第9話 無冠の努力家

 学校の裏庭にあるベンチ。

 近くに植えてある木はさわさわと風に揺られながら、木の葉の形に陰影を落とす。幾重もの葉が重なりあってできた影の中に、すっぽりと入っている彼女――御島は、すやすやと熟睡していた。

 先日の綾城の言葉がまだ頭に残っていたので、ちょっと気晴らしに昼休みの散歩をしていたら見つけてしまったのだ。

 まるで天使のように寝ている御島のことを。

「うぅ……ん……」

 バタン、と御島は寝心地悪そうに首を振ると、膝元に置いていたノートを地面に落とす。まだ微妙に睡眠中なのか、むにゃむにゃと口を動かすと寝言を唱え出す。

「……794年、泣くよウグイス平安京ぉ……。1192年、いい国つくろう鎌倉幕府ぅ……」

 俺は微笑ましく思いながら、起こさないようにゆっくりと近寄る。

 微笑を携えながら、落ちたノートをそっと手にとってぎょっとする。たまたま開いていたそのページには、隙間なくびっしりと文字が埋まっていた。

「寝ている時まで、勉強を……」

 とても俺には真似できないな。

 ページをめくると、やっぱり何枚も黒字で埋められている。蛍光ペンとかといった色の遊びはなくて、まるで黒い虫が湧いているように、ノートの白をぎっちりと塗り潰していた。勉強をここまで本気で取り組んだことのない俺にとっては理解しがたい光景。

 どうして、ここまでできるのかと、ノートの持ち主を不思議な感情で見つめると、

「1853年、いや、誤算でした……ペリー来航ぅ」

「……どういう覚え方してるんだよ」

 思わず寝ている御島にツッコミを入れてしまうと。

 んっ……と彼女は口を動かすと、パッチリと目を開く。目を覚ましてしまった御島はゆっくりとこっちを見て俺の存在に気がつくと、

「へ……っえ!? 板垣さん!? ……ど、どうして!? ……わっ!」

 覚醒しきっていない御島は、テンパりながら後ずさり過ぎて、ベンチから尻がはみ出してしまう。あっ……と、手を伸ばす御島。俺はそのまま後ろに倒れてしまう前に、伸ばした彼女の手首を掴んで、

「わるい……俺のせいで驚かせたから、こんなことになったな」

 ぐいっと引っ張る。勢いがつき過ぎて、パフンと俺のお腹に御島の顔が当たる。うわっと顔を後ろに退けると、

「ほんっ――とに悪いっ! 顔大丈夫か?」

「こ、こっちこそ……。私……どんくさくて……」

 御島は鼻先をスンと鳴らしながら、手でこするように触る。やっぱり、ちょっと痛かったのか、鼻の周りの肌が朱に染まっている。

 ベンチにしっかりと座りなおした御島は、いそいそと髪の毛を手ぐしでなおすと、おずおずと訊く。

「……あの、私、いびきかいてませんでしたか?」  

「いびきは……なかったけどな」

「ええっ!? なんかしてましたかっ、私……」

「いや、特別なことは何もしてなかったよ。みんなやることだから、気にしないでいいと思うぞ」

「な、なんなんですか!? 教えてくださいよ!」

 スカートの裾に手をおいて、プンプン怒る御島をこのままからかい続けるっていうのも、結構魅力的だ。だけど、あんな面白寝言は俺の心の中の棚にしまっておくに限る。

 俺は持っていたノートを、今では畏敬の念すら覚える御島に返す。

「すごいな、これ」

「あっ、それは……見ちゃったんですか?」

 あたふたと瞬刻したが、すぐに御島はしょんぼりと伏し目がちになる。その顔はどこかウルウルと瞳に涙を蓄えるチワワみたいで、俺はどうしようもない罪悪感に囚われる。そんなに顔をされると、こっちまで哀しくなってくる。

 あれか、勝手に日記を見られて激怒するみたいな感じなのか。勉強ノートなんて、机の中に置いたままで帰宅するような俺には思いもしない御島の攻撃にうっ、と胸を抑える。

「わるい、そんなに大事なものとは思わなくてな」

「いえ、なんかここまで勉強しているの見られると、みんなに引かれちゃうかと思ったので……」

 両手を唇にくっつけて気恥ずかしそうにしている御島は、俺のほうを黙視する。

 なんだかそれが、否定して欲しそうな催促の視線にも思えたけれど、さっき考えていた俺の胸の内をズバリと当てられてしまったので、どうにもすぐには、御島の意見を翻すことができなかった。

 だけど俺には、それよりも気にかかったことがあった。

「左手、どうしたんだよ?」

 俺は、頬にご飯粒がついていることを知らせるときと同じようなジェスチャー。『人のふり見て我がふり直せ』みたいな感じで、自分の左手の側面を見せつけると、

「あっ、その……これは。左利きだと、シャーペンの跡がついちゃって。み、見ないでください」

 真っ黒になった手のひらを、御島はゴシゴシとハンカチで拭う。

 ノートに触れるたびに、色濃くなったであろう努力の結晶。小指の先まで深淵の闇のように染まっている指は、いったいどこまで集中して勉強し続けたらそうなるんだって思う。

「すごいんだな、御島。やっぱり、学年トップクラスのやつって、それだけ勉強してるんだな……」

 そう俺が称賛すると、なぜか御島は暗い顔になって、そんなことないです……、と言って顔を伏せてしまった。

「私は凄くなんかないです。ただ私は、他の誰よりもどんくさくて、何もできないだけなんです。それが嫌で、そんな自分をどうにかしようとして、こうやって勉強しているだけなんですよ。……だから、私なんかよりも、一目見ただけで教科書の内容を覚えてしまう綾城さんのほうが、よっぽど凄いです……」

