第2話 惑う心を導くのは清涼なる旋律

 鈴を転がすような音が、室内外に反響する。

 どこまでも透明感のある美声は、まるで穏やかに流れる小川のせせらぎのよう。その調べは、海のように深い色の瞳をしている女性のハープから、それこそ奇跡のように紡がれていた。

 彼女は一切楽譜に目を通していない。

 感じたままに、五指を動かしている。

 この音色に聞き惚れていると、聴く側の意識はいつまでも戻らない。

 少年の頬から蒸気のような煙が漂いだすと、驚異的な速度で傷口がみるみる塞がっていく。ジュウウと鉄を焼くような物騒な物音。頬骨に迸った小さな痛みで、ようやくハープの拘束から解放される。

「いってぇっ!」

「文句言わないの。このぐらいの痛み我慢しなさい。ウーゼニアくんは男の子なんだから」

 耳触りのいいハープの余韻を途切らせた後に、ウーゼニアと対峙している女性の口から出たのはうるさい小言。

 凛と響く声は、彼女が演奏していた音楽とは対照的。

 だがどちらも併せ持つからこそ彼女らしい。

 ふふん、と年上のお姉さんっぽく余裕を持って、対面の椅子に腰掛けている。さっきから互いの足と足同士が接触しそう。それもこれもこの部屋が狭苦しいせいだ。

 ここは、彼女が使用している静謐な雰囲気のある個室。

 あらゆる資料が山積みになっている。サークルに関する資料が多いようだ。

「シキ師範がもう少し丁寧に演奏してくれていたら、俺だってこんな泣き言言ってませんよ」 

 シキのゆったりと演奏する姿に、すっかり見惚れていた。

 そして、照れ隠し替わりのウーゼニアの憎まれ口に、不貞腐れたような態度をとるシキ。どちらも子どもじみた挙動をとってはいるが、彼女はとっくに成人年齢を超えている。

 母性を感じさせる垂れ気味の目尻は、心優しい彼女の性分が滲んでいる。

 感情豊かで、コロコロと表情が変わる様は観ていて飽きない。

 湾曲を描く顔の輪郭をなぞる瑞々しい長髪。顕になっている大きめの額の下には、精緻な顔の各パーツ。

 そこまでは、いくら彼女が美女といってもまだ普通の人間の容姿だ。だが、シキには他の人間とは一線を画す特異な点がある。

 それは――光沢のある鱗がついている艶やかな耳だった。

 人魚ゼーワイフと人間の混血児である彼女は、他の人間のように《精霊獣》を使役せずとも、先刻の治癒能力を如何なく発揮する。

 彼女の能力の特性はハーメルンの笛吹のように、音を聴いた人間を自在に操ることにある。その応用として、傷口を強制的に治せるのだ。

「……ふーん。そんな強気な態度に出れるのなら、もう傷は痛まないみたいね。よかったわ。ウーゼニアくんをキズモノにしちゃったら、キルキスちゃんに怒られちゃうもの」

「ご、誤解されるような言い方はやめてください! ……それに、キルキスに密告するのだけは冗談でも辞めてください。あいつ、ほんっ――とに怖いんですから。昔あいつを怒らせて、半殺しにされましたからね……」

 包帯をグルグル巻きにしながら、ウーゼニアは何ヶ月か過ごしていた。あの時のことは思い出したくもない。

「あー、あれでしょ? キルキスちゃんと一緒に風呂に入ってる時に胸が小さいって、揶揄しちゃったことでしょ? それは女の子としてショックよね……」

「あ、あれは! 小さい頃だったからで! そもそもあいつが本当の意見を聞かせて欲しいからって言われたから見たままのことを告げただけで……って、なんでそのこと知ってるんですか?」

「ゼルミナさんから教えてもらったの。この前、ウーゼニアくんのことについてお話することがあったから」

「あの人はもう……歩く拡声器だな」

 そっと嘆息する。

「その……ゼルミナさんからも聞いたんだけど」

 切り出すのを躊躇うみたいにシキは口籠ると、

「……それで……さっきの話の続きだけど、辞めちゃう決心はもう揺るがないの?」

 悲哀の色を帯びた瞳をしたシキに見据えられると、固めた決意を口頭するのを躊躇ってしまう。

「……はい……もう俺はシキ師範の『狩猟会』には居られません。……辞めるように……親に言われたので」

「そんな言い方しちゃうってことは、ほんとうは未練があるんじゃないの? ウーゼニアくんはそれで……いいの?」

「いいんです。そうしないと、親が悲しむので」

 ギュッと、無意識にズボンの布地を、積もりに積もった憎しみを込めるかのように握り締めていた。

「……そう。それだけ意思が固いのなら、私から言えることはもうないけど。……それにしても、ちょっと寂しくなっちゃうわね。教え子が一人いなくなるのは」

「いいじゃないですか。『狩猟会』はなくなりますけど、その分『K.O.F.T』に参加する奴らの指導に専念できるんですから」

 キング・オブ・フロンティア・トーナメント。

 略して『K.O.F.T』。

 《精霊獣》を使役して戦う世界最大の大会……っていうことしか知らない。

「そう……なんだけどね。今まで当たり前のようにあったものが消えちゃたりすると、やっぱり寂しいものよ」

 シキは、服を盛り上げている双丘を持ち上げるような腕の組み方をすると、悲しそうに薄い唇を固く引き締め、

「……そういえば、今日狩った獲物ってなんだったの?」

「ガザリア山の猪です。かなりの巨体で仕留めるのには苦労しました」

「ほんとに? すごいじゃない! 有終の美を飾れたんだ。これでもう、《狩猟会》に未練なんてないわね」

「……ええ、そう……ですね」

 さらりと嘯くことができなかったのは失態だ。

「そろそろ……行かせてもらいます。遅いと、心配性な母親がうるさいんで」

 更に追求してきそうなシキの真っ直ぐ過ぎる視線が怖くて、逃げるようにして席を立つ。

「そっ。もしよかったら、私にもその猪分けてね。ウーゼニアくんが最後に狩ったものだから、私もちゃんと食べてみたいもの」

「あはは。いいですよ。その代わり、余り物になっちゃうかもしれないですけど」

「……いつでもいいから、なんの用事がなくとも、来たくなったら私のところに来なさいね」

 敢えて軽妙な口調で言ったのも看破されたらしい。

 ここまで心を読まれてしまうのは年の功か。

 悲哀と真剣の混ざり合った表情をしたシキの顔が、ドアの隙間から見えた。

 相談されなかったことがそれだけ辛かったような、暗澹とした表情。信頼されていないと思い込んでいるのかも知れないが、それは全くの逆。ここまで心配してくれるシキだからこそ、あまり自分の弱いところを見せたくなかった。

 揺れる瞳をしたウーゼニアは、そのままドアを閉める手の力を緩めることはなかった。

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