第6話 あかね色に染まる空

「ふ、ふ、ふあっ」

 突如湧いて出た、鼻のむずがゆさに口元を抑えるが、

「ふあっくしょんっ!!」

 それでも止めきれずに、グラウンド全土に響き渡るような盛大なくしゃみをかましてしまう。

 かゆい鼻をフンッとならすと、そのままスポンとティッシュが飛び出した。

「あー、さっきはまいったな……」

 心配性の御島をなんとかなだめすかして、ようやくあそこから脱した。ティッシュはありがたく頂戴したが、あの珍騒動のせいで帰宅時間がかなり遅くなってしまった。

 傾く夕日が差し込んできて、思わずそちらを見やる。

 そういえば、部活動に所属していない俺がこんなに遅くまで学校に残ったのは久々かも知れない。

 時間帯によってか、同じ場所であっても見える景色が違っているような気がする。

 思わず足を止めて、あかね色に染まる雲を見上げていると、

「あ、相沢先輩。どうしたんですか?」

 震える声が、死角から聞こえてきた。

 その声には心当たりがあって。

 けれど、どうしてもその声に記憶のある人物とは重なり合うことはなくて、まず聞き間違いかと思った。誰なんだと気にかかって、声のする方へと足を忍ばせると、

「べつに用事っていう用事もなかったんだけどな。……まあ、その……お前がちゃんと泳いでいるかどうか、不安になってな」

「ちゃんと泳いでる……じゃなくて、泳いでます。私も、水泳部ですから」

「だったらいいんだけどな。実は三年のあす――沢口から、お前が元気ないって聞いたもんだから。少し気になってな」

「亜純先輩が? そ、そんな。わざわざ、私のために……」

 はにかんで視線を落としているのは、綾城。

 何度視線をやってもそれは綾城で、いつもの迫力なんてどこにもない。

 泳いでいたのか、濡れそぼっている髪は艶やかで、小さな三つ編みを何個か編んでいる。だが、しょんぼりと髪は垂れていて、どこか元気がない。

「そんなの当たり前だよ。お前は真面目に部活に取り組んでいるからって、水泳部の中でも期待されてるからな。……まっ、引退したやつがでしゃばることでもないかもしれないが」

 温和そうな顔をしている、相沢とかいう先輩は自嘲ぎみに顔を歪める。そんな先輩を見て、悲哀を帯びた瞳をする綾城は、

「そんなことっ……! 先輩は……先輩がいたから、今の水泳部があるんですっ……!」

 あはは、と先輩は小さく笑い声を嬉しそうに漏らす。

「そう言ってくれると、最後に先輩らしいことができて良かったって思える。大会では結果残せなくて、悔しかったからな。しまいには、男の俺が女の沢口から慰められてるしな」

「そんな、あれは……。やっぱり、全国大会にいけただけでもすごいですっ!」

 大会内容を思い出しているかのように一瞬逡巡したが、それでも真っ向から否定した綾城。それがどうやら相沢先輩の芯に響いたのか、ふと表情を変え、

「そう、かな。綾城にそう言ってもらえると……全国で惨敗した俺も、少しは救われた気がするよ」

 綾城は頬を赤らめながらも必死で、

「先輩は、とっても素敵な人で、私は心の底から尊敬しています。中学からずっと水泳を続けているのに、未だに県大会止まりな私を、いつも丁寧に指導してくださって……。三年生で色々と忙しいはずなのに、私なんかをいつも目にかけてくれて……。ほんとうに、ほんとうに嬉しかったです」

「はは、こっちこそ、綾城にそんなこと言われて嬉しいよ。だけど、それ以上はやめてくれ。俺は……そんな大層な人間じゃない」

 ふるふると首を振る綾城。

 照れくさそうに微苦笑している相沢先輩は、気がついてくれているのだろうか。

 普段通りでは決してない、彼女のことを。

 彼女の本気度は、傍観している俺には伝わってきて、たぶん……先輩の瞳には写っていない。あの痛々しいまでのひたむきさが写っていたら、あんなに横着な返答はできないはずだ。

 綾城の横顔はびっくりするぐらいに綺麗。でも、いつものような雄々しさはなかった。

 白くなるまで噛んでいている下唇。

 ずっと泳いでいる視線は、頼りなくて。

 砂利を平らに踏みならすように、なんども足先を忙しくなく動かしている。

「……いいえ。私にとって……先輩は大層な人ですっ」

 綾城の冗談っぽい口調が、逆に本音を言っているようで。

 ほんとうは、言葉の裏に隠されている真意を相沢先輩に気がついて欲しそうで。

 でもそれを、彼女が言葉にして言えるはずもなくて。

 ……きっと、今はここまでが限界点。

 でも、だからといってこのまま聞いていたらだめだ。

 きっと、これは、この雰囲気は……。

 たまたまここに居合わせてしまった俺が、耳に入れていいようなことじゃない。たとえ胸の内を伝えることができなくても、ここに俺がいる。それだけでも、罪悪感が湧いてくる。

 でも、何故か足が地面に貼り付いているようで、微動だにしなくて。

 とうとう綾城の喉がごくん、と動いて。

 なにもかも視界が真っ白になって。

 そして――

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