第3話 忍び寄る影は殺意をもって牙を剥く

 真っ白な配色をしている講堂の出入り口。

 フロンティアの住人達が生活を営んでいる住宅街となると、ここからさらに階層を下った場所にある。自宅に帰ろうとする足取りは重々しく、意味のない寄り道をしたい衝動に駆られる。

 森林区域と施設区域はキッチリと枠組みされていて、急な段差がある。森との境目の段差には巨大な石膏の壁が立ちはだかっていて、素手で登り降りできない。

 区分けされている箇所に設置されている横幅のある灰色の階段は、グキッと首が嫌な音を立てるほどの高さがある。

 施設区域から住宅区域までも階段があって、リュウキュリィア全体の階層は三重層の構造となっている。

 縄で縛った猪を抱えてここに到着するまで、相当量の発汗をした。だがこれから巨躯の猪を引きずるようにして、自宅のある階層まで運ばなければいけない。

 太い縄でギチギチに縛った猪を引き摺ろうと持ち上げると、げっと思わず小さく口内からはみ出すような声を上げてしまった。

 前方には、旧知の仲でありながら恐らく一生そりの合わない人間がいた。

 言い争いになることは必至。

 どこか逃げ場所を探すが、枷となっている猪が邪魔で隠れそびれてしまった。

 こちらに気づいた天敵は、得意の暴言を浴びせられる相手を見つけた昏い喜びからか、意地の悪い顔で唇を歪ませる。

「おやおやー。そこにアホみたいに口を開けて突っ立ってるのは、《狩猟会》の名誉会長であるウーゼニアさんじゃないですか? ……あれっ。どうしたんですか、こんな所まで足運んで。いつものように、森の動物たちと戯れていたほうがよろしいんじゃないですか? ……山猿みたいにさあ。プッハハッ」

 気取ったようにポケットに両手をつっこみながら揶揄してくる少年の言動には、一々腹が立つ。

 尖りのある髪の毛は銀色で、日光を反射して目が痛い。男のくせに前髪全ては斜めに纏められ、片眼をすっぽり覆っているぐらいに長い。覆われていない側の瞳の横には、器用に編みこまれた三つ編みがぶら下がっている。

 後ろ髪で結った髪をわざわざ前に持ってきて肩にかけている。何かアシンメトリーに異様なこだわりがあるらしい髪型は、見ていてウザったらしい。

 サラリとした銀髪を整えるように横に流すと、鼻腔の奥底にまでグサッと突き刺さるような香水の匂いが分布されて気分が悪くなりそうだ。

 このイラつく奴の名前はヤミヨイ。

 男でありながら、高い鼻梁と甘いマスクはどっちかというと女性に近い顔のパーツをしている。その整った容姿から、一部の異性には人気があるようだ。少し悪ぶっているところが、また心を擽られるらしい。

 意図は図れないが、事あるごとにつっかかってくる。

 ヤミヨイは時折、シキに《精霊獣》の操り方について、指導を仰いでいるため、こうしてバッタリと出くわす機会が多い。

 ヤミヨイは地面に擦れそうになっている長い外套をはためかせながら、距離を詰めてくる。

「いつもみたいにあのクソ生意気な金魚の糞をはべらせなくていいのか。独りぼっちで、こんなところにいて心細くないのかな? ボク」

「ヤミヨイ。お前こそ、いつも鬱陶しそうにまとわりついている取り巻きはどうした? 一人じゃ何も出来ないお前が、この俺に喧嘩を売っていいのか? どうせなら取り巻き連中を呼んでくればどうだ。そうすれば俺もお前の子守りをせずに済むんだけどなあ」

 小馬鹿にするようにニヤけきっていたヤミヨイの口元が、憎んでいるみたいに禍々しく歪む。ドンッ、とウーゼニアの肩の辺りを強めに押すと、

「……ははっ、ウーゼニア。今日はいつもと違ってずいぶんと強気だな。シキ師範のお気に入りだからって調子に乗るなよ。お前の大好きなママはここにはいないぞ。さっさと家に帰って慰めてもらったらどうだ」

「ヤミヨイ、お前ッ……」

 ブチィィと、糸みたいなものが脳髄で確かに引きちぎれたような音がした。フラッシュが網膜を覆ったみたいに一瞬怒りで目の前が真っ白になる。チカチカと明滅する残光が完全に消え去ったのだが、怒りを抑圧する姿を気圧されたと勘違いしたヤミヨイが調子に乗って余計なことを口走る。