「そんなこと……そんなことないだろ」

 そんなこと言われたら、何もしていない俺はどうなるんだろうな。

 あれだけの啖呵をアリサ先輩の前で切っておきながら。

 小梶には偏差値70の城王大学に入学することが、俺の夢とまで吹聴しておきながら。

 努力といった努力なんてしていない。

 いや、正確にはさっきまで俺はすんごい頑張ってる奴だって鼻を高くしていた。だけど、こんなに懸命に勉強に励んでいる御島を見たら、伸びていた鼻っ柱は粉々に破砕された。

 綾城には、なぜか城王大学志望をネタで脅されるし、なんだか最近踏んだり蹴ったりだ。もしも、バラされてしまったら、主に男子生徒に揶揄されるんだろうと思うと寒気がする。いや、まだ男子はいいが、女子は俺の知らないところで陰口叩くんだろうな。……はあ。

 だけど、御島はそんな俺と違って、こんなにも頑張っているのに自信がないんだな。俺だったら絶対に他人に自慢とかするだろうけれど、御島は誰にも言わずに黙々と勉強しているんだ。

 誰にも褒められることなく。

 ただ、ひたすらに。

 俺も人のことを言えた立場じゃないが、御島はいつも独りきりだ。きっと、病気がちな彼女は学校に来る機会が少ないので、どうしてもクラスメイトと話すことができないんだろう。

 みんなが話すことと言ったら、最近の話題。昨日やっていたテレビの内容とか、この前クラスであった面白おかしいこと。それを話すことができない御島は、どれだけ独りぼっちだったんだろう。

 俺だって、もしも夏の補習で出会うことがなかったら、御島とこうして話すことはなかった。どれだけ自分に劣等感を感じているやつなのか知ることはなかった。

 いつも明るく振舞っているのが、逆に痛々しく思えるほどに、今の御島は孤独のままに震えていた。

「――私には当たり前のことを、当たり前にやることしかできませんから」

 御島はきっと、誰に言われるまでもなく努力家で。

 それを自慢げに話すことのない奥ゆかしいやつで。

 ……きっと、こういうのを大和撫子っていうのかもしれない。

 そう思って、御島の人柄の良さに感心していると、 


「――ちょっと、顔貸しなさいよ」


 ……げっ、大和撫子とは正反対の女が現れた。

 メンチを切って手招きをしてきたのは、

「ぅわ……あ、綾城……」

「綾城……さん?」

 驚く俺たちの視線を受けるのが当然とばかりの態度をとっている猛獣は、そう、この私が綾城彩華よ、と凄んできた。まるでどこかの群れの長のような立ち振る舞いを見せると、

「ごめんなさいね、御島さん。この男がどんなこと言ったのかは知らないし、この私は知りたくもないけど、聞かないほうがいいわよ。……ま・っ・た・く、あてにならないから」

「えっ……と……」

 俺に助けを求めるように御島から視線を送られるが、

「さようなら、御島さん。次の中間テストも、この私がぶっちぎりで勝つから、その時はよろしくね」

 まるで、小動物を爪でいたぶって嬉々としているかのような笑顔。

 怯えている可愛い獣を満足そうに観察して踵を返すと、捕食者は怒ったように早歩きになってどこかに行く。どうしようかと逡巡するが、結局俺は御島に、ごめん! また今度なと一言いって、どうしてそんなことしたのか、犯人を問い詰めるために追う。

「おい! あの言い方は――」

 曲がり角を曲がった直後。

 不意をつかれた俺はえっと口から驚きの声を漏らす。いきなり、綾城にぐぃと胸ぐらを掴まれる。と、そのままドンッと校舎の壁に押し付けられる。

「おまっ――ぇ、なに……を?」

「……なんで、あんな女と話してたのよ」

「なんで……って」

 吐息を交換できるぐらいの至近距離。

 猛獣に襲われているかのようで、背中からどばっと冷や汗が流れる。

「もしかして……あんた……」

 どれだけツンツンしていても、やっぱり相手は女で。

 それは華奢な手足と、実はそこまで力がないことからも確認できて。

 それがこれだけ接近していると、やっぱり――

「私の秘密について話したんじゃないでしょうね!」

 こいつのことなんて、なんとも思わないです。

 綾城ははあ、と疲れきったようにため息をついて、

「ちょっと目を離すとこれなんだから……」

「そんなわけないだろ。……とりあえず落ち着いてくれ」

 綾城は苦虫を潰したような顔しながら、まあ、いまのところそれはどうでもいいわ。それよりも、となにか妙な提案をするかのように眼光を光らせて、

「今週の土曜、暇でしょ!? 暇よね!? 暇っていいなさい!!」

「……なっ」

 こちらの意見を挟み込む余地もなく、畳み掛けるように言い放つ。ばっと、胸ぐらから手を離すと、こんどは力強く俺の胸の中心あたりを指弾する。そして勢いつけるように、ぐぃと人差し指を正中線に沿っている部分に当てて、

「いい!? 今週の土曜日は開けときなさいよ! ……そう! 全ては! この私のために!」

「はあ、なんでだよ!?」

 綾城の怒涛の攻撃によって、訳がわからなくなってきた。ていうか、話の脈絡がなさすぎて、いったい何を言いたいんだ、こいつ。

 頭の中がごちゃごちゃになっている俺に向かって、簡単明瞭な答えを一言で、綾城は胸を張りながら、高らかに宣言した。


「この私と、デートよ!!」

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