B1.Cheep Sunday


 意識が覚醒すると、私の馴染みのない香りが鼻に匂いました。

 目蓋を持ち上げて、飛び込むのはくたびれた天井、中心には丸い電灯。


「…………ん……?」


 枕元の眼鏡に手を伸ばし、首を起こして部屋の様子をうかがいます。

 畳へタワーのように積まれた漫画本、ブラウン管のテレビ、テレビゲーム機、古びたレコードプレイヤー、CDコンポ、無数のレコードとCDが収納された天井まで続く棚。

 そこまで確認したところで、ようやく私は、社家くんの家へ泊まっていたことを思い出しました。


 バッグから手鏡を取り出すと、癖の強い黒髪は、寝癖で凄まじいことになっています。

 布団から出て、昨日着ていた服と替えの下着を手に取って、ゆっくり部屋の扉を開きます。

 廊下に誰の姿もないことを確認、そろりそろりと洗面所の方へ歩いて行くと、そこで歯磨きをする社家くんに出くわしました。


「あぁ、起きたか」

「ぎょ、魚類」


 かろうじてそれだけを絞り出すと、私は部屋へと舞い戻りました。

 しばらく待って、再び洗面所へ行くと誰もいなくてほっと一息。髪型を整えてシャワーを浴びます。

 そして部屋へ戻って布団をよいせと片付けると、腰を下ろして、畳んだ布団へ背中を預けました。


 私は、いつまでここにいるんでしょう。

 社家くんは厳しいから、きっと長くはいさせてくれないだろうと思います。部屋の修理が終わったらすぐに図書館へ戻らなくちゃいけません。

 ……いえ、好きで社家くんの家に泊まってるわけではありませんから、図書館へ戻ることは良いんです。むしろ、図書館こそが私の居場所ですし、早く修理が終わって欲しいなあと思います(社家くんの話だと、今日か明日には業者の手配が出来るそうです)。


