自供心中

曼珠サキ

時鏡心中

 魔が差した。もちろん言い訳は許されないが、そうとしか考えられなかった。

 通勤電車の中で、その子は制服のスカートの下に素足を晒していた。いくら暖房と人の群れでとんでもない湿度になっているとはいえ、無防備すぎやしないか。

 この時期、女子高生はこぞってタイツを履いているはずだ。うら若い女子の肌は蒸し暑い車両内でやけに白く見えた。その子はスマホの画面に夢中で他の客の事など気にも留めていないようだ。

 初めは、涼しそうだなとか、でも外では寒いだろうなとか、他愛ない事を考えていた。ただ次第に、揺れる車内で何度も目に入る度に、きっとひんやりしてるぞとか、なんて綺麗なんだろうと思い始めて、ついにはその肌に触れたいと思うようになっていた。

 何故だかは分からない。こんな事を思うのは初めてだ。こんな少女に獣欲をむけるなんて。

 それは、会社の最寄駅の一つ前の駅に停車した時の事だった。いつものカーブで電車が大きく揺れた。そして、その拍子に俺の手がその子の脚に、ほんの一瞬、触れた。

 刹那の事だったが、その肌の柔さや滑らかさ、少し低い体温が伝わってきた。一層、彼女に触れたくなった。もう抑えられなかった。

 電車の扉が開いてホームへと弾き出された。

 俺は次の駅で降りてしまう。たった一駅の間なら、大丈夫なんじゃないか? 一駅、たった三分だ。その間に声を上げられる事があるか? 脚に触るだけだ。大丈夫。俺は痴漢じゃない。

 さっきの逆戻しみたいに乗客が雪崩れ込んでいく。人の流れに多少力を加えてさっきよりもいい位置、あの子の真後ろに付いた。

 ゆっくりと電車が走り出す。

 そうだ、電車が揺れたせいにすればいい。すぐにまたカーブがあるはずだ。よろけた振りをしてもう一度触ってしまえ。

 俺は頭の中で時間を数えた。走り出してから二分と三十秒が経った時、待ちかねたカーブが来た。ガタン、と車両が傾き、いかにもというよろけ方を演じた。手を伸ばし、あと一センチという所までいき、そして、やめた。手は引っ込めた。

 危ない所だった。思えば働きだして十七年、痴漢をしようと思った事なんてなかったのに、どうしてあんな気分になったのか不可解だった。もし本当に触っていたらただでは済まなかったはずだ。

 とにかくよかった。これで犯罪者の汚名を着なくて済――

「オッサン、次の駅で降りて」

 自分の手を、あれだけ触れたかった少女の手ががっしり掴んでいた。訳が分からず視線を上げると、ニヤニヤと似つかわしくない笑みで見返された。

 今や少女から恐ろしい怪物へと変貌したその子はこれ見よがしにスマホを振った。そのカメラに何が写されたのかは知らないが、確認しない訳にはいかないだろう。

「丁度、次の駅で降りる予定だったんだ」

 これが俺の精一杯の強がりだった。

 再就職はできるだろうか。


 会社の最寄り駅の駐輪場の奥。人気ひとけのない、金網に囲われただけの解放感と閉塞感を両立する奇妙な空間で俺は女子高生に追い詰められていた。

 見せられた動画は俺の顔から始まった。血走った俺の目。目線は強く下に向けられていた。次にカメラは下を写した。今か今かと機会を待ちそわそわ動く手。映像が大きく揺れる。電車がカーブに差し掛かったのだろう。すかさず俺の手が彼女の脚に伸びて、そこで動画は途切れていた。

「俺は触ってないぞ! 動画にも写ってなかっただろ!」

「でも触ろうとしてたんだろ? て言うか信じてもらえると思ってんの? オッサンがチカンだってこの動画見たら皆言うと思うんだけど? あ、動画、ネットに上げていい?」

「いや、それは……」

 困る。動画は痴漢を証明するものではないし、事実私は指一本も(故意には)触れていないが、ネットなんかにアップされたら事実なんて関係ない。炎上必至だ。何よりあの動画には俺の顔が映っている。そんなものをアップされたら社会から抹殺されてしまう。

「困るだろ? 名刺持ってる? 出して」

 こうなってしまったら男に拒否権はない。恨むなら少しでも触ろうとした自分だろう。俺は言われるがまま名刺ケースを差し出した。

「へー! オッサン、三河啓斗っていうんだ。ケイト! 顔に似合わず外国の女の子みたいな名前じゃん。カワイイ」

 オッサンが女子高生に可愛いなんて言われても嬉しくない。それに顔に似合わずは余計だ。名刺ケースは返されたが一枚抜かれてしまった。今後俺が社会人でいられるかは彼女の良心に頼むしかなくなった訳だ。

 彼女はスカートのポケットに俺の名刺を突っ込んだ。

「財布も出して」

「いや、それはさすがに……」

「断れるんだ?」

 断れなかった。ここまでくると完全にオヤジ狩りだが、大人しく渡して見守っていると、彼女は財布を開けてちらりと見ただけで俺に戻した。本当にオヤジ狩りをするつもりはないらしい。ありがたい事だ。

