第22話 想いが繋ぐ愛の紋章2
「レオさん! レオさん……。大丈夫ですか!?」
記憶喪失になった時とは違い、レオは自らの意思で谷の底へ落ちたのだ。もちろん死ぬつもりではなく、着地点に衝撃を和らげる魔法をかけていた。
「……っ! ……敵もすぐに追ってきます。今は……足を止めないでくださいっ!!」
降り始めた雪が谷底にある深い森にも届く。冷たい雪は容赦なく二人の体温を奪うが、厚い雲が太陽の光を遮ってくれるおかげで森の中は昼間でも薄暗い。敵から身を隠すのなら暗闇の方がむしろ都合がいい。
レオは左肩と太もも、そして脇腹に深い傷を負っていた。
ロゼッタの三つあった水晶は残り一つになっていた。こんなに短時間で二つの水晶を使い切った経験のないロゼッタは以前のように歩けなくなる可能性があった。それでも意識を失いそうになるレオを支え、二人は歩き続けた。
ロゼッタが支えていたレオの身体が徐々に重くなり、動きが遅くなる。そしてついには彼の身体を支えきれなくなったロゼッタごと二人で地面に倒れた。
これ以上、歩き続けることはもう無理だった。ロゼッタは、敵に見つかりにくい大きな木の陰までレオを引きずり、そこへ寝かせた。
アレッシアのお守りは、すでに効果が失われている。最初にレオを助けた時のように息をひそめているだけでは、敵に見つかるかもしれない。
それでもせめて最後の水晶を使ってレオの傷を少しでも治そう。そして少しでも遠くまで逃げ、発見されない可能性だけを信じよう。ロゼッタはそう考えて彼の服に手を伸ばす。
「ロゼッタ……。治療はしないでください」
レオが弱々しい声でロゼッタにそう言った。水晶をもう一つ使ったら、ロゼッタは間違いなく動けなくなる。レオはそれを危惧したのだろう。
「何言ってるんですか? そんなことできません!」
「いいから! 聞いてください。……まだ歩けますか? あなたは少しでもここから離れてください。敵は、私がここで引きつけますから……」
もう立つことすらできないレオが敵と戦うことなどできるはずがない。ロゼッタは何度も首を横に振る。
レオはロゼッタをなだめるように、怪我をしていない右手を彼女の頬にあてる。手袋越しでは彼の温度を感じることはできない。ロゼッタはそれがとても嫌だった。
「あなたは、森を歩くのが得意でしょう? ……あと少し、逃げ切ることができれば……。どうか……っ……」
そう懇願する彼の表情は穏やかだ。記憶が戻ってから全然見せてくれなくなった彼の優しい笑み。あれだけ見たいと思っていたロゼッタだが、今の状況でそんなものを向けられても心が満たされることはない。
「嫌! 絶対に嫌!!」
ロゼッタがきっぱりと拒否すると、レオは困惑して、少し厳しい顔になる。力強さを失った指先が、ロゼッタの瞳からこぼれ落ちる涙と張り付く湿った雪を取り除こうと頬を辿る。
「私を助けようとすれば、確実に二人とも助かりません。でも……あなた一人だけなら……」
それがもっとも合理的な唯一の選択だと彼は言っているのだ。
「ひどいよ! レオさんは私に、あなたのことを見捨てさせるんですか!? そんなの……できない、絶対、嫌……!!」
「お願いします。……近衛騎士の私が無関係の女性を巻き込んで死なせたなどという不名誉を、どうか……私にそんなことをさせないでください」
レオは諭すように、優しい声でロゼッタに願う。ロゼッタを守りたいというレオの気持ちが彼女にも伝わるが、その願いは彼女が受け入れられるものではない。
「レオさん……。レオさんが消えたら、私の心も少しだけ消えるって言ったこと覚えていますか?」
「…………」
「本当は、本当はっ、少しじゃない。レオさんが死んじゃったら……きっと私の心も死んでしまうの!」
このままではレオが死んでしまう。そのことを想像するだけで、焦燥と絶望で狂いそうになる。ロゼッタはそれに耐えられそうにないと感じていた。
「私はレオさんが好き。……レオさんは私のこと、好きじゃない?」
レオの本心がわからないから、彼をどう思えばいいのかわからない。そう思っていた彼女だが、それは間違いだった。レオがロゼッタを想っていてもそうでなくても、ロゼッタが彼を好きになることは自由だ。
だから自分から想いを告げる。
「……ロゼッタ、それは」
「私が全てだって言ってくれたレオさんは、今でもあなたの中にいるの?」
「……あなたは私にとって、何よりも守りたい恩人です。大切な恩人を道連れになどしたくはありません。どうか……」
それはロゼッタが求めている答えではない。
「私は、レオさんが私のことを好きかどうか聞いているの! 答えて!」
「ロゼッタ。私はたとえあなたを守るためでも、あなたを嫌いだとは言えないんです。……あなたは今でも私の全て。だから、どうか……」
聞き分けろというレオに無視し、ロゼッタは頬を撫でていた彼の右手を取る。
欲しい言葉をもらったロゼッタは、彼の革の手袋を剥ぎ取って、偽りの紋章が刻まれた手のひらを見つめる。
レオはロゼッタだけが逃げることが唯一の選択肢だと考えているようだが、ロゼッタはそうは思わない。
もう一つ、残された手段はある。
「レオさん……。『契約』しましょう」
「…………」
「好きな人を守る力。欲しているのがレオさんだけだとは思わないで。命だけ守れれば、それで私を守ったつもりになれるの? そんなの絶対に許さない!」
溢れる涙を止めることもせず、ロゼッタは必死だった。
「私の心が死にそうなのは、レオさんのせい! レオさんが私を殺すの! それって許されるの!? 私に優しくした責任取れ、馬鹿ぁ!!」
「ロゼッタ……」
ロゼッタの気持ちは愛ではない。もっと儚い――――彼に恋する気持ちだ。その気持ちはやがて冷め『契約の紋章』が二人に牙を剥く可能性もある。苦し紛れの『契約』はいずれ後悔することになるのかもしれない。
けれど、このままだと確実に訪れる「後悔」を回避できるのならば、近い未来の「後悔」はその時の自分に無理矢理押しつけてしまおう。それが、ロゼッタがこの状況で考える最善の策だ。
「いけません……」
「それに水晶を二つも使って、知らない森で、母様のお守りの力もとっくにないし、敵はいるし、雪だし! レオさんの目の前で死なないだけで、私だって死ぬかもしれないじゃないですか! 私があの男たちに襲われたら、レオさんどうするんですか!? そのときにはもう死んじゃっているから知ったことじゃないとでも言うつもり!?」
レオは彼自身の保身のためなら絶対にうなずかないのだろう。それがわかっているロゼッタは必死に彼女自身が『契約』しなれば危険な理由を並べる。
「どうせ死ぬなら、レオさんは私のものになりなさい。責任取って毎日毎日、私を甘やかして優しくしてくれたら『紋章』は私を殺さない。そうでしょ?」
レオが記憶を取り戻した後でもロゼッタだけを好きでいてくれるのなら、ロゼッタが彼のことを嫌いになることはない。いつか恋が愛に変わることはあっても、嫌いになることはないだろう。
「私はあなたの命の恩人なんだし、レオさんは年上だし、近衛騎士だし……。それくらい当然でしょ?」
「……やはり、あなたもルベルティの『瑠璃色の魔女』の血族ですね……」
「そうよ! 私は誇り高い『瑠璃色の魔女』の娘なの。私はあなたの言うことなんて聞いてあげない。レオさんが私の言うことを聞くの!」
ぽろぽろと溢れる涙が寝かされているレオの頬に落ちる。ロゼッタはそれでも強気に眉をつり上げて、彼を
「わかりました。私はロゼッタのものです。……出会った時からずっとそうですが、今後もそうあり続けます」
レオはロゼッタの言葉を受け入れたのだ。残り少ない力を使って上半身を起こし、まっすぐロゼッタに向き直る。
「ロゼッタ、ナイフを持っていますか? 儀式に必要です」
レオの剣は血で汚れている。他人の血がついた刃物でロゼッタを穢すことなどできない。
ロゼッタは慌てて荷物の中から小さなナイフを取り出す。
「それで、私の手のひらを少しだけ傷つけてください」
ロゼッタは黙ってうなずき、偽りの紋章が刻まれたレオの手のひらにナイフをあてる。
人間を傷つけたことなどない彼女は力の加減がわからず、レオの手のひらを滑ったナイフは彼の皮膚をほんの少し傷つけただけだった。
ロゼッタが戸惑っていると、レオの左手がナイフを持つ手に添えられ、もう一度一気に引かれた。
何かを切り裂く嫌な感触のあと、レオの手のひらから赤い血が流れ落ちる。
「ロゼッタも……」
今度はロゼッタの番だった。レオが彼女の左手を優しく包み、その手を開かせる。
「少し、痛みます。怖いなら目を閉じていてください」
ロゼッタは首を横に振る。今行われているのは大切な儀式だ。その一つ一つから目を背けることは『視る』ことをもっとも大切にする魔法使いとして失格だと思うのだ。
レオはロゼッタの左の手のひらにナイフを滑らせた。少し遅れて痛みを感じ、手のひらから一筋の赤い血が滴る。
そして二人は地面に座ったまま、向かい合い、赤い血の滴る手のひらを重ね強く指を絡めた。
「私の目を見ていてください」
レオの空色の瞳のなかにははっきりとロゼッタの姿が映っている。少し痛む手のひらから、彼のぬくもりが伝わり、血と魔力が混ざり合うのをロゼッタは感じていた。
「私、ジェラルド・レオナール・ルベルティは、ロゼッタ・デュトワを唯一にして永遠の伴侶とし、あなたを守り、あなたのために生きると誓います」
魔法を使う時、本来なら言葉は必要ない。この言葉も決められたものではなかった。
重要なのは、互いの血と魔力を混ぜ合わせ、愛する『伴侶』の存在だけを感じること。儀式のやり方は魔法使いの血が教えてくれた。
「私、ロゼッタ・デュトワは……、レオさんを、ジェラルド・レオナール・ルベルティを、愛して、唯一の伴侶にすると誓います」
絡まった手がやけどをするほど熱く、痛い。それでもロゼッタは彼の手を離そうとは思わず、より強く握りしめた。きっと同じ痛みをレオも感じているのだ。
やがてレオの瞳が近づいてくるのを感じたロゼッタは、自然に瞳を閉じた。それでもロゼッタの目はレオを見て、彼の存在を感じ続ける。
ロゼッタの唇にレオの唇が重なる。血を失っているレオのそれは、少し冷たい。
重ねられた唇の感覚、彼に傷つけられた手の痛みと彼の手の力強さ。それらを感じているだけで、身体の奥が熱くなり、やがて今まで存在しなかった力が自身に宿っているのをロゼッタは知った。きっとレオも同じ感覚を共有しているのだと思うと、笑みがこぼれる。
ゆっくりと唇が離れロゼッタの視界には再びレオの空色の瞳が現れる。ずっと見たいと思っていた彼の柔らかく微笑むその表情を見て、ロゼッタは安堵し一気に脱力してしまう。
「見てください。これが二人の絆……、『契約の紋章』です」
絡めていた指先がいったん離れ、レオが右の手のひらをロゼッタの前に広げる。それまで彼にあった偽りの紋章は消え、代わりに薔薇の花のような紋章が刻まれていた。
ロゼッタが自身の左の手のひらを確認すると、そこに彼のものと寸分違わぬ紋章がしっかりと存在していた。
「薔薇、ですか……?」
「ええ、ルベルティ家の紋章は薔薇です」
「私の名前と同じ紋章……」
ロゼッタという名には薔薇という意味がある。
「アレッシア殿は本当に愛する伴侶を得ても、『契約の紋章』を宿すことは叶いませんでしたから。……きっとあなたは、お二人が永遠を誓った
ロゼッタは今まで知らなかった自身の名前に込められた両親の想いに触れた。ラウルは魔法使いではない。だからアレッシアがどれだけ望んでも『紋章』をその身に宿すことはできなかったのだ。母は魔法使いにとって最も尊い絆の名を娘に与えた。
両親にとってロゼッタは『契約の紋章』と同じ永遠を誓う愛の証。そのことがロゼッタにはとても誇らしく思えた。
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