第9話 過去の回想

「や、やめてくれぇ!」

 入学したばかりの頃。

 一年の廊下。

 名前も知らない男が足をばたつかせるように退く。

 その脇には彼の仲間が倒れこんでいて、意識があるのは一人だけだった。切っ先を彼に向けながら、剣はぶれない。決して彼の命乞いを聴くつもりなど毛頭ない。

 なぜなら、彼は悪だからだ。

 悪に、正義の鉄槌が下されるのは当たり前のことだ。

 おい、あれやりすぎだろ。なんであいつがあんなことやってるの? あいつ、あれだろ? 問題を起こしている奴を勝手に粛清するっていう、最悪の問題児は。ひでぇ、やめさせろよ。そうだ、先生だよ、先生。誰か先生呼べよ。

 ……と、なにやら外野がにわかに騒がしくなった。

でも、彼らは口を出すだけで、遮断している。何やら大変。そしてどうやら自分のことが気に喰わない。でも、私達には関係ない。だから興味本位で覗いています、とそういう輩らしい。

「どっちもどっちだな……」

 チギリは自分のやっていることが正しいと思っている。

 そこに逡巡は存在しない。

 だから自分が悪だと断定できたものを断罪することができる。悪に対して。間違ったことに対して、見て見ぬふりをするような奴は、きっと悪だ。そしてきっと、純粋な悪よりもっと醜悪だ。そんな悪に私は染まらない。

「黙って私の剣を受けていろ」

 やるべきことはやる。正しいことをやり続けていれば、きっと……自分のしでかしてしまった罪を……。間違ってしまったことさえもきっと帳消しに――


「うああああああああああああああ! どいてくれぇえええ!!」


 情けない声を出しながら、倒れこんでいる男に体当たりをかました闖入者。

 男を吹っ飛ばして、そいつも転がる。あれは、けっこう痛いはずだ。男も、それからよく分からない不審者も。

 周囲がまた騒がしくなった。

 ……あれ、あれの生き残りじゃないのか? ヴァンとかいう奴。えぇ、かわいそう。ううん、あの人って、いつもへらへらしているから同情できないって。むしろ妹さんの方がいつも悲しそうにしているわよ。そうそう妹さんがあんなに優秀なのに、魔法の才能がないお兄さんはいつも笑ってるんだよな。何も知らずにへらへらと。ちょっとあいつおかしいじゃないのか? あの人のせいで妹の評判が下がっているのに、あの人の両親は死んだのに……。

 自己紹介などしなくとも、そいつの正体がなんなのかは分かってしまった。周りの人間達の話しぶり。……どうやらチギリと同じぐらいの人気者であるらしい。

「あー、悪い悪い。ちょっと妹に呼び出し喰らっててさ。急がないといけないから、そっちの彼が目を覚ましたら謝っといてくれる? もう、気絶しているみたいだし」

「お前、私からそいつを助けたつもりか?」

「え?」

「そいつが何をしたのかお前は知っているのか? 女子生徒を集団で襲ったんだぞ。言うことをきかないからって女の顔を殴ったんだぞ? 女の顔が腫れて、口の端を切って血を流してたんだぞ? そんな悪を! お前は助けたんだ! 何も知らない部外者が、正義の行いを邪魔するんじゃない!!」