 ぽとっと俺の手に財布を返しつつ、彼女はにっこり微笑んだ。

「じゃあ行こっか」

「ど、どこに?」

「そりゃあ、しかるべきトコに決まってるじゃん?」

 ……インターネットよりはましかもしれない……。

 オッサンと女子高生のコンビは、深夜の繁華街でなら許容されるかもしれない。ただ、今は昼間。しかも駅前である。オレは「離れて歩こうか」と言ったのだが、「逃げるつもり?」と一蹴されてしまった。その上彼女が俺の横にぴったりついて歩くものだから視線が痛くて仕方がない。

「ねえ」

「何だよ」

 冬の冷気よりもなお冷たい視線に耐えていると、彼女が口を開いた。彼女自身の視線はスマホに注がれている。地図アプリを見ていた。

「私みたいな女子、どう思う?」

「どう思うって言われても」

「こんなさっむいのに足出して、ばっちりメイクして、ネクタイゆるゆるで、夜遊びするような女子の事、どう思う?」

「良くはないんじゃないか?」

 聞かれたから答えたものの、彼女は足こそ出しているが、化粧は最低限だし、ネクタイも注意される程緩めている訳じゃない。夜遊びはどうだか知らないが。その姿を見る限り彼女には当てはまらないように思えた。

 そう思えたのだが、それらはやはり彼女を指しているのだろう。なんとなく、そんな気がした。

 良くはない。それは間違いない。

「でも、悪くもないと思う」

 そう言っただけで彼女はスマホから顔を上げた。そして、オレの言葉を待っているようだった。

「勉強もろくにしないで、大人が言うルールに唾吐きかけて、夜遊びはちょっと危険だけど、誰にも迷惑かけないなら、別にいいんじゃないか。十五年後、オッサンオバサンになった時に、『あん時は馬鹿やった』『若かった』なんて言うのも良いんじゃない? 多分、青春ってのは自由だぜ」

「チカン未遂が何カッコつけてんの」

「あ、いや」

 顔から火が出そうだ。あれだけ偉そうに語った挙句、冷たくあしらわれて、今日は厄日に違いない。

「私のオヤジはそんな事言わなかったなあ」

 厄日ではあったが、どうやら厄ばかりでもないらしい。

「オヤジはさ、アタシのオヤジはバカな事するなーって、アタシの事全否定でさ。ちっとも話聞かないの。いや、別に聞いてほしい話がある訳じゃないんだ。ただ、認めてくれなくても良いから、せめて……」

「それは……」

 仕方のない事なのだろう。オレがああいったのだって親の立場にないからだ。事実、が、娘が夜の街に繰り出そうとしたら止めるかもしれない。幸い、我が娘は優等生タイプでそんな心配の必要はないが。

「でもさ、今日オッサンに会ってよかったよ。実はさ、嬉しかったんだ」

「は?」

 彼女はまたスマホに目線を戻した。

「女子高生って大体チカンに遭うんだよな。でもアタシは遭った事なかったんだ。いっつもドギツいメイクして香水つけてたからかな。そしたら、今日、初めてチカンされそうになった。ちょっとマジメなカッコして香水辞めたら。オッサンにチカンされそうなの分かってんのに、アタシなら止められたのに、止めようとしなかった。ああ、アタシあのカッコで得してたんだなって思うだけでさ。そしたらオッサン、手、ひっこめるじゃん。笑い抑えんの大変だったよ。お前男だろ! って、そういう意味じゃないか」

 彼女の言葉の意味が分からない。何を言っているんだ。よく見ると、彼女のスマホの上には水滴が載っていた。雨は降っていない。

「着いたよ」

 彼女の話を聞いている内にすっかり忘れていた。そうだ、オレは今警察に突き出されかけていたんだった。

「は?」

 その建物は役所らしくはあったが、当局独特の圧迫感がなかった。そして、こう看板が出ていた。

「児童相談所?」

「そ、しかるべきトコ」

 彼女は目元を袖で拭って、痛ましい程の笑顔で言った。

「変な話だけど、アタシはオッサンに感謝してる。ホントは自殺するつもりだったんだ。学校の最寄り駅で帰りにでも飛び降りようかなって思ってた。そしたら、オッサンが必死こいてて、初めて、マジで初めて認められた気がしたんだ。生きてていいんだ、求めてくれる人がいるんだって思ったら死ぬ気はなくなった」

 ……ひたすら悲しかった。そんな勘違いをしてしまった彼女の、その境遇が、悲しかった。わざわざ学校の最寄駅を選ぶ理由もなんとなく察せられた気がして、それも、悲しかった。

「ほら、触っていいよ」

 彼女は突然セーターとブラウスをたくし上げて、オレの手を取った。薄い布地の下には、青紫色の肌があった。まだらでもあった。

 少女の腹部に触れさせられた瞬間、ぴくりと反応があった気がした。オレの手が冷たかったからか、それとも。

「サービス終わり!」

 彼女はそっと手を離してブラウスを戻した。

「警察には突き出さないのか?」

「ああ、だから感謝してるんだって。命の恩人なんだからかばわせてよ。それに、オッサン、娘さんいるんだろ?」

「なんでそれを」

 一言もそんな事は言っていないはずだが……。

「財布の中に写真貼ってあったじゃんか。ボケてる?」

 そういえば、家族三人で撮った写真が貼ってあった。

「最後に、私の名前教えといたげる。私、美川ケイト。美しい、簡単な方の川、カタカナでケイト。オッサンが救った女の子の名前だぜ? 忘れんなよ!」

 それだけ言って彼女は建物の中へと走り去った。追うべきだ。まだ、謝っていない。

 足は動かなかった。

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