フロンティアの王

魔桜

第1話 狩人は最後の狩りを惜しみながら矢を放つ

 軒並み背の高い森林が鬱蒼と茂っている。

 呼吸音すらボリュームに気を遣いながら、少年は密林に身を隠し、待望の標的がその姿を現すまでジッと待機していた。

 沈黙の時間が流れれば流れるほど、緊張感は青天井に上がっていく。

 じんわりと、手には粘ついた汗が滲む。

 不快感を伴う発汗は額から眼蓋の上にまで及ぶ。睫毛を掻い潜るように流れる汗に思わず目を瞑り、手持ち無沙汰になっている方の手で擦る。

 もう片方の手に持っているのは、これから必要とされるであろう狩猟の道具――弓矢。切り崩した木を削って造り出した逸品で、とても触り心地がいい。少年の手にフィットするように、緻密に計算された特注品だ。

 青々とした木々の葉は微かな風に揺られると、どこか歌声のようにざわめく。

 幹から伸びる梢は折り重なり、照りつける太陽光は、視界全域にびっしりと葉の形の影を落とす。

 樹齢何百年はあろう貫禄のある太い木の根は、地中に収まりきらず生き物のようにうねり大気に晒されている。

 こうして、景観を見渡せる小高い丘から膠着状態が続いて数刻。

 どれほどの時を消耗してしまったのか、最早時間の感覚がない少年には検討もつかない。

 何もせずにただ標的を待ち続けるというのは、ひたすら動き回るよりも苦痛を伴う。

 そろそろ我慢の限界だが、ここで痺れを切らして動いてしまえば獲物に気配を勘づかれてしまう。

 日頃の習性から裏付けた予測が正しければ、この時間帯のこの付近に姿を現すはずだった。

 だが、一向に状況は進展しようとしない。

 このまま身を屈めているだけで本当にいいのかと焦り、履いている靴の中の足をじれったく動かす。もしかしたらもっと草木が生い茂る、食料調達できる場所にいるかもしれない。待ち構える場所を移そうとすると、

「――――――!」

 ガサガサッと、草木を掻き分ける一際大きい音がする。

 梢の間からひっそりと凝視すると、お目当てだった猪がようやく出現した。

 びっしりと針のように逆立つ黒い体毛は、巨躯の輪郭を型どっている。

 丸々肥えていて寸胴な体格にも関わらず、俊敏な動きを見せるガザリア山の猪。

 このまま不容易に接近し過ぎると危険極まりない。

 ガザリア山の動物内では無双を誇るであろう突進力と、ずんぐりとした鼻で人の匂いをいち早く嗅ぎ分けられるだけの超嗅覚。

 あの能力値の高い猪を狩るならば、こうして身を隠しながら安全圏において一撃で狙い撃つ他ない。

 ギリギリと、手にしている弓矢の弦を軋ませる。

 片眼を瞑りながら、動いている猪に焦点を合わせる。普段的中させている静止している的とは比べものにならないほどに、難易度は高い。

 これは練習ではなく、本物の狩りだ。

 兎や狐などの小動物を狩った経験はあるが、今相手取っているのはガザリア山の主。少年はかなり緊張している。しかも、予想していたよりも近距離に出現してしまって、このまま矢を放ってもいいものかどうかめまぐるしく逡巡している。

 もしも急所からズレたところに的中してしまったら、怒り狂った手負いの獣が反撃してくるだろう。野生に特化した猪相手では、ただの凡庸な人間である少年如きでは太刀打ちしようもない。

 逃走してもすぐさま追いつかれてしまう。だからこそ一撃において必殺しなければ、ほぼ絶体絶命という最悪の事態が待ち構えている。

 それでも中止するわけにはいかなかった。

 これがきっと最後の狩りになるだろうから、ケリをつける決心が欲しかったのだ。あまりの強さに、今まで手出しすら出せなかったあの猪を狩ることができれば、きっとこの未練を断ち切ることができる。

 神経を極限にまで研ぎ澄ませて、指の力を一気に抜く。

 全ての事象がスローモーションになった感覚。

 手元から解き放たれた矢は、猪の躯に吸い込まれるようにして綺麗に回転する。そして――的中した。断末魔のような悲鳴を上げると、猪は血を数滴流して蹈鞴を踏む。

「………………よっしゃあ!」

 達成感に思わず歓喜の声を上げるが、ガッツポーズをとるまでには至らなかった。

 矢が刺さっている猪はブンブンと痛みを紛らわすようにして頭を振り、殺気の孕んだ昏い双眸をこちらに投射してくる。

 どうやら分厚い脂肪のせいで体躯に刺さりきらず、仕留めきれなかったらしい。時間差で昏倒することを期待してみたのだが、予想以上にピンピンしている。

「やっ――ばっ! 見つかったっ!」

 ひとまず追い討ちをかけてさっさと気絶させてしまおうと、弓矢を咄嗟に構えるが、

「うわっ!」

 まるで射られた傷口のことなど忘我したかのような猛烈な速度で、猪は二本の牙を武器に突進してきた。街中では決してお目にかかれない野生の迫力に気圧されてしまえば、苦し紛れに放った矢は見当違いの草叢に突き刺さる他ない。

