第30話 恋する狼と夢みる羊飼い

 踏み込むたびに、体全体を蝕むような激痛に顔を歪めながら。それでも、街中で群れる人垣の間隙を縫って走る。

「あ! とっ……と……」

 横一列に並んでいる奴らが、いきなり視界に入ってきて避けきれなかった。

 柄の悪い人間にぶつかりそうになって、咎められて、すいませんっ! と掠れた声で返す。舌打ちしたそいつは、酔っ払いなのか足元が定かではない。

 こんなところに、本当に綾城がいるかも分からない。

 ニワトリが嘘をついたとは思ってはいないが、あまりに無法地帯なせいで、むしろここに綾城がいないことを望んでいる俺がいる。

 酔っぱらっている男にしなだれかかっている、露出の多いホステス。吐しゃ物をまき散らして、馬鹿騒ぎしている大学生たちの団体。胡乱な瞳をして、ボロボロの服を着ている浮浪者。

 こんなところに長時間いたら、どうにかなってしまう。

 俺は心臓が破裂しそうなぐらい走って、手は脇腹を抑える。

 呼吸困難気味になりながら、

「………っ………」

 視界の端ギリギリに写ったのは、雄々しき獣の、たてがみのような長髪。

「…………あ、やじょ…………」

 いた。

 ライダースジャケットを着こんでいる男の隣に、表情が抜け落ちた綾城がいた。男は綾城に何かを話しかけているようだが、綾城は首すら動かしていない。どこか虚ろで、まるで思考していないロボットのようだった。

「…………あやじょ……う…………」

 声が、でない。

 今すぐに足を止めて、思いっきり酸素を吸い込みたい。

 だけど、綾城の肩を抱いたサングラスの男は、そのまま暗がりに連れ込もうとしている。多分、あいつが以前言っていたバーだ。

 だけど、俺に見えるのは――闇。

 そのまま俺の知らない世界に連れて行こうとしか見えないぐらいに、地下へと続く階段は暗かった。

 なにより、この裏道にいるやつらの眼つきを見ていると、俺たちみたいな高校生がいちゃいけないような気がした。妄想じみた、直感みたいなものが俺の頭の中で働いていた。

「…………綾城っ!」

 ようやく、追いついた。ガシッ、となんとか綾城の肩を掴んで、引き止めることに成功した。そのままゆっくりと綾城が振り向く。

 すると、綾城の表情はだんだんと驚愕の色に染まっていく。信じられないものを見るように、目をいっぱいに見開く。

「…………な、ん――――で……………」

 頬がカチンコチンに凍ったような表情のまま、綾城の目だけが俺を観察するかのように動く。ばか、じゃないの……なんで、そんな……と、あちこちに怪我をしている俺を見やりながら呟く。

 だけど。

 綾城と俺の間に、サングラスをかけた男がニヤケながら割り込んでくる。

「彩華ちゃん、こんな――」

「なんで、あんたがここにいるのよっ!!」

 だが、サングラスの男が言い切る前に、綾城がドン、とアスファルトを踏んで激昂してくる。それは、さっきまで人形のようだった奴ではなく、いつも通り牙を剥き出しにする狼。

 それが嬉しくて……今までの苦労も忘れ去ってしまった。倦怠感は霧消してしまった。身体の痛みはどこか遠くに吹き飛んでしまった。

「……お前を迎えに来たんだよ。だから――さっさと、家に帰ろう」

「…………っ…………」

 ギリッと、綾城が奥歯を噛み締める音がする。

 悲しそうに、辛そうに、痛そうに、顔を歪める。それは、何を思って、誰を思って、そんな表情をしているのか……今の俺にはわからない。

「なんでっ、あんたにそんなこと言われないといけないのよ。……それより、あんたアリサ先輩とはどうなったのよ?」

 俺は気まずげに、真実だけを話す。

「あー、そういえば、『話の途中でお前が家に帰ってない』って小梶から電話きて、ちゃんとした話もできなかったな」

「『そういえば』ってなにやってんのよ! さっさと今すぐ引き返して、謝りなさいよ! ……私なんかの相手している暇なんてないでしょ? ……は、それとも何? 私を見つけたら、『嬉しい』って喜ぶとでも思った? 何勘違いしてんの? そういうのキモイのよ!! ……私はね! 今! 自分の意志でここにいるのよ! ……だから、あんたなんか来てもウザイだけなのよ!」