 ――本当の問題は、その、図書館が、なくなってしまうことです。

 そうなったら、私はどこへ行けば良いんでしょう。

 私の居場所は、本当に消えてしまいます。


「……うぅ」


 思わず声が漏れました。


 自宅へ帰るのは、嫌です。

 母や姉とは、絶対に顔を合わせたくありません。

 私にとって、あの二人と暮らすのは、宇宙人と一緒に暮らしているのと同じです。

 私は二人を決して理解できないし、二人は私を決して理解できません。

 ……だけど、図書館がなくなると、自宅へ帰る他、選択肢はなくなります。


 社家くんには、そうならないために大会に出場したらどうだと誘われました。

 ひっぷほっぷなんて奇妙な音楽、私はいまだかつて耳にしたことがありません。

 私には人前に出る度胸なんてありませんし。ましてや、歌をうたうなんて無理難題だと思います。


 大会に出場するか、家に帰るか。

 どちらも嫌ですけど、どちらかを選ばなければいけないなら、私は家に帰る方を選びます。


「乙戯。朝飯が出来たぞ」


 扉の向こうから社家くんの声が届いて、私は腰を持ち上げました。

 目玉焼きとウインナーをおかずに、ご飯を口へ運んでいると、社家くんが「乙戯」と私の名前を呼びます。


「お前、今日は大名賀家へ帰るのか」

「え、む、無理ですけど」

「そう答えるだろうとは思っていたが。しかし、だとしたらいつまでここにいるつもりだ」


 考えていたことを、社家くんにも言われてしまいました。


「こ、こっちだってちゃんと考えているのに、そうやって急かさないでほしいんですけど」

「図々しさここに極まれりだな」


 自分でもそう思います。

 私は、母親譲りのこの性格が嫌いです。


 朝食を終えると、社家くんの家ですることもないので、私は図書館へと向かいます。

 司書の牛谷さんと挨拶して(頭を下げただけですけど)、本棚から三冊くらい小説を見繕って二階のAVルームへ篭もります。私が改造していたのとは別の部屋です。


 昔から、本を読むのが好きでした。

 物語に触れるのも好きですし、そもそも文字を目で追う行為自体が好きです。

 こうして本を開くと、日本語の一字一字が私の脳みそを蕩かします。

 あいうえお。かきくけこ。さしすせそ。ひらがなももちろん好きですし、そこに混ざる漢字にも愛情を覚えます。とてつもなく幸せな時間です。

 けれど、今日はページをめくる手がどうにも重くて、夕方になっても、一冊も読み終えることができませんでした。


 AVルームを出て隣へ目をやると、私の部屋のガラス扉は、まだ修理が済んでいないようです。きっと業者が来るのは明日になるんだと思います。

 読み終えられなかった小説を借りて社家くんの家へ向かうと、ちょうど夕食が出来上がったところでした。

 なんと、社家くんは、私の分を用意してくれています。ハンバーグです。


「私、あんまりお肉は好きじゃないんですけど」


 感謝の言葉を伝えようとしたのに、口から出てきたのはそんな内容でした。軽く自己嫌悪に陥ります。

 社家くんが「いやお前、昨日は肉ばかり食っていただろう」と眉をひそめるのももっともです。その通りですし。


 社家くんのお父さんはまだ帰ってきていませんでした。

 社家くん曰く「どうせパチンコかスロットだろう」とのことです。

 私にその二つの違いはわかりませんが、駄目な大人だということはわかります。


 ハンバーグへ箸を伸ばしていると、ふいに社家くんが口を開きました。


「昔のよしみで、もう一度だけ忠告してやる。お前、本当にMCバトルに出場しないつもりか」

「な、なんですか」


 声が震えています。自分でもわかります。


「す、するわけないと思うんですけど。意味不明です。何でそういうことを言いますか」

「自宅へ帰るのを嫌がっただろうに。このままだとお前、遠からず自宅へ帰らざるをえない状況になるぞ」

「…………っ」


 現実を突きつけるのは、やめてほしいものです。

 私は昔から逃げ続けてきました。自分の道を、迷い続けてきたんですから。


「なにやら事情があるのはわかる。お前は、琴姫さんや九条とはまたタイプの違う人間だからな。合わない部分も大きいだろう」


 その通り。その通りです。


「だから一緒に暮らすのが無理だという気持ちは理解できる。逃げ込んだ先が図書館というのは些か埒外だが、その選択自体を責めるつもりはない」


 社家くんは、まるで心がこもっていないかのように、無表情で、淡々と言葉を続けます。


「しかし、その逃げ込んだ先さえも奪われようとしている状況で、お前は何も思うところがないのか。ただ黙って元の巣へ帰るだけで良いのか。いくら意志が薄弱だとはいえ、自分で選択した道だ。せめて、どうしたいのかを口にしてみろ」


 社家くんの言葉を耳に入れる度に、動機が激しくなります。

 活を入れようとしてくれているのはわかります。

 でも、私は、そんなことで立ち上がれるほど強い人間ではないんです。


「ど、どうしたいかという、ことだけだったら」


 だから、せめて、一言だけ口にします。


「私は、図書館がなくなってほしくない、です」


 もちろん、単純に家へ帰りたくないという気持ちはあります。

 でもそれだけじゃないんです。

 私は、本が好きです。物語が好きです。日本語が好きです。

 お客さんの来ない図書館でも、私にとっては楽園です。

 逃げ込んだ先だとしても、そこは幸せな場所なんです。

 それを奪われるのは、まるで身を引き裂かれるようにも思います。


「だったら大会に出場しろ。優勝すれば図書館はなくならない」

「で、でも、私には、そんな度胸ないんですけど。無理です。吐きます。人前で歌うなんて、心肺停止に陥りかねません」

「いきなりステージの上に立つのでなく、少しずつ慣らしていけば良い」

「む、無理です。無理ですけど。初めの一歩が一番難しいんです。軽々しく言わないでほしいんですけど。そんな度胸があったら、私はとっくに――」

「琴姫さんや九条と血が繋がっているのだから、もしかしたらお前にもそれなりの度胸が備わっているのかもしれないぞ」


 どくんと、一際大きく心臓が鼓動しました。

 本当に、なんで、そういうことを言うんですか。


「寝ます」


 一言だけ絞り出しました。

 箸を置いて立ち上がってぴゅうと布団の敷かれた部屋へ逃げ込みます。


 母と姉を引き合いに出すのだけは、やめてほしいです。

 きっと、社家くんは何も理解できてないんだと思います。


 あぁ、ぐつぐつと心臓が煮えたぎります。

 どす黒い感情が私の中を渦巻いています。

 長く忘れていたものが、首をもたげます。


 どうして、どうして、どうして。


 疑問ばかりが出てきます。

 けれど、本当は疑問などではありません。

 自分のことは、自分で理解できています。自分だけが理解できています。


「う、ぅうううう……っ!」


 枕に顔をうずめて、私は声を上げました。


 悲しみではありません。落胆でもありません。

 この感情は、怒りです。

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