 その一瞬の間に大猪は肉薄していた。

 グッ……と、小さく呻くようにして咄嗟に地面を横っ飛びに蹴ると、皮一枚で躱しきることができた。ビッ、と服の裾が多少破けはしたが、被害はその程度。受身を取る暇もなく無様に転がる。

 だが、一息つけたのも瞬刻。

 大猪が樹木に激突した反動で、まるで地震のようにグラグラと地面が揺らいだ。バキッバキバキッと、縦に亀裂が入る不穏な音が響いて、パラパラと樹皮が剥がれる。倒壊はしなかったが、そびえ立つ巨木が、猪の牙によるたった一度の突進によってほんの少し傾いていた。

「……おいおい。あんなもの直撃で喰らったら、骨折程度じゃ済まないだろ……」

 一定の距離を取らなければ、弓矢の威力は半減どころの話ではない。

 勝ち目のない戦いに、少年は踵を返すと一目散にこの場を離れる。ここの地形を知り尽くしている少年は吐息を撒き散らしながら、障害物の多い森の中であってもスムーズに駆け抜ける。

 だが、長年ガザリア山で頂点に君臨してきた山の主は、経験値、速度、あらゆる面で少年を遥かに凌駕していた。ぐんぐん縮まっていく少年と大猪との間隔が消失するその時は、命が潰えてしまうだろう。

 皮肉にも、狩る側から狩られる側へと逆転してしまった。

 密集している木々の枝葉にぶつかりながらも、全身汗だくのまま走り抜く。

 裂傷が次々に頬へと刻まれて、傷口が燃えるように熱い。

 蓄積していく痛みと、背後に迫るプレッシャーによって、押し潰されそうになる。

「……もしかしたら……今まで生きてきた中で……これって一番危ないかも知れないな……。ははは。このままじゃホントに死ぬな、これは」

 こんな時だというのに、少年の口元には歓喜に満ち足りている笑みが込み上げていた。跳ね上がっている気息ですら、ランナーズハイを意識するための一要因でしかない。

 平凡な日常と乖離した世界。

 そんな別世界で刹那的だろうとも、生きているという実感が胸を高揚させている。

 鬱屈とした檻の中で生かされている獣のような人生を強いられている少年にとって、生命の躍動を肌で感じることはなによりの快感だった。

 自然の中でのびのびと営みを育んでいる動物たちを見ていると、それだけで心が踊る。飼育されていない自由な野生動物とこうやって触れ合っている時だけは、俗事を考えずに奔走することができる。

 鼓膜に届いた追跡者が接敵する音。

 後ろを振り返る余裕はないが、もうあとほんの少しのところまで詰められているのが音でわかる。ゾクゾクするような悦楽に身を任せるのも一興だが、いい加減本気で相手をしなければならない。

 他の場所より明らかに大量な木の葉が地面に敷き詰められている地点の手前で、少年は膝のバネを使って大きく跳躍する。目印代わりの石から足が離れると、大猪は草木を掻き分けて突進してきた。

 中空に浮いたままでいる少年に対して、大猪はスピードに乗って加速する。このままでは大木を破損させるだけの威力を持つ二つの牙が、少年の肉体に深く突き刺さるだろう。もしも――


「もしも、ここに罠を仕掛けてなかったらな」


 少年が踏まなかった地面は、極端に陥没していた。

 跳躍などできるはずもない猪突猛進な敵は、そのまま見事に巨大な縦穴に嵌った。穴の縁に激突したせいで、闇の底で悲惨な鳴き声を上げている。

 結局は無双の突進力が仇となって、脚を挫いたようだ。横たわりながらも必死になって暴れまわっていたが、抵抗らしい抵抗ができないことを悟るとやがて静かになる。

 こんな不測の事態のために、以前からせっせと掘っていた落とし穴の一つだ。もしもの時のために、此処ら一帯あらゆる箇所に設置していてよかった。相手が相手だったので、このぐらいの保険は必然だったろう。

 どうせこのガザリア山の奥底まで少年以外で足を踏み入れる人間はいないだろうが、一応塞いでおいた方がいいかもしれない。

「今から一人で穴埋め作業なんて骨が折れるけど、きっともうここに来ることはないだろうし……。それに……この景色を見ることも……もうないだろうからな――」

 フロンティア極西の街。

 リュウキュリィア。

 屹立している針葉樹の中を少しばかり歩くと、開けた景観がぶわぁと一斉に眼球へ飛び込んできた。

 抜けるような蒼穹には、千切れた雲がたなびく。

 切り立った高い崖は鼠返しに反り返っていて、崖の上に立っているだけでもクラクラする。リュウキュリィアをぐるっと囲むような大洋はどこまでも続いていて、他のフロンティアの島影すら見えない。

 フロンティア――それは、大海に散見される島のことだ。

 この世界は元々一つの大陸であったともいわれていて、島の数は未だに解明されておらず、星の数ほどあるらしい。少年はリュウキュリィア以外のフロンティアのことを、人伝てか書物ぐらいでしか知り得ていない。

 だが、太陽光に照らされている、リュウキュリィアの街並み以上に美しい街が他に存在するとは思えない。

 何段もの層が積み重なって、生活用途に応じて区域分けされている。

 多くの建物が石造りで風情のある建造物であり、中心街には鐘つきの尖塔が添えられている。網目のような住宅街には、レトロな路面電車がひたすらに走っている。

 それらは――見納めにするにあまりに惜しい景色だった。

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