 ……なんだ。

 綾城は……俺と違って、嘘をつくのが下手なんだな。

 両拳を握りしめて、嘘ついている自分自身に苛立って。それが目に見えてしまうぐらい、動作は大仰で。

 馬鹿みたいにまっすぐであるこいつは、好きな人のことを思って、あの時、自分の気持ちを伝えることもできなかった。溜め込んでいたものを吐き出してさえしまえば、自分の気持ちはスッキリできたのに。きっちり振られて、次に進めたはずなのに。

 それなのに、あそこで相沢先輩を困らせたくはなかったから。そういう時だけは先読みできる頭の良さが、こいつにはあったんだ。

 そういう、優しいやつなんだよ。こいつは。

 だから、わかったんだ。

 お前が俺のことを心配して、そうやって発破をかけようとしてくれているってことを。今にもアリサの許に行かせないと、自分のせいでこうなってしまったのではないかって。それだけが、今のこいつの心にはあるんだ。

「……いいんだ。アリサにも分かってもらえた気がする。今の俺がすべきことはなにかってことを」

「なんで、なんでよ……。あんたは……どうして……」

「――お前が、あの時『さようなら』なんて言ったからだよ」

「……なっ」

 言葉に詰まった綾城に畳み掛けるように、追い詰めるように近づく。一歩近づくと、綾城も一歩だけ引いてしまう。だから俺は、もう一歩だけ綾城の傍まで歩み寄る。 

「……なあ、『さようなら』なんて寂しいこと言うなよ。まだ俺は、お前と別れたくない。また会って口喧嘩して、笑い合って、悲しみを半ぶんに分け合いって。……そうやって、まだまだお前と一緒に過ごしたいんだよ。……そして、ようやくさっき分かったんだ。……今。俺は、お前に言わなきゃいけないことがあるってことを」

 綾城の両肩を掴んで、強引にこちらを向かせる。そうすると、綾城の大きな瞳も、朱に染まっている頬も、綺麗に膨らんでいる唇も近く見える。

 思っていたよりも小さな肩は、女らしくて、すぐに殴らるかと思ったけれど、意外にも綾城からの手による抵抗はなかった。

「――そんなの私には関係ないわっ!!」

「聞け、聞いてくれっ!! ――――っ」

 そのまま勢いで言ってしまおうとおもったが、やっぱりそう簡単にはいかない。裏道とはいえ、この時間帯だからこそか。

 飲み屋が集中しているこの道には、飲み目的で彷徨っている奴らが段々と増えてきて。あの言葉を叫ぶのには、あまりに人数が多すぎる。

 だけど、だからこそ言わなきゃいけない。

 綾城の体を前後に揺らしながら、俺は喉に絡まった言葉をなんとか吐き出すようにして、 

 

「俺は――城王大学に行く!!」 


 夜道に響き渡る声で咆哮した。静まり返った虚空によく通る声で、その場にいた誰もが俺に向かって黙視したような、そんな気がした。

 そして、一番聞いて欲しかったそいつは、

「は…………はあ?」

 あまり反応がよろしくないようだった。

 というか、めちゃくちゃ機嫌が悪くなって見えるのは気のせいか。その怒り方はさっきまでの、感情の昂ぶりによる激情とは違って、子どものように駄々をこねるような感じ。

「あんた……なによ! なにがいいたいのよ!」

「俺は城王大学に行く! ……だから、お前は俺と協力しろ!」

 俺には綾城を引き止める方法なんて、すぐさま思いつけるほど頭がいいわけじゃない。だったら、今頭の中で渦巻いているものを、全部口に出すしかない。

 それに、お前だって言っていたよな。

 ――一人じゃなできないことを、二人協力してやれば、できなかったこともできるようになる。

 って。

 なんだか今のおれは、しょうもないぐらいカッコ悪いけど。でも、それでもまだ俺は、綾城と一緒にいたいって気持ちをただぶつけるしか。……それしか、今の俺にはできないから。