「どうしたんだい、ウーゼニア。もしかして図星をつかれて怒ったのか? そうだよな、いつもママの言いなりになってる箱入りお坊ちゃん?」


「――絶叫しろっっっ、《アルラウネ》ェェェ」


 鼓膜が破れそうなほどの轟音が鳴り響くと同時に、ピンボールみたいにヤミヨイが弾かれる。

 そのまま講習堂の壁に叩きつけられたヤミヨイの体躯に絡みついているのは、触手のようにうねっている太い蔓。幾多の蔓は縫うようにして交差して、ウーゼニアの足元にいる《アルラウネ》へと収束している。

 《アルラウネ》は、ウーゼニアが使役している人型でありながら木々の体で構築されている《精霊獣》だった。

 ズボンのポケットにすっぽり全身が入るミニサイズであるが、精巧な自律人形オートマタのように顔の造形は人間と差異はない。違いがあるのは、人間と違って超常の力を発現できるということだ。

 《精霊獣》と何らかの対決をして敗北を認めさせると、互いの合意の元により《精霊獣》はその驚異的な力を《使役者》に与えることができるようになる。

「その迂闊な口もそうしてしっかりと閉じれば、少しは賢く見えるかもな。――ヤミヨイ」

「よりにもよってお前ごときが、この僕に偉そうに指図するなよ。――ウーゼニア」

 ヤミヨイの影に、水面のような波紋が拡がっていく。

 ズ、ズズズズ、と深淵がドーム型に盛り上がると、闇は生き物の形状にその姿を変える。最終的に影が形をとったのは、豹にも似た四本足の黒狗だった。しなやかな肉付きをしながら、四肢の筋肉は隆起している。

 長くて銀色に光沢のある五本の爪や、鋭利で頑丈そうな牙はすぐに獲物を八つ裂きにできるよう剥き出し。黄金色の双眸は、主人であるヤミヨイの殺意を反映しているかのようにぎらついている。グルルルという喉から発声している凶悪な唸り声が、胃の底にまで響く。


「――返り血に染まれ、《クー・シー》」


 ヤミヨイの総身をギチギチに拘束していた蔓が、ノコギリの刃のような歯と研ぎ澄まされた爪によって、あっという間に根こそぎ伐採されていく。木片が舞う中間髪いれず、《クー・シー》は猛烈な速度で突進してきた。

 至近距離まで近づかされてしまって躱すのは不可能だが、フェイントひとつも入れず真正面から仕掛けてきたのはヤミヨイらしくない失敗だ。

「くッ、《アルラウネ》ッ!」

 ビキビキッと大地にギザギザの亀裂が入ると、そこから新たな蔓の群が出現させる。気づかれないように、地中の中を這うように蔓を移動させていた。

 ウーゼニアまで最短距離で接敵した《クー・シー》の移動速度は驚異的だったが、だからこそ移動ルートはおのずと絞られる。

 《クー・シー》の無防備などてっ腹に、天空へと伸び上がるかのような蔓の一撃が叩き込まれる。獣らしく涎を撒き散らすと、その場をボロ雑巾のように横回りに転がる。それでも空中で体勢を整えると、四本足で受身を取るようにしてズザザザァァと滑りながら着地する。

 臨戦態勢に入るまでの時間が短い。

 やはりシキの指導もあって、《クー・シー》はかなり訓練されているようだ。

「思ったよりも戦えるじゃないか、ウーゼニア。けどなあ、植物を生やすしか能のない《アルラウネ》如きが、いつまでこの均衡を保てるかな」

「お気遣い、どーも」

 地中から飛び出したしなやかな蔓を、まるで鞭のようにしならせる。

 折れそうになる直前まで曲げて反動をつけると、横合いからヤミヨイを狙う。ヤミヨイは突っ立たまま受ける訳にもいかないから、当然、《クー・シー》を盾にする。

 《クー・シー》は歯噛みしながら鞭の一撃に耐えきってみせた。

 《精霊獣》冥利に尽きる踏ん張りっぷりだが、《クー・シー》が攻撃に転じるまでにはまだ若干の時間の猶予がある。

(誰が、いいなりになっているだけのお坊ちゃんだって?)

 激情に任せたまま、ヤミヨイの懐に潜り込む。

 《精霊獣》だけの力ではなく、自身の力を証明したかった。ヤミヨイに散々侮辱されたのが我慢ならず、この拳をあの憎き頬にぶち込むことによって、溜まった鬱憤を発散しようとした。

 だが、本来ならそんなことをする必要などなかった。

(《クー・シー》はどこにいった?)

