第43話 机上の空論!

 音をなるべく立たせずに、ドアを閉める。

 ……楽しみだった、か。

 僕は白鷺さんから、ほとんど強引に約束をさせられた。

 一緒にクラスマッチで戦うことを。

 正直、その時僕は煩わしさを感じた。どうして僕の事情を知っているのに、そんな危険なまねを強制できるのだろうかと、彼女を内心責めすらした。

 だけど、彼女のその我が儘をぶつける対象は僕だけだ。

 ほかのクラスメイトに、あれほど力強く迫っているのを僕は見たことがない。きっと、病弱な体質なせいで、誰もが彼女を遠巻きに見ていたのだろう。自然と避けていたんだろう。今日の体育館の様子でもそれは明白だ。

 秘密の共有によって、白鷺さんの心の垣根は取り払われて、僕にだけは甘える事ができたんだ。

 ずっとずっと阻害されていた苦しみを、誰かと分かち合うこともできなかった。心が引き裂かれそうになっても、傷の舐め合いすらしてこなかった。

 それは、僕も同じだ。

 肉親である父親は単身赴任で傍にはおらず、血のつながりのない家族はどこか近寄りがたい。いつも一緒にいてくれた友人には、仄かな想いを告げる事もできない。僕は、ずっと本心を吐露することができなかった。

 彼女の芯の強さを、誰が知っているだろう。

 白鷺さんは涙がこぼれるほどに、悔しかったんだ。このクラスマッチで最後まで望めなかったことを、誰が気が付いたんだろう。僕に必死で悟されまいと、寝た振りまでした彼女を誰が責める事ができるだろう。

 彼女は、本当はずっと体調が悪かったんだ。

 それなのに、誰にも弱音を吐かずに我慢して、表情にださずに、この試合に臨んでいた。

 それを、人は自分勝手だと言うかもしれない。

 ただの馬鹿だと揶揄するかもしれない。

 かっこわるいと鼻で笑うかもしれない。

 それが普通だ。

「でも」

 白鷺さんにとっての普通は、みんなにとっての普通なんかじゃない。クラスマッチという学校行事すら、彼女にとっては大切なものだったんだ。

 僕は五体満足だし、生まれつき体も悪くない。

 だから、彼女の気持ちを細部まで理解なんてできないし、今僕がやろうとしていることは、ただのお節介にしか過ぎないのかも知れない。

「……で、てめぇは一体どこに向かってんだ? 秋月もみじ。職員室への階段はそっちじゃねぇぜ」

「すいません、実は僕って方向音痴なんですよ」

 背中にかけられた言葉を返し、僕は振り返る。

「馬鹿かてめぇは。児玉薫子個人のバスケの実力は、間違いなく全国区。いきり立って挑んでも、無駄に恥かくだけだぜ」

「盗み聞きしてたんですか? 趣味が悪いですよ」

 柱に体重を預けている咲さんには、皮肉が通じないようだ。むしろ僕から揶揄されたことが、嬉しいのか、にやついている。

 相変わらずこの人は変わっているな。

「俺の寝床で騒ぐお前らが悪ぃんだよ。お蔭で俺は、またサボれる場所を探さねぇといけねぇだろーが」

 ふわぁああと、手で隠す挙動を一切みせずに欠伸をかく。

 無造作にボサボサな髪と、亀裂が走るように充血している瞳は、安眠を求めているのを言外に示していた。

「咲さん、確かDクラスでしたよね。今までクラスで見かけたことがありませんでしたけど」

「ああ、ずっと保健室とかで寝てたよ。つーかてめぇ、俺に確認とらなきゃ俺がどのクラスか分からねぇのかよ?」

 ……すいません。誰かがDクラスって言っていたような気がしたんですが、教室で見かけたことがなかったので自信がありませんでした……。

「だがまあ、俺が次にいうことは分かるよな? 試合には出ない。……理由は面倒くさいから。以上だ」

 話が早くて助かる。

 ここまで咲さんの口から引き出せたならもう、チェックメイトしたも同然だ。

「なら、どうして体育着に着替えているんですか?」

 なぜか、かっこよく見えてしまう着崩した体育着。着替えていながら、試合に参加する意思がないとは言わせない。

「はっ、ただ俺は観覧したかっただけだ。……地べたを這うやつらをな」

 柱に体重を預け、斜めになっていた体を起こす。

「人間ってやつは、不幸を見るのが好きなんだよ。弱者を眺めているのが心地いいんだ。お前だって、この学園のやつ等を見てきたなら分かってんだろ? 声をかける事もせずに、徒党を組んで嘲笑する。それが醜い人間の本性なんだよ」

 両手を広げて、ご高説する咲さんは痛快そうだ。

 淀みなく滔々と語れるのは、きっと、いつもこのことばかり思考を巡らせているから。それが、この世の絶対的な摂理だと妄信しているから。

 自身の根本を支える思想を、真っ向から批判した所でなにも響きはしない。だったら、僕は彼女の人格を否定しない。正直、一理あると僕は思うし、傍観者を擁護するだけの余裕は今の僕には存在しない。

