第21話 忘却の白

 部活動生も流石に帰宅したのか、周りはひっそりとしている。

「……やばい。あんな長時間にわたって説教されるとは思わなかった……」

 俺はスマホを見下ろす。

 受信履歴にはあのメール一件の連絡以外なかったが、嵐の前の静けさのようで恐い。綾城がどんな罵詈雑言の嵐を浴びせてくるのか分かったものじゃない。

「絶対怒ってるな、あいつ……」

 ギィィとプールの出口扉を、ゆっくりと開き。

 誰もいないことを視認すると、こっそりと入り込む。

「……あ?」

 バタンッ、と急速に左側の方のドアが閉じる。

 なんだ、いきなり。

 と思っていると、ちょっとだけ開いたドアから手がひょっこり出てきて。

 こいこい、と言っているかのように手招きしてくる。

「なんだ……あれ?」

 行きたくないが、行かなかったらより悲惨なことが待っている気がする。狼に精神的にも肉体的にも弄られる想像が頭に浮かんで、身震いする。

 重たい足を引きずるように歩いていき、頭をかきながらドアの前まで行くと、

「なんだよ、綾じょ――」

 制服のシャツをつかまれ、部室の中に引きずり込まれる。どこぞの誘拐犯かなにかのような手際の良さ、というかあまりの強さに蹈鞴を踏んで、盛大にこける。

 ドアがばたりと後ろで閉まる。なんとか寸前で両手を、ざらざらなアスファルトにつくことには成功したが。

 なんて危ないまねするんだ、こいつ。

 俺はパンパンと両手をたたいて、砂のようなにすいつくものを取り除く。それから立ち上がって詰め寄ると、

「なに――っすんだよ! 馬鹿!」

 馬鹿、馬鹿ですって……ふふふ……。

 真っ暗な室内で、薄笑いする綾城はほとんどホラー。そのままこちらの首を絞めてくるかのように、幽霊の如きブランと手をさせる。

 俺はその手を反射的に握るが、それでも恐怖は薄まらない。

 ひぃっと、俺の喉の奥から小さい悲鳴が飛び出る。

 長い髪がだらりと、しかも濡れているためさらに怖い。井戸の中から這い出てくる少女のような顔をしていたが、標的である俺を見るとガラリと豹変。

 綾城は怒りで燃える眼光をギラリと輝かすと、

「あんた、この私がどれだけ待ってたと思ってんの!? とっとと来なさいよ」

「悪かった。悪かったって」

「あんた、全然反省していないわね。いい? 私一人で、ここにいるのがどれだけキツかったのか分かる? 『あれ、綾城さんどうして帰らないの?』って言われるたびに『待ってる人がいるから』って言い訳して、その度に『えっ、なになに彼氏ぃ?』とか、めちゃくちゃ不愉快な質問されていた私の気持ちが、あんたに分かる?」

 ギラギラ光る瞳は、狂気に満ちている。

 投げるように、持っていた綾城の腕を振り払う。

「だあああ。そんなもん、分かるか!」

「はあ? なに開き直ってんの? 少しぐらいは謝ったら?」

「謝っても、許してくれそうにもないから仕方ないだろ!」

「それは反省していないからでしょ! この季節、この格好で待ってるのが……どれだけ……」 

 意気消沈した綾城を見て気が付いたのは、さっき触った綾城の手の冷たさ。

「おい、どうしたんだよ」

 もう一度手首を掴むと、冷え切っている。

「ちょっと、痛いって……」

 握力が強すぎたのか、綾城は顔をしかめる。

「あっ、悪い」

 ぱっと離し、ようやく綾城をしっかり見れる距離に落ち着いて。それから目が室内の暗さに慣れてくると、綾城の言っていた意味がようやく分かった。

 巻タオルからチラリと覗くのは競泳用水着。

 ぴっちりと肢体にフィットしていて、艶めかしくて、スタイルのいい綾城には似合っている。水泳している時はさぞかし男の視線を集めているだろうことがわかる。

 だけど、

「……なんでそんな恰好でいるんだよ」

 っていうか、綾城が水着姿でいるってことは、ここは女子更衣室ってことになるんじゃ……。見つかったら、犯罪者確定じゃないのか、もしかして。

 そんなことはお構いなし、というかそんな考えすら持っていなさそうな綾城は、体は小さく縮みこむと、

「それは……その……あっ……れたから……」

 もの凄く、か細い声で何かを言い始めた。

「え、なに。それじゃ、声小さすぎて、聞こえないんだけど」

「……ん……を……忘れ……ら」

「は?」

 俺の態度に業を煮やしたのか、綾城はふんぐっと気合を入れると、

「パンツよ! パンツ! パンツ忘れて、ずっと着替えられなかったのよ!」

 タガが外れたかのように叫びだした。

 これはこれで、違った怖さがある。

「なによ……それがそんなに悪いことなの? 着替えるに手間取るから、水着着用で学校に来て。それから下着を忘れたことに気が付いたなんて、誰だって経験あることでしょ?」

 いや。

 そんな稀有な経験、誰もしないと思うんだけどな。

「そ、そうかな。俺は――」

「……それなのに、誰かさんが来てくれないから、こんなに体冷えたわよ」

「たまには俺の話をまともに聞いてくれ!」

 心からの叫びも、どうやら届いていないらしい。

 ふうっ、と綾城はため息ついて。

「まあいいわ。完全に水着乾いたみたいだしね。……っていつまでそうしているの?」

「そうしてるって、」

 なんだよ、おいと思っていると。

 綾城がぐいぐい出口に向かって、背中を押してくる。

「おい、なにを……」

「今から着替えるのよ!」

 バァンと、俺を追い出すとドアを閉める。しかも、ご丁寧に鍵まで閉めやがった。誰も覗いたりしないよ、あんなやつの体なんて。

 だいたい綾城を、覗けるほどの度胸を持ってる男子なんて俺含めているはずない。それに、ただ水着の上から制服を羽織るだけなんだから、そんな過敏に反応しなくてもいいのにな。

「それにしても……」

 タオルであまり見えなかったけど、めちゃくちゃ綺麗な肌してたよな。真っ白で。それから、水泳やっているせいか、贅肉がないって感じで。すごくスレンダーに見えた。

「いっ……」

 ドア越しに、衣擦れの音がする。

 それがあまりに現実感があって、この壁一枚隔てた先には綾城がいるんだって思うと……。

「いや、待て待て」

 俺は何を考えているんだ。

 相手は綾城彩華。

 暴力を好み、所構わず暴言を吐き続ける凶暴な獣。人間の常識なんて一切通用しない。だから、そんな命知らずなまねをしてしまえば。

 どれだけの――

「ぶっ!」

 いきなり開いたドアに鼻面を叩かれ、絶句する。

「……着替え終わったわよ。……って、なにやってんのよ?」

「……お前なあ……」

 まあ今回は、俺も悪いってことで。

 とりあえずは矛を収めて、魔が差したさっきのことは自分の胸の内にしまっておくことにする。 

   

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