 ウーゼニアの神経を逆なでにする暴言の数々が、こちらの思考を鈍らせるための挑発だと気がついた時には既に遅かった。ヤミヨイとウーゼニアの影は近づきすぎたせいで、交差してしまっていた。

 ぬっ、と《クー・シー》が、いきなりウーゼニアとヤミヨイの間に割って入ってきた。ヤミヨイの《精霊獣》たる《クー・シー》は、あたかも瞬間移動のように、交差した影の中ならば自在に行き来することができることを失念していた。

「肉片になれッ、ウーゼニアッ!!」

 クロコダイルのように顎を開ききった《クー・シー》が、飛び上がるようにして襲いかかってくる。ヤミヨイの安い挑発に釣られてしまい、《アルラウネ》と必要以上に距離を開けてしまった。

 攻撃と防御。

 そのどちらも、今となっては間に合いそうにない。

 少しでも被害を軽減しようと、腕を差し出すしかないが、それも焼け石に水程度の効力しかないだろう。

 極端に尖った八重歯によって、腕が根元から引きちぎられる。そんな最悪の惨劇が頭に過ぎったウーゼニアは、固く両目を瞑って、これから来る激痛に耐えるように奥歯を噛み締めた。


 だが――


 ヒュン、という空気を斬り裂く音が微かに響くと、絶望に満ちた野獣の悲鳴が地を転がっていく。ガラン、カラン、という澄んだ金属音を伴いながら横切る《クー・シー》の断末魔は次第にミュートになっていく。

 訪れることのない腕の飛翔する感触に、眼蓋の裏に広がる闇の中でも何かが起こったらしいということだけは実感した。そんな完全な闇の中でも、頼もしい光明のようなものが見えた。その光明は絶対に信頼できるような、そんな温かさを含んでいるような気がした。

 そして、静寂がその場を支配する。

 重力感のある緊張に耐えられなくなって、目蓋に力を入れてバッと一気に見開く。そこには脇腹を長剣で串刺しにされている《クー・シー》が、ぐったりと舌を露出さえながら横たわっていた。眼球の光が喪失してしまった《クー・シー》は、地を這う闇の中に逃げ返るようにしてズブズブと潜っていく。

 カラン、カランと、長剣だけが取り残される。剣の根元にまでこびり付いていた黒く濁っている血は、数瞬の後、フッと消え入る淡い炎のように音もなく霧散する。

「言ったわよね。私のウーゼニアに手を出したら、いったいどういう末路があなたを待っているかってこと」

 バッ、とヤミヨイは、屈辱感に唇を噛みながら振り向く。

「肉片にするのなら、私が刻んであげましょうか? その代わり……どこの誰を斬り刻むかは言うまでもないわよね」

 銀色に鈍く光る長剣を、ヤミヨイに向けるのは顔見知りの少女。

 烏の羽のような艶のある髪の毛は恐らくかなりの長さを誇っているのだろうが、後ろで結っているがためその全長は確かでない。柳のようにシュッとした眉は、顰めていても彼女の美貌を全くと言っていいほど損なってはいない。

 瞳の表面にはダイヤモンドダストのような煌びやかさが、結晶みたいに散りばめられているが、その奥底には対照的に薄暗い酷薄さを孕んでいる。精緻な造形をしている小ぶりな鼻には綺麗に筋が通っていて、その下には花びらのように可憐な唇がぷっくらと膨らんでいる。

 あまりにも綺麗過ぎて人間味が一切抹消された彼女は、怒りが染み込んだ能面を作っている。

 怜美な眼付きを常時しているがため、いつもどんな感情でいるのか見分けづらいが、蒸気が漂うような憤怒のオーラに、さしものヤミヨイもたじろいでいる。

「…………キルキスッ…………」

 ヤミヨイは、反撃できるか否かを確かめるように、影をチラリと一瞥する。ウーゼニアとキルキス二人による連戦によって深手を負ってしまった《クー・シー》は、影から出る気配がない。今は影の中でその傷を癒すのに必死で、飛び出る余力もないようだった。

「聞こえなかったのかしら? まずは、その役に立っていない耳から削いであげましょうか?」

「クソッ。いつもお前をストーキングしている糞女のお蔭で命拾いしたな、ウーゼニア。ほんっ――と、お前が羨ましいよ。いつも女の後ろに隠れてるだけで、なんでも解決してくれるんだもんな」

「……………………」

 構えている剣とは反対側の鞘に収められている、もう一本の剣にキルキスは無言で手をかける。

 二本の剣を操るキルキスの強さは、このリュウキュリィア全土に知れ渡っている。ヤミヨイは、ゾッとした顔を表情に貼り付けたまま、クソッと捨て台詞を残しながら遁走する。

 ヤミヨイが、無様に背を向けたのも仕方ない。

 付き合いの長く、そして助けられた当人であるはずのウーゼニアですら、たじろぐほどの迫力を持って睨みを利かせていた。

 無様に去りゆくヤミヨイが、遠近法によって羽虫のように小さくなるのを見届けたキルキスは、ようやく警戒心を解いて剣を収める。

 ふぅ……と、安堵というよりは、精神的に疲労した溜め息をキルキスは漏らす。

「……ヤミヨイって、15歳とは思えないぐらい幼稚よね」

「キルキスも15歳とは思えない貫禄だよな」

 落ち着き払っている様子は、ウーゼニア達と同年齢だとはとても思えない。

 褒め言葉として言ったつもりなのだが、キルキスの顔の上部あたりが一気に青ざめる。無自覚に、何やら痛いところをついてしまったらしい。フォローしてやらねばならないぐらいに、慄いてしまっている。