「誰も将来なんて考えたくねぇ。現実を直視して、不安になりたくねぇ。だから思考停止して、状況に流されてんだよ。……だから、みんな誰かを貶めることができるんだ。なんにも考えてねぇから、他人の痛みを想像出来ねぇ。そして安易に他人を攻撃する」

 はっ、と鼻で笑う咲さん。

「……自分より弱い人間を限定させることで、人はようやく安息を手に入れられるってことを、みんな本能で知っているだけなんだろうよ」

「そう……ですね。そう考えると、人間は他人の不幸を望んでいるのかもしれません」

 今まさに僕は、薫子さんに勝負を挑もうとしている。彼女を完膚なきまでに負かせたいと、白鷺さんの敵を討とうとしている。

 僕はこれから、薫子さんを失意のどん底にたたき落としてしまうかも知れない。彼女の今まで培ってきた、経験の裏付けである自信と矜持を、切り崩してしまうかも知れない。

 だけど僕は、ここで折れること絶対にできない。

 それは、白鷺さんを助けられなかった負い目があるから。

 駅前で彼女が倒れ伏したとき、僕は何もできることができなかった。無力感に膝をついた。虚無感に心を支配された。自己の嫌悪感に吐き気がした。

 でも、だからこそ。

 絶望感に打ちのめされたからこそ。

 ――僕はここで立ち上がらなきゃいけないんだ。

「僕は、それなりの覚悟はできているつもりですよ。他人を不幸にしてしまうかも知れないってことを」

「……そうか。でも、勝算なんてゼロなんじゃねぇのか?」

「……ありますよ。僕の策を聞き入れてくれる人が、あと若干名いれば」

 勝利の方程式は既に、僕の脳内に構築されている。

 勉学でも、スポーツでも、予定を立てたり、予習を事前にすることは昔から得意なんだ、僕。

 ポケットに入っているスマホを、僕は握りしめる。

「申し訳ないですけど、体育館まで道案内をお願いしていいですか? 僕、致命的な方向音痴なので、行き着く自信がないんですよ」

「……俺は底意地が悪いからな、わざとてめぇを迷わせちまうかも知れねぇぞ」

「かまいませんよ。たとえどれだけ迷っても、僕一人じゃ、どうにも心もとないです。……だけど、二人いれば……どんな場所に迷い込んでも、きっと楽しいですよ」

 僕が笑いかけると、咲さんは――

 開けっ放しだった窓から、いきなり横風がぶつかってくる。長髪に遮られて、僕は咲さんの一瞬の表情を視認することができなかった。

 そして、風は止んだ。

 絡まった髪を掻き揚げると、彼女は真摯に僕を真正面に見据えていた。

「いいぜ、今だけはてめぇの口車に乗ってやる。たった一度きりの人生だ。……俺は、この刹那を、思う存分愉快に生きてやることに決めてんだ。てめぇが俺を楽しませてくれる限り、俺はてめぇの傍にいてやるよ」

「だったら覚悟していてください。……ここから先、あなたは僕から離れられなくなりますよ」

「……おい、どういう意味だ?」

 なぜか怒気を孕んでいるかのように、声を荒げる咲さん。もしかして、何かしくじってしまったのだろうか。彼女にバスケの試合は協力してください、と頼んだだけなのに。

 うううう。

 変にかっこつけるべきじゃなかっただろうか。でも、ここで引いてしまっても、追いつめても、それがどう転がるかまでは予知出来ない。

 数秒の逡巡のうち、無難な落としどころで決着を付ける。

「ふっ。ご、ご、ご、ご想像にお任せしますよ」

「……わかった、そうするぜ。この俺についてこい。てめぇのご希望通りの舞台に案内したら、見せてもらうぜ、愚者の足掻きってやつをなあ」

 咲さんの後に、僕は素直に連れ立って歩く。

 さっきまでの僕の言葉や心の葛藤は、根拠も自信も微塵もない。――ただの張ったりに近い。

 勝利の方程式なんて、机上の空論に過ぎない。思い込みも甚だしい。

 だけど今の僕には、これぐらいしかできない。

 敵を欺くにはまず味方から、味方を欺くにはまず自分から。自分を奮起させるためにも必要なことだった。

 ただの妄想に近い僕のこの心積みを、ただ露呈させて彼女を仲間に抱き込むしかなできなかった。

 無理やり彼女を連れて行っても、彼女は能動的に行動はしなだろう。それじゃあ、意味がない。本来の実力を発揮してくれはしない。

 咲さんのことをよく知っている人間なら、説き伏せることができたかも知れないけれど、生憎僕は彼女のことをよく知らない。

 だから意味深な台詞で、言葉を濁す。適当に並び立てた酔っぱらいの戯言を、あえて相手に解釈させる。勝手に膨らまった想像は時として、本人の実力すら凌駕する。

 心を揺さぶるだけの信頼関係を築けていないのなら、心を揺さぶる為に虚構で補う。

 持っている武器を最大限に駆使し、有象無象の一個人である凡才の僕は、今まさに――天才を討ち取る策を巡らしている。

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