第5話 始めの一歩

「想像以上に、重いな……これ……」

 俺は羊の体毛のような髪を揺らしながら、独り言の愚痴を溢す。

 そして、大量の紙を抱えながら、一段一段確かめるように階段を上がっていく。日直の責務とはいえ、職員室に運ぶべき紙は、俺の胸元まで積み上げられていてかなりの重量だ。

 たまたま同じ日直の係りだった綾城にも『手伝ってくれませんか』と依頼したが、『部活動だから、無理ね』と一蹴されてしまった。確かにそっちに比べればこっちは暇人かもしれないけど、これをひとりで運ぶのは結構しんどいものがある。

「あっ、」

 驚いたような声音が自分に向けられたような気がして、俯いていた顔を上げる。

 視線の先の――階段のひらけた最上部には、溢れんばかりの笑顔を振りまく女子がいた。

「板垣さん、お久しぶりですっ!」

 周りの生徒からのなんだなんだという視線を浴びせられると、わっ、大きく出しすぎちゃいました……と彼女は小さな手で顔を覆う。

 彼女の黒髪短髪は、病的なまでに白い肌がより一層際立つ。

 肌寒いのか、これまた黒いニーソを履いていて、学校指定のスカートと絶妙にマッチしている。

 いつものように憂いのない表情は可愛らしくて、小柄な体格をしている彼女は小動物みたいで。庇護欲を煽るような頬は柔らかそうで、抓ってみたいぐらいだ。

「ああ、久しぶりだな」

 裏表のない御島相手だと、こっちも身構えなくてよくて。

 なんだか、彼女と一緒にいると自然と心がほぐれる。

 そしてこれで、ようやく勉強を教えてもらえる相手が見つかった。

 そんな嬉しい感情が声に滲んで、それを悟られてしまうのが怖くて、口数が少なくなってしまう。

「たしか……補習以来だったよな。病院に通ってるって聞いたから、体調どうなのかって心配してたんだけど。……元気そうだな」

「はい! 病院は小さい頃から通院しているので、慣れっこなんです」

 夏の補習で話したとはいえ、そこまで心の距離というものは縮まってはいなくて。友達というよりは、クラスメイトという間柄に近い。

 だから、探り合いの牽制みたいな会話みたいで、なんだかぎこちない。

 御島は花咲く花びらのようなスカートを持つと、

「――それから、板垣さんとは補習以来で……その……実はずっとお会いしたかったんです」

「……えっ、会いた……?」

「あっ、いえ、そういうわけじゃないですよ。そんな深い意味とかじゃなくて……」

 御島はぶんぶんと手を高速で振る。

 それから声が尻すぼみになっていって、頬は羞恥に染まる。

「私、あまり学校来れてなくて……話せる人が板垣さんくらいしかいないですから……」

 沈んだ面持ちの御島は、思い直すかのように表情を明るくし、

「荷物、重そうですね。私も持ちますよ。どこまでですか? ……職員室ですか?」

「いや……そんな……いいから」

 学校を休みがちな彼女に、こんな重たいものを持たせるわけにはいかない。

 俺はふんぐっと胸の内で気合をいれて紙を持ちながら、全然重たく見えなそうに演技する。こうすれば、引いてくれるだろうと思ったから。

 だけど御島は異常なほどにくいついて、

「半分ぐらいは持たせてください! そのぐらいだったら、私にだって運べますからっ!」

「……でも、やっぱり悪いから」

 御島は晒していた白い歯を口内に引っ込め、

「分かり……ました」

 一瞬、表情に影を落とす。

 御島の体が悪いことを知っているから、同情しました。……そんな風に俺が遠慮したのかと御島は思ってしまったらしく、どうやらだいぶ傷つけてしまったようだ。

 だけど御島はそんな俺を見やって、

「……だったら三分の一でいいから持たせてください。そのぐらいは、私にもやらせてくれませんか?」

 微笑みを取り戻して、

「そうでもしないと……やっぱり嫌なんです。大変そうな……困っている人を見かけたら……私はやっぱり見過ごせないんです。他人事じゃないみたいで、見て見ぬ振りなんてできないんですよ」