 さっきまでシャッキとしていた背骨を、自信喪失したかのように打って変わってちょっぴり折り曲げている。両手の細長い指を頬骨にかけるようにして、顎を掌で覆る。

「……私って、そんなにおばさんっぽい?」

「おばさんっぽいとかじゃなくて、そ、そうだな。頼りがいのある女性ってところかな。何かと世話を湧いてくれるし」

「えっ……」

 驚愕したように瞳孔を開くと、キルキスはその場に糸の切られた人形のようにへたりこむ。

「ええっ! どうした!?」

 驚愕を思わず声に出しながら、ウーゼニアは駆けつける。

 もしかしたら、どこか先ほどの戦闘で傷ついたのかも知れない。

 ピクピクと頬を変にヒクつかせながら、キルキスはその場に蹲るようにして身体を丸める。

 バサリとセミロングの前髪が表情を覆い隠している様は、ちょっとしたホラーだと思わざるを得ない。キルキスはそのままの態勢のまま、ブツブツとなにやら呟く。

「そ、そう? 私ってそんなに綺麗で可愛いくてお淑やかで美人でずっと傍にいたいと思えるような、大人の女性? やっぱりウーゼニアってあのクソアマと親しくしているだけあって大人っぽい人が好きなのよね。だから私も気にしてたんだけど、そこまで綺麗になってたなんてホント意外。あまりにも美人になりすぎて、一緒にいるのが大変?」

「いや、そこまでは言ってな――」

「ありがとね、ウーゼニア。異性にあまり褒められたことないから私、ほんとに嬉しい……。男扱いどころかゴリラ扱いされる方が、私は多いから」

「いや、俺も正直そう思っ――」

「それで、ウーゼニア。その猪はどうしたの? 大きいわね」

「俺の話聞くきないよなっ!! さっきからっ!! てか、俺がなにを言おうとしているか薄々感づいているだろ!!」

 キルキスは、極端に視野が狭い。

 だからこそ、周囲の雑音に屈することなく、一つのものに没頭出来るだけの集中力がある。これほどまでの実力を身につけるに到ったのも、ひとえに類まれなる集中力のおかげに違いない。

 ウーゼニアは逆に周囲の雑音が自意識過剰ぎみに入ってくるので、ありもしない妄想にとりつかれて何もできないことが多い。

 悩んで悩んで悩みぱなっしのまま、立ち竦むことも少なくない。だからキルキスのように自分の言動に自信を持って、一切の躊躇なく前へとひた走ることができるそのバイタリティには、密かに憧れを抱いている。

 だからといって、お花畑が見えているかのように自失状態になってしまっているキルキスを、このまま放置しているわけにもいかないが。

 蹲ったまま自分の世界に入り込んでいるキルキスを現世に呼び戻すために、猪の全身を見せつけるようにして持ち上げると、

「今日の夕飯。獲ったのはいいんだけど、重すぎて持ち運びが大変なんだよな。これどうすっかなー」

「……随分と大物仕留めたみたいね。だったら、その猪ごと路面電車に乗せればいいんじゃない?」

「それだと、他の乗客の人に迷惑がかかるだろ。というか、その前にこんな荷物抱えている俺なんて乗せてくれなさそうだけどな」

「……そっか。確かにそうね。だったら、この私が運ぶの手伝ってあげる。その代わり、ちょっとその肉分けてよ」

「いいけど……結構これ……重……い……ぞ」

「貸してみなさいよ」

 ウーゼニアがここまで引き摺るようにして持ち運びした猪は、やはり重量感を伴っていてほとんど持ち上がらなかった。それを見かねたキルキスは、ひょいっと重力を感じさせない動作で肩の高さまで持ち上げる。

「どうしたの? ウーゼニア。早く行くわよ」

 軽々と運び歩くキルキスは、最早ウーゼニアの助力などいらず、一人でさっさと進んでいく。手持ち無沙汰になってしまったウーゼニアは、猪を担ぐキルキスの後をついて行く。男女逆であるべきあまりにも情けない光景に、なけなしのプライドが砕け散る。こんなんじゃ、ヤミヨイが皮肉っていた通りだ。

「キルキスには助けられてばっかりで、立つ瀬ないよな……」

 ウーゼニアは、キルキスに聴かれない程度の音量で、そっと自己嫌悪な独りごとを吐き捨てた。

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