「……なぜなら、俺は馬鹿だからな。自分ひとりじゃとても城王大学に行ける自信がないんだよ。……だから、やっぱり、お前の協力が必要なんだよ」

「……なに、勝手なこと言ってんのよ」

「お前がいうんじゃねぇよ! お前だって、俺に色々命令しただろ! その正当な見返り分だよ、これは!」

 疲弊しきったように、綾城は肩を落とす。

 そして手で顔を覆いながら、

「あー、だめ。真面目にあんたの話聞いたらダメだってわかったわ。ほんと、あんた馬鹿で何も考えてないだけ。……こっちが考えるだけムダって感じね」

 ふん、とため息ひとつ。

「……ほんっ――と、馬鹿、馬鹿、馬鹿!」

 べっと舌までだされるぐらいの、清々しいまでの嫌われっぷり。

 おいおい、と俺は心中でツッコミを入れる。

「あのなあ、そこまで言われたら、さすがに俺も傷つくよ」

「あんたは馬鹿、ほんとに馬鹿よ。……だけど……今の私はもっと馬鹿ね。それがよく分かったわ。……だから……ごめんなさい」

 綾城がくるりと振り返り、俺はその視線を追いかける。ごめんなさい、っていたのはそいつだということが分かる。同じだ。最初に会ったときと似たような感じだ。夜中なのにまだサングラスをかけているそいつは、フッと相好崩す。

「なんだ、あんたらお似合いのカップルなんじゃん。見せつけれくれっちゃってさあ」

「カップルじゃない!」「カップルじゃないわ!」

 同時に言い切る俺と綾城は思わず、二人して見つめあう。

 それを見て、サングラスの男はなにかを諦めたように、あーあ、今度こそ本気で……本気だったのにな、と呟くと、

「じゃあな、仲良しなお二人さん。……ったく、こんな日は飲まないとやっていけないっつーの」

 バーの方へと向き直った男は、後ろ姿のままサングラスをサッと取り外して地下の階段へと進んでいった。寂しそうなそいつの背中のせいか、カツン、カツンと、妙に響く残響が耳にこびりついた。

 ふーと、俺は安堵したため息をつく。

 なんだかあの男が喋っているのを見ると緊張してしまう。やっぱり、どこか俺とは違った世界観というか、雰囲気を持っているからだろうか。でも、今はなんだかそんなに悪い奴じゃなかったような気もする。

 緊張の糸が切れて、そして――

「……帰ろうか」

 俺は綾城に向き直る。

「そうね……」

 もっと渋るかと思いきや、素直に首肯するこいつが意外で思わず閉口する。

「なによ?」

「いや、なんでもない!」

 ジロリと視線を投射する綾城の視線を躱しながら、スマホを取り出す。終電もう出たから、タクシーでいいよな、と一応綾城に確認を取って、タクシー会社に電話した。

 ここがどこなのか、説明に困りながらも、なんとか電話を終えると、ずっと心に引っかかっていたことを綾城に訊く。

「そういえば、お前。電車のドアが閉まる直前で何か言おうとしたよな。……言いたいことがあるとか、なんとか」

 ぎくぅと、綾城は肩を強ばらすと、視線を下に落とす。

「………………言ってないわよ」

「いいや、言った、絶対に言った!」

「――今のあんたには言いたくない!!」

 顎をしゃくってぷいと向くと、こっちの話は聞きません! という頑とした態を見せる綾城。俺は、はあ、と宙ぶらりんになった手を自分のポケットにおさめて、タクシーが来るのを待つ。

 俺はずっと黙って、綾城の横で。

 綾城も何一つ文句なくタクシーが来るまで、ただずっと俺の隣にいた。

 気まずさとそんなものはなくて、ただずっと……。

 たった、それだけのことだった。

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