 ゆっくりと階段を下り始め、

「――だけどそれって、ほんとうは私だけじゃなくて、結構当たり前のことだって思うんです。だから――」

 また一段、御島が階段に足をかけようとした、その時に悲劇が起こった。背中にドンと、話に夢中になってよそを向いていた男子生徒がぶつかった。

 ちょうど片足を中空に突き出すようにしていた彼女は、バランスを崩して、

「あっ」

 バランスを戻そうと、咄嗟に踏み出した逆の足も階段の縁に滑って踏み外す。空中真横に突き出した手も、手すりを掴むことはできずなくて、御島の顔は絶望に歪む。

 このままじゃ、床に頭から突っ込んでしまいそうなぐらいのこけ方。

 迷ったのは、一瞬。

 持っていた紙を、全て床にぶちまけて俺は片足を踏み出す。あまり長くない腕を健が切れそうなぐらい突き出して、彼女の全体重を支えきろうとした。

 だけど。

 御島の手は俺の肩を滑るようにして掠って。

 そして、彼女の頭が、

「っうごぉ」

 顔面にめり込んで、鼻に凄まじい衝撃が走る。

 勢いそのままで階段にバタァン!! と体を打ち付けるが、御島に怪我をさせたくない一心で抱き締める。

「ぃ――てててて!」

 背中を階段に擦らせながらも、ようやく勢いが収まる。

「す――すいません、すいません。板垣さん、大丈夫ですか? そんな、私をかばって……」

 御島は床に手を当てて上半身だけ起き上がると、気遣わしげにこちらを見やる。

 俺も肩だけでも起き上がらそうとしながら、どうなったのかと御島を見ると、どうやら無事なようだった。

 よかったとは思いつつも、やばくないかコレ、と今更ながら嫌な汗が背中を流れる。……なぜなら俺は、放課後の教室で、御島に押し倒されているような格好になっていたから。

 膝の付け根あたりの、男にとって重要な部分付近に、俺に馬乗りになっている彼女のお尻がちょうどある。

 こ、これはこれで危ない。

 俺は御島を心配させないように、

「だい……じょうぶ」

 大丈夫……か? ほんとうに? いまの俺は……。

 御島は突然、口を大きく開くと、

「わっ、全然大丈夫じゃないですよ!」

 ポケットの中からティッシュを取り出すと、俺の鼻に押し付けてきた。ふぐっ、と何やら海の生き物の名前を言ってしまいながら思った。……女子に馬乗りになられて、鼻を拭かれるこのシチュエーションは猛烈に恥ずかしい。

 いいよ、そんなことしなくても……と俺は言いそうになったが、

「うわっ、血!?」

 鼻から取り出したティッシュが真っ赤になっていたので、目を剥く。御島はティッシュをまた数枚取り出して、俺の鼻の穴に詰め込めようとする。

「鼻血がでてますから……もうちょっとだけ、おとなしくしておいてください」

 俺は首だけでもグググと起き上がらせようとすると、

「ぅわっ!」

 前のめりになっている御島の胸元が――服の中が、少しだけ見えてしまって驚いで叫んでしまった。

 垂れてきそうな鼻血の感触に、鼻先を手でおさえる。

 怪訝な顔した御島は数枚のティッシュを持ったまま、

「……どうしたんですか?」

「なっ、なんでもないから、ほんとっ――」

「大丈夫じゃありませ――」

 過保護なまでの気遣いを振り払うように、俺は手を振って、それを拒否した御島が手を握る。ガッ、とたまたま俺の手が、御島の親指と人差し指に挟まったような感じで、握るつもりなんてさらさらなかったような、そんな感じ。

 だって、こんなアクシデントどうってことないはずなのに、御島が赤面したおかげで、二人の間になんだか変な空気が流れる。

 気まずくて、どうしていいのかわからなくて。

 でも、御島はその手を自分からは放そうとしなくて。

 どうしようもなくなった俺は、御島に

「あの……すいません」

「うわっ」

「っきゃ!」

 突然横合いからかけられた言葉に、仰天した俺たちはパッとどっちからでもなく手を離す。

「俺のせいで、こんなことになってしまって……」

 ペコリと律儀に頭を下げてきたのは、さっき御島にぶつかった男子。後ろには申し訳なさそうに控えている男子たちがいた。

 それを見た御島は立ち上がって、スカートの埃を払う。

「いいえ、大丈夫ですから気にしないでください。……それに、こけてしまったのは私ですから」

 真摯に対応した御島は、チラッとこっちを一瞥すると。

 ……なんだか、恥ずかしそうに顔を俯かせた。 

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