A4.胎動


 登校中、ヘッドホンから流れるヒップホップに耳を傾けながら考える。


 昨日の乙戯は、明らかに様子がおかしかった。

 夕食も半分以上を残して、逃げるように部屋へ駆け込んでいった。

 きっと俺の言葉にあいつのお気に召さない部分があったのだろうが、それにしてもこれまでの乙戯と比して過剰な反応だった。

 しかし、それで俺は確信した。


 ――乙戯は、ラッパーになれない俺とは違う。

 あいつには、きっと、胸に秘めた強烈な想いがあるのだ。


 だからこそ俺の言葉に強烈な反応を示したのだ。

 乙戯にはラッパーとしての最低条件が備わっている。

 性格上、それを外側へ発露できないだけなのではないか。


『うーん、図書館からもう一人くらい出場者を連れてきてほしいんだけど~?』


 と、改めてお姫さまからの仰せはあったものの、俺は考えあぐねていた。

 乙戯が大会に出場したところでどうせ優勝は勝ち取れないのだから、出場する意味はないだろうと。そもそも勝負にならず客も満足しないだろうとすら思っていた。


 しかし、なるほど、備わっているのか。


 ぞわりと脳を撫でられたかのような感覚に襲われた。

 無理強いだろうがなんだろうが、関係ない。

 内に秘めたままでは腐ったままだ。


 俺は、なんとしても、あいつをラッパーとして覚醒させる。


 それが琴姫さんの指令であり、なにより、俺の目的にも繋がる。

 あいつを通して、俺はもしかしたら自分の芯を見つけられるかもしれないのだから。


 くだらん授業をやり過ごし、下校時刻。

 家へ帰る前に図書館へ寄り、AVルームの修理が終わっているのを確認した。

 AVルームの中に乙戯の姿はなく、そういえばあいつ今日は登校したのだろうか、とふいに思った。確か乙戯は赤星高校へ通っているという話だったはずだ。

 家へ戻ると、自室へ向かう途中で母の部屋の扉を叩く。


「乙戯。いないのか」


 反応はないが、あいつの場合、いたとしても返事はないだろうからよくわからない。入れ違いで図書館へ向かっている可能性もある。


「入るぞ」と前置きして、引き戸を開ける。

 畳まれた布団に背もたれた乙戯は、俺を見ると、僅かに目を大きくした。


「いるなら返事しろ」

「お、女の子の部屋へ勝手に入るのはどうかと思うんですけど」

「お前のでなく、俺の母の部屋だ」


 言うと、乙戯は黙して口を横に広げた。


 俺は乙戯へ、図書館の修理が済んだことを伝えようか迷った。

 言えば乙戯は図書館へと戻るだろう。

 そうなると、乙戯はきっと、二度と立ち上がらないのではないかと思う。

 ずぶずぶと内に籠もり続けて大会当日を迎えることとなる。


「乙戯」


 だからおそらく、チャンスは今ここにしかない。


「昨日は、悪かった」

「な、何がですか?」

「お前が夕飯の途中で逃げ出した件だ。きっと俺の言葉が心の琴線に触れたのだろう。どこが、というのは具体的にはわからないが、一応、謝っておく」

「そうですか。……まぁ、私は、気にしてなんて、いませんけど」


 気にしてないというのは、俺の言葉が的を射ている証拠だろう。まったく心に届いていないのであれば、気にする気にしない以前に「どれのことだろう」と疑問に思うはずだ。


「では、その上で昨日の話の続きがしたい。お前が大会に出場する件についてだ」


 乙戯が身を震わせる。

 否定の言葉がないので、俺は気にせず言葉を続けた。


「お前は図書館がなくなってほしくないと言った。しかしその目的を果たすには、度胸が足りていないとも言った。だったら、俺が多少なりとも、恐怖の源を取り除いてやろう」


 その一。

「大会までは、まだ一ヶ月近くある。経験はその間に積めば良い。少しばかり練習してみて、どうしても無理そうなら、出場をキャンセルをしてくれても構わない」


 その二。

「お前はヒップホップについて無知だ。しかし反面、俺はそこそこにヒップホップのことを知れている。だから当日まで、俺がお前にヒップホップを叩き込んでやる。練習するための環境と知識を用意してやる」


 その三。

「最後は、大会出場者の数だ。おそらく、出場者はあまり多くない。どれだけ増えても、二桁には至らないだろう。出場条件が厳しいからな。げんに、まだ出場を登録している人間は二人しかいない。今のままなら、最大でも二回勝てば優勝だ」


 そこまで話し、俺は「以上」と結ぶ。

 正直、俺は説得というのがあまり得意でない。他人の気持ちを慮るのが苦手だからだ。

 俺なりに言葉は紡げども、それが乙戯の何かを変えられるかどうかは、わからない。


「ちなみに、もう一つ安心させておくと、出場者は二人ともお前の既知の人間だ」

「だ、誰ですか」


 乙戯が俯いたまま、じめじめと言葉を発す。


「一人は、切見夜音。喫茶『太陽』に居座っている金髪の女だ」

「……いえ、知らないんですけど。なんで知ってると思ったんですか」


 あぁ、AVルームに篭もっていると、喫茶店の方のことはわからないのか。

 まぁ、とはいえ、


「もう一人の方は確実に知っている。お前の姉。大名賀九条だ」

「……っ!」


 乙戯が、顔を上げて、こちらを凝視する。


「な、なんで?」

「出場するのか、か? 知らん。九条にも何か目的があるのだろう」


 乙戯は「ぅうう」と唸ると、低く呟きを漏らす。


「どうして、この期に及んで、私の邪魔をするんですか」


 それはおそらく、九条に向けた言葉なのだろう。


「文句があるなら、ステージの上で本人に言え。それがバトルだ」

「……それがバトルって、どういう意味ですか?」


 乙戯が声を大きくする。


「知らないのか。MCバトルというのは、単純にラップをするだけじゃない。ビート……つまり、音楽に乗せてラップをして相手をディスるんだ。わかりやすく言えば、高度な口喧嘩だな」

