程がある。心が折れてしまいそうだ。
だというのに切見は聴く耳持たず、そのまま喫茶『太陽』の扉を蹴り開ける。
店内のヤンキー娘共は「姐さんっ!」「攫ってきたんですかいっ!」「さすがっすわ!」と次々に口走る。
俺は切見によって「おらあっ!」と一番奥の席へ座らされ、直後、マスターからコーヒーを差し出された。
マスターは「四百円」と呟き、金を取るのかと驚くばかりだ。
俺の正面へどかっと音を立て座った切見が、荒々しく口火を切る。
「さあ、四の五の言わせはしねえぞ。俺様にヒップホップのなんたるかを教えるまで、てめえはこっから出しゃしねえ。トイレも駄目だ」
厳しすぎる。が、どうやら切見は本気のようで、ぎらついた瞳でこちらを睨んでいる。
軽い監禁だと思うのだが、店外へ逃げるには、切見だけでなくアマテルズのメンバー十数人を相手取る必要があり、あまり現実味がない。奇跡的に今日逃げ切ったところで、乙戯へヒップホップを伝授すべく図書館へ通う内は、何度も何度も捕まるだろう。
最後まで付き合ってやるしか、ないのか。
――――。
いや、だとしたら、これは考えようなんじゃないか?
「切見。ヒップホップというのは、一時間やそこらで教えられるものじゃない。ぶっ続けで教えてやったとしても、基礎だけで半日はかかるだろう」
「おう、じゃあ半日トイレ行くな」
切見はふざけたことを抜かすが、無視して続ける。
「だから、今日だけでなく、今後数日かけて、お前に付き合ってやる。欠かさず毎日だ」
「お、やけに物わかりが良いじゃねえか。改心したのかシャケこら」
ただし、と俺は語調を強くする。
「条件がある。俺の生徒は二人。お前と、もう一人、大名賀乙戯というのがいる。レクチャーは二人同時だ。仲良く学べ。そこを呑み込みさえするのなら、俺もお前の相手をしてやろう」
どうせヒップホップを教えるなら、二人まとめての方が都合が良い。
そしてなにより、切見は、乙戯の練習相手になる。
乙戯には苦手なタイプだろうが、いきなり駅前のサイファーへ飛び込んでゆくよりは幾分かマシだろう。
切見は俺の言葉ににやりと不敵に笑う。
「おう、そんくらいで良いなら、お安いご用だよ。どうせ教わる身だ。あんまし文句を言える立場じゃねえしな」
それをわかっていて、どうしてもこうも乱暴な手段を取るのか。獣の性だろうか。
しかしそれなら、話は早い方が好みだ。
「じゃあ、顔合わせといくか。切見、付いてこい」
「おう上等だ。任せろ」
切見が勢いよく立ち上がると、「頑張ってください!」「かっけえすわ姐さんっ!」「殺せ!」と声が上がる。俺は切見を引き連れて図書館のゲートをくぐる。びーびーと警報が鳴り響いたが、牛谷氏に「こいつの入館証は後で作ります」と言い置き、二階へ上がった。
乙戯のAVルームの扉をノック。
返事がかえってこないのはヒップホップを聴いているのか。カーテンで遮られているため中の様子はわからない。
めげずに何度もがんがんノックを続けていると、やがてカーテンが引かれ、扉が開いた。
「魚類。今日の特訓内容が変わりでもしましたか」
音楽に集中していたのか、乙戯は些か不機嫌そうな表情を浮かべている。
「お前に紹介する相手がいる」
「え……しょ、しょうかい?」
不安げに問う乙戯へ「あぁこいつだ」と後ろに控える切見を指そうとすると、ふいに体を押し退けられた。切見が「おらどけシャケ」と乙戯の正面に立つ。
「切見夜音だ。よろしくな。こっから容赦なくいくから覚悟しとけコラ」
切見がそう脅すと、乙戯は体を硬直させた。表情すら固めたままぴくりとも動かない。
「シャケ。こいつどうした。喋れねえのか」
二言目を切見が発すると、「ひいい」と乙戯が身を翻す。慌てた様子でAVルームへ駆け込み、ガラス扉を閉めてがちゃりと鍵をかけた。
切見は「あああん?」と唸った後、扉を叩き始める。
「おいてめえこっちが挨拶してやってんだからてめえも挨拶返しやがれ! 礼儀がなってねえなあコラアアアっ!」
防音ガラスで実際に声が聞こえることはないが、それでも俺の耳には乙戯の怯える声が届いてくるかのようだった。
まぁ切見の怒りももっともではあるので、俺は傍観を決め込むとする。
騒々しくガラス扉を殴り続けていた切見であったが、このままでは乙戯が反応を返さないことに気付いたのか、舌打ちと共に拳を下ろした。そしてふいに踵を返し、廊下を歩いて行く。
数分後、戻ってきた切見は手に鉄バットを持っていた。
「ぉおおおらああっ!」
と、切見は鉄バットをガラス扉へ叩き付ける。ガラスは一発で砕け散った。
解錠し、ドアを開け、切見はカーテンを引く。
そして現れたのはスプレー缶を構える乙戯である。
切見は、かつて俺が味わったのと同じ苦しみに「うおおおおお」とのたうち回った。
「はあ……はあ……魚類……これ……誰ですか……」
「名乗っていただろう。切見だ。お前の練習相手だよ」
「……いえ、こんなの、御免なんですけど」
切見を見下して、乙戯は小さく呟いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます