第23話 愛情の叫び

 夢をみていた。

 子どもの頃の他愛もない夢で、どうして今頃になってこんな昔の夢を見ているのか分からない。今思い返せば恥ずかしい限りだし、見たくない。

 だが、拒否権はない。

 勝手に映像が流れていく。

 子どもの頃の自分を、頭上から見下ろしている。まるで神様視点。少し泣きべそをかきそうになっている情けない自分がいた。

 昔の自分は、部屋の前にいた。

 躊躇いがちに部屋をノックする。ドアノブよりも背が低く、寝間着はダボダボでサイズが合っていない。子どもは子どもでも、五歳か、四歳ぐらいのことだろうか。

「はーい。どうぞー」

 もう子どもは寝る時間。

お月様が姿をすっかり現しているというのに、部屋の主は突然の訪問を快諾してくれた。

「あれ? どうしたの? ヴァンくん」

 どうやらベッドで読書をしていたようだ。分厚い本で、子どもの頃のヴァンは全く理解できなかった。中身は推理小説。実は推理小説が好きになった理由は、この女性の影響でもある。

 子どもの頃はよく、絵本の代わりに読み聞かせてくれた。

内容が難しすぎて、子守唄のようなものだったが。

「おかあさ――じゃなくて、イリーブのおかあさん……」

 自分のおかあさんと、間違えてしまった。

 ここは、メビウス宅。

 パタン、と本を閉じたのはエリアラ・メビウス。

 この頃は元気だった。というか、元気すぎな人。イリーブの母親である。

「ほう。いいのよぉー、私のことは『おかあさん』って呼んでも! もう家族みたいなものだし! 私の娘とくっついちゃえば、ほんとうのおかあさんになるんだから!」

 うちの両親とイリーブの両親は学生時代からの付き合いらしく、本当に仲が良かった。

 だからこうして、両親が子どもの面倒を見られない時は、イリーブの家に預けられることが多かった。正直、自分の家よりも、この家にいる時間の方が多かった気がする。だから我が家のように歩き回っていた。

「眠れなくて……」

「そう。じゃあ、また推理小説読んであげようか!?」

「……それもいいけど、実はイリーブのおかあさんに訊きたいことがあって」

「なーに? 私に答えられることなら、なんでも答えてあげるけど」

 エリアラはとても優しかったから、甘えやすかった。

 だから子どもの頃、ずっと疑問に思っていても口に出さなかったことを質問したかった。子どもながらに、他の人にこれを言ったら嫌な顔をするような気がした。

 だけど、真っ暗な廊下を一人で歩いていると、不安に襲われてどうしても訊きたくなったのだ。


「僕って、おとうさんとおかあさんから嫌われてるのかな?」


 もしも、本当に嫌われていたのだしたら、取り返しのつかない質問をどうしてもしたかった。

「……どうしてそう思ったの?」

 エリアラは本を脇に置いた。

 ギシッ、とベッドの上で正座して、こちらに耳を傾けてくれた。

「だって、おとうさんもおかあさんもずっと家にいないし、帰ってきても全然遊んでくれないんだもん。僕のこと嫌いなんじゃないかなって……」

「うーん。二人はいろんな国を回るお仕事だからね。忙しいんだよ。本当はもっとヴァンくんと遊びたいって思ってる。一人にするのが心配だからって、よく私の家にヴァンくんを預けているのも、全部『愛』があるからだよ」

「愛……。そうなのかな……そうだといいなあ……」

 エリアラは愛、という言葉が好きだった。

 よくアムリタに向かって、愛している、とかいいながらよくほっぺにキスをしていた。へへへ、このへんの髭そり忘れててジョリジョリしているねぇーとか言ってからかったりしていた。が、アムリタはあまり愛情表現を返しているようには見えなかった。

 今思えば、恥ずかしかったのだろう。もっとも、ヴァンが見ていないところでは、ちゃんとキスを返していたのかもしれないが。

「ねえ、愛ってなんなの? 僕、まだそういうのよく分からないんだ。恋と同じことじゃないの?」

 エリアラは長い溜息をつく。

「はあー。物凄い哲学的な……というか、それはとても難しい質問だねぇ。……愛は愛。それ以上の説明なんて言葉じゃ飾れない。無粋なものなんだよ、って言いたいところなんだけどねぇ。まあ、あえて。あえて言葉にするなら、愛は『想う』ってことかな」

「『想う』……?」

「そうそう。さっきのは哲学的な質問は、今思えば凄くいい質問だったよ。『愛』と『恋』の違いってやつにもかかってくるんだけどね……」

 ピッ、と指を一つ立てる。

「『恋』は自分の尊い気持ち。誰かを好きになる。そんなとっても大切な気持ちだよ。持っているだけで幸せになれるもの」

 二つ目の指を立てる。

「『愛』は他人を思いやる気持ち。誰かの幸せを願うもの。『相手』の『心』って書いて、『想う』って読むでしょ。つまりは、そういうことだよ。自分だけじゃなくて、相手の心も思いやることこそが、『愛』なんだよ」

 人差し指と中指をくっつけたり離したりして、『恋』と『愛』の違いについて説明する。仮に今、小さな子どもに訊かれたら、きっとこんなスムーズに答えられないだろう。さすがは、子ども産んで、そして愛を注ぎ続けてきた母親だけはある。

「本当に大切な人ができたら、その時はどんな切迫した状況でも叫んでいいんだよ。自分の真っ白な気持ち。――愛をね。ちょっと理屈っぽいヴァンくんが、そんなものを抜きにして誰かを愛することができたら、いつか愛しているっていいなさい! 私はその愛を全力で応援してあげるから!」

 話のほとんどは当時ちんぷんかんぷんだったけれど、それでもなんかいいことを言ってくれた気がした。そしてそのせいで、とんでもないことを口走った気がする。

「本当に大切な人……じゃ、じゃあ……」

 顔を赤らめることなどない。

 だけど、子どもだからこそ、言葉に嘘の色など内在していない。


「僕、イリーブのおかあさんのこと愛してる!!」


 無垢で無知な愛を、叫んだ。

 それを受け止めたエリアラはベッドから立ち上がって、こちらに近づいてくる。脇に置いてあった本がベッドから転げ落ちたことなど気にも留めない。

 そして、ギュッと、頭から抱きすくめられる。

「こぉ――――んの! このこのこのこのこのぉ! 可愛いっ! 可愛いなぁ! もう、食べちゃいたいぐらい可愛いっ!! 女の子も可愛いけど、やっぱり男の子も可愛いな! 私の家も男の子欲しいなぁー」

 ワシャワシャと頭を撫で繰り回される。

「ちょ、や、やめて!」

「寝るぞ、今日は一緒のベッドに寝ちゃうぞ!」

 めちゃくちゃテンション高くなってしまっている。

 そのままベッドに連れ去られて、本当に二人でベッドに寝ることになった。

 翌朝。起きたら、イリーブに何故かめちゃくちゃ叱責されたのを憶えている。

「ね、ねぇ。だったら僕、おにいさんが欲しいな!」

「う、うーん。残念ながらおにいさんはちょっと、あっ、でも弟なら……。でもそれは、アムリタさんに相談しないと……まっ、今日のところは寝なさい。私も寝るから」

 明かりを完全に消した。そのまま瞳を瞑ろうとすると、

「……ああ、そうだ言い忘れた。それとね」

「ん?」

 暗がりでも、エリアラの顔が見えるぐらいに接近している。

 夜中に輝く月のような笑みをされると、


「ヴァンくんのこと、私も自分の子どもみたいに愛しているよ」

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