06 彼を見逃してほしい

 向こうの世界はどうやったら行けるんだろう。昨日見たとおり、三羽のペンギンがこの池に飛び込んだのだ。つまり、この池の水面は、この世界と鏡の向こうの世界をつなぐ扉になっている。


 水面の上でジャンプしてみる。なにも起こらない。もっと大きくジャンプしてみる。やっぱりなにも起こらない。この扉を抜けるには、わたしも、あのペンギンたちと同じように、空からいっきに飛び込まないといけないのだろうか。


 水面を見ると、池の小さな中島にある、白樺しらかばの木の枝が視界に映りこんだ。


 あの木に登って、池の水面にうまく落ちれば向こうの世界に行けるのでは?

 わたしは木に駆け寄った。そこで途方に暮れてしまう。この木、どうやって登ればいいの? だけど、登らなきゃ。


 白樺の木に手をかけて、登ろうとする。けど、木自体がそんなに太くないのと、手や足をかける場所が無くて、どうやっても登れそうになかった。それでもあきらめきれずに、もう一度。やっぱりダメだ。けど、もう一回。すこし体を持ち上げられたかと思ったら、そのままストンと尻もちをついてしまった。


 悲しくて、とっても、悲しくて、涙が出てきてしまう。木に登れない。ゼニガメを迎えにいけない。


「ほわっ・だっゆーどぅーいんぐ?」


 突然の声に顔をぬぐって振り返ると、昨日の白猫が、後ろ足だけで水面を横すべりしていた。白猫は、水面のはしまで届いたら、後ろ足を蹴って、ふたたび逆方向に横すべりをはじめた。スケートを楽しんでいるようだったけど、わたしにとっては奇妙な光景だった。


「いまの、きみ?」


 横すべりをつづける白猫は、返事をせずにこちらを見ていたが、池のはしまでくると、なにか思いついたようにうなずいた。


「やー……そうだよ」


「日本語!」


「いかにも」


 やっぱり白猫は喋るんだ。しかも、日本語で。けど、さっきの英語だったよね。なんで英語だったんだろう。いや、そんなことよりも!


「あの……ゼニガメ……」


「ゼニガメ?」


「……昨日の……朝の」


 白猫は思い出したかのように、ポンと前足で相づちをついたあと、「しまった!」みたいな顔をした。


「あれはノーカンでおねがいします」


「……ノーカン?」


「彼を見逃してほしい」


 彼? ゼニガメは男の子だったのか。


「あなたは、ゼニガメと……お話できるの?」


「うん。だから、あのカメの要望にこたえた」


 すごい。


「ゼニガメは……わたしのこと、なにか言ってた?」


「んー、それはノーコメントで」


「戻ってきてくれそう?」


「それは無理じゃないかなあ」


 白猫はそう言うと、人間みたいに首をかしげた。


「無理って……なんで?」


「だって、あのカメ、しばらくは帰らなそうだし。そしたら、この池の水面の氷、溶けちゃうでしょ」


「溶けたらダメなの?」


「うん」


「それは困る!」


「ええ……そんなこと言われても」


 白猫は、腕を組むように前足を絡めて、困り顔をわたしに向けてきた。


「なんでダメなのか説明して」


 白猫は、しかたない、という顔をしたあと、ふたたび横すべりをはじめながら解説をはじめた。


「……うーん、この池の水面はね、たまたま偶然just happened to be、完全な反射率の鏡のようになってしまったんだ。この鏡のような状態に、別の並行へいこう世界せかいがまた、たまたま偶然、結びついてjust happened to link、二つの世界がとびらのようにつながってしまったんだよ。だから、この水面の反射率がすこしでも変わると、向こうの世界との扉の役割は失われてしまうんだ」


 並行世界? 反射率? よくわからない。この猫は、ちゃんと日本語を話せているのだろうか。じつはところどころ中国語が混じっているのでは?


「あー、わかってなさそうな顔してるね。簡単に言うと、ここ数日中に、カメがこっちの世界に戻らないと、こっちとむこうの二つの世界をつなぐ扉が閉まって、二度と開かなくなる、ってことかな」


「それはとても困る!」


 おもわず叫んでしまった。


 白猫は横すべりをやめて、わたしを見た。


「困るって言われてもなあ」


「どうやったら、ゼニガメは帰ってくるの?」


「あのカメ、今日はハイキングに行くって言ってたからなあ」


「ハイキング?」


「だから、向こうの世界に行って、戻ってこいって言ってやんないと、帰ってこないと思う」


「じゃあ、向こうの世界に行かないと。きみにゼニガメのこと頼めない?」


「ぼくに? 見てみなよ。ぼくいま水面を滑ってるんだよ? 向こうの世界に行けないよ?」


「けど、だってきみ、わたしのゼニガメを誘拐したじゃない!」


 おもわず怒ってしまった。けど白猫は、そんなこと気にせずに、ふたたびすいすい横すべりを繰り返している。


「なんで、横すべりしてるの?」


「面白いから」


「どうやったら向こうの世界に行けるの?」


「それは秘密です」


「イジワルー」


「だって、教えてしまって、たくさんの人が、向こうの世界にわらわらと入り込んだらマズいでしょ」


「たしかに」


 うーん。けど、だったらどうすればいいんだろう。


猫缶ねこかんで、どう?」


「ちゅーる追加で」


「じゃあ、ちゅーる二本つける」


「四本」


「四本? ……別にいいけど、一日二本にするんだよ」


「うんうん」


 白猫は意気込んでうなずくと、わたしの足もとまでひたひた歩いてきて、前足でお手をした。


「あ、いや、いまは持ってないから……」


「えー」


「じゃあ、これからコンビニ行くからついてきて」


「おーけー」

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