「く、口喧嘩……」

「つまり、言いたいことがあるなら、ビートに乗せて、ラップをしろということだ。それが勝利に繋がる。喧嘩が出来なくても良いし、頭が良くなくてもいい。ヒップホップは弱者にとっての、武器となる」


 そう言ってやると、乙戯は俯き、ぎゅうと畳の上で拳を握った。


「――乙戯、お前の中には、抱えたものが、あるんじゃないのか」


 俺が言うと、乙戯はきっと俺を睨んだ。


「し、知った口で、どうして、そんなことを言いますかっ!」


 今までにない声量で、乙戯は叫ぶ。


「わかったふりばかりして、ふ、ふざけないで欲しいんですけど! み、みんなして、私のことを、どうして、どうして……っ!」


 しばし、そこで乙戯は口を止める。

 ふぅううううと息を吐き出し、しゃくりあげ、次の言葉を放つ。


「……わ、私は、負け続けて、きました」


 そこにあった乙戯は、今までの彼女とは少し違って見えた。


「ずっと、劣等感を覚えてきたんです。何でもできる姉と母に、学校のみんなにも。私を取り巻く世界は、きっと私を見下していると信じてきました。そしてそれは事実です。だって私は何も持ってません。何も敵いません。姉は勉強が出来て運動だって出来て、芸術センスだってあるのに。……あんな優秀な姉に、敵うはずないじゃないですか。一番近しい人間が、あんな化け物だなんて環境、地獄です。だから私は、物語の世界に逃げたんです」


 徐々に、心臓が高鳴り出す。

 俺は口を挟まず、乙戯の言葉に耳を傾ける。


「本が好きです。物語が好きです日本語が好きです。だから図書館へ篭もるのだって間違ってなんてないんです。逃げた先が物語の世界だったのは、私にとって何の間違いでもありませんでした。なのに、それを奪うとか、どうして、どうしてですか。腹立たしいです。むかつきます。劣等感を覚えて諦めて逃げた私を、どうしてまだ邪魔するんですか。そっとしておいて欲しいのに。きっと母は、姉は、私のことが嫌いで――見下しているんです」


「そんなことはないと思うが」


 二人の名誉のために言葉を挟むと、乙戯はさらに声を大きくした。


「はあ? なんですか、何も知らないくせによく言えたものですね。私、びっくりですけど。……いえもしかしたら、魚類の言う通り、そう私が信じているだけなのかもしれませんけど。でも、この、ドロドロの感情は嘘じゃない。なくならない。消えないんです。私の中でずっとずっと鳴り続けてきたんです。そしてそれは、段々大きくなってきて、今にも」


 破裂してしまいそう。


 そう続けた乙戯は、もはや、これまでの彼女とはまるで別人だった。

 幼少の頃に憧れた、ずっと追い求めてきたラッパーの姿が、目の前の乙戯に重なって見えた。

 乙戯は、まるで光り輝いているかのようだった。


「負け続けて悔しくて、諦めて逃げたのに、なのに、破裂しそうでどうしても我慢できなくて、ねえ、何なんですか、これはっ!」


 乙戯の声が、びりびりと空気を震わす。


「……もう嫌です。嫌ですけど、とてつもなく怖いですけど、それでも、私は――」


 乙戯にどんな過去があるのか、その詳細はわからない。

 九条や琴姫さんには邪悪な何かがあるのかもしれないし、何もないのかもしれない。乙戯は想いだけを溜め続けてきただけなのかもしれない。


 けれど、彼女自身が言うように、その想いだけは本物だった。

 混じりっけのない、純粋で、強烈な想いだ。


 よろよろと、乙戯が立ち上がる。


「何度でも言います。図書館はなくなってほしくありません。奪われるのなんてごめんです。でも、それよりも強い感情が、いまの私には、あります」


 こちらへ歩みを進め、俺の両肩へすがりつくように、がっしと手を置く。

 頬を上気させ、ぜえぜえと息を吐き、


「……勝ちたい。勝って見返したい。私もやる時はやるんだって、示してやりたい」


 乙戯の口から出てきた声は低く、俺の脳髄へと響いた。


 もはや乙戯の両目から零れた涙は、頬を伝っている。

 そこには、どうしようもない信念が見えた。


「ヒップホップだな」

「な、なんですか。意味がわからないんですけど」


 少し落ち着きを取り戻したのか、乙戯は声のトーンを落とす。


「お前の動機だよ。まるで溶岩のように暗く熱い。それが、ヒップホップだ」


 俺にないものを持つ。

 その姿にこそ俺は理想を抱く。

 こいつがバトルに勝利する世界を、俺は見たい。


「安心しろ。それが口に出来るなら、最低条件どころじゃない。十分だ」


 俺はどこまでも付き合ってやる。


「乙戯、お前は大会に出場できる。バトルに、勝てる」


 それで乙戯は表情を歪めた。

 頬を伝うどころじゃない。

 再び畳へ腰をおろすと、彼女はわんわんと大声で泣き出してしまった。

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