 すぐにわかるような小芝居をして、チギリの剣から男を助けた。

 気絶させてしまえば、もっと痛めつけてしまえば、こちらが退くと考えたのだろう。

 とんだ正義の味方気取りもいたものだ。

 悪を助けようなんて、偽善者以下だ。

「えっ……と……」

「何も知らないくせに、横からしゃしゃり出てくるな! 貴様のやったことは、悪そのものだ!」

「……『悪』ねぇ。……善悪はどうやって決めてるんだ?」

「はあ? 何を言ってる。何が正しいのか、間違っているのか。そんなこともお前は分からないのか? 子どもだって善悪の区別ぐらいつく。そんなの当たり前だろ!」

 そうだ。

 いつだって、チギリは真っ直ぐに生きてきた。

 兄と後継者争いをした時にだって、正しく本気で相手をした。あれは、間違いなんかじゃなかった。兄の本心を知らなかったからしかたがなかったんだ。

 だから、自分のせいなんかじゃない。悪くない! 自分は絶対に悪くない! 常に正しくあろうとする自分の正義は歪んでなどない。

「なるほど……」

 うん、うん、とそいつは適当に首肯していると、


「まあ、でも、お前は間違っているよ」


 突然真顔になる。

「なにを――」

 ぐらり、と一瞬倒れそうになるが、

「俺が助けたのはあの男じゃなくて、あんただよ」

 ヴァンの思いもよらぬ声で、意識が現世に戻る。

 ほら、とヴァンの視線を辿る。気絶している男の手元に転がっていたのはナイフだった。不意打ちするつもりだったらしい。

「ナイフ……? そんなもの、私は防いでいたよ」

「かもな。それでも俺はあんたを助けたよな。もしかしたら心臓を一突きにされていたのかもしれない。まさに俺は命の恩人だ……だから、今度は俺を助けてくれないかな? 交換条件ってやつだな」

「…………意味をはかりかねるが」

 飄々としている眼前のヴァンが助けを求めているのに違和感を覚える。

悩みの一つすらなさそうだ。悩みがないことが悩みです。とか、能天気なことを言い出しそうな面構えをしている。

「あんたの家って、代々名家の人間に仕える家なんだろ? だったら、俺に仕えてもいいってことになるよな?」

「確かに……理屈上はそうなるな。だが、お前ごときに下るつもりなど毛頭ない」

 そんな家の事情まで噂で飛び交っているらしい。しかし、自分から仕えて欲しいなどと言われたことは初めてだ。

 初対面なのに、ここまでずけずけ人の懐に入り込む奴も珍しい。

「なに言ってんだよ。命を救ってやったんだ。必要な前提条件は達成していると思うけどな。それとも、イヌブセの家のお嬢様は助けられた恩を仇で返すと。なるほどねぇ。それが正しいことなのか。勉強になるなあ」

「……貴様ッ……」

 イヌブセの家のしがらみなど知らないからといって、聞き逃せる軽口ではない。

「俺も成り上がったからな。良く思っていない奴が多いんだよ。たまに襲われることもある。だから少しでも味方が欲しいんだ。お前だって、そうだろ? 周りに敵が多い。というよりは、自分で敵を作ってる感じか。……ともかく、同じような状況にある俺らが手を組むってのはどうだ?」

「貴様なんていなくとも、私は一人でやっていける。どれだけの敵がいようとも、自分の正しさを貫いてみせる」

「そうやって、自分の――いや、自分だけの正義を大義名分に、気に入らない奴をこれからも叩きのめすつもりか? 当たり前のことだけどな、この世に全て正しい人間なんていないんだよ。お前が少しの間違いを許さないっていうんだったら、この世界の人間全てがお前の敵だろうが」

「……だからなんだ」

 そんな大仰なことは考えたことなどない。

 だけれど、間違いをそのままにしておくことは間違いなんだ。

 自分の兄さえ救えなかった。

 だからせめて、眼に映るものを守りたいと思った。助けたいと願った。

 だけど、力を誇示する度に敵が増える。障壁が強固なものになっていく。周りから疎外される。

 もしかしたら、やり方が間違っているのかもしれない。

 強硬策ばかり取っているからなのかもしれないけど、でも、だったらどうすればいいのか。自分にはこの剣しかない。それしか能がない。兄を苦しめてしまったこの剣で、誰かを助けたかったのだ。そうすることでしか、自分を救えない。

「どれだけ自分を追いつめてるんだよ。そんなの苦しいだけだろ? お前はお前自身にすら厳しすぎる。お前はお前自身すら敵にしちまってる。……それだったら、俺がお前にとっての唯一の味方になってやるよ」

「味方……だと……?」

「ああ、そうだ。俺がお前を守る。だからお前は、お前を守る俺を守ってくれ。そうやって守り守られていくうちに、いつか……いつかさ……お前がお前を許せる日がくるよ。そしたら、お前が他人のことを信じられて、お前の味方がいっぱいになる日がきっとくる……」

 ヴァンの言葉を鵜呑みにしてはいけない。信じてはいけない。そうしてしまったら、また兄の時のように失敗してしまう。……それなのに、いつの間にかここまで耳を傾けてしまった。まるで、何かに縋るみたいに。

「だから、俺のことはいつか『ご主人様』って呼んでもいいぞ」 

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