第37話 輝いていた記憶の中!(下)
「……あなた、もみじと二人っきりにしてくれませんか」
「それは……」
「お願い。最期はあの子に伝えなきゃいけないことがあるから」
「だけどそれは君の口から言わなくても……」
「いいえ。私の口からどうしても言いたいの」
病院のベッドで寝たきりになっている母さんは、細かった腕がさらに華奢になっていた。
あれだけ艶のあった顔色も年中青白くなっていた。目の下のクマには、病状のせいで激痛で夜も眠寝ぬ証が深く刻まれている。そんな状態でも母さんは、太陽のように微笑んでいる。
ドラマで見たことのある機械が、不吉にぴっぴっと、無機質な音を響かせている。すべてが真っ白な病室は、居心地が悪かった。
口を閉ざした父さんの顔を窺う。
父さんは苦痛に顔を歪ませ、唇を噛み締めていた。
「分かった。外にいるから、何かあればすぐに呼んでくれ。ナースコールでもいいからな」
「ええ、お願い」
なにやら逡巡しながら父さんが部屋から出て行くと、必然的に僕と母さんは二人きりになる。
そして、先ほどとは比べ物にならないほどの、居たたまれない空気が流れる。
母さんの長所だと思っていた病的にまで白い肌が、今ではもう直視できない。
僕は、ベッドのシーツを強く握り締める。
沈黙に耐えられなくなった僕は、堪らず希望的観測を提示してみた。
「母さん、もうすぐ家に帰れるんだよね? すぐに薬飲んで、それで元気になって、またいつか遊べるようになるんだよね?」
鈍器で殴られたように、母さんは目を開いたまま時間が止まった。
何か喋ってよ、母さん。
嘘でもいいから、今は、今だけは僕の言葉に頷いてよ。
じゃないと、僕は、混乱と、悲しみと、辛さでどうにかなってしまう。
胃の辺りに鉛が入り込んだかのように、鈍い痛みが重々しくのしかかる。立っているだけなのもやっとなぐらい、頭がズキズキする。呼吸のやり方を忘れたみたいに、必死に口から酸素を取り込む。
「……母さん、僕逆上がりができるようになったんだ!! 自転車にだって乗れるようになったし、学校の成績だって、先生に褒められたんだよ!! 他にもいっぱい、いっぱいっ!! あと、あとは……今度参観日があるんだ。それに母さんが出てよ。父さんは仕事で忙しくて来れないって言うし、母さんに僕のいいところいっぱい見せたいんだ……」
母さんが何も話さない。
矢継ぎ早に、頭の中に浮かんだものを瞬時に吐き出していく。
……そうしないと、聞きたくないことを母さんが言ってしまいそうな気がしたから。
「母さんね、お父さんと離婚したの」
なんでもないことのように、あっさりと母さんは言い放った。
喉が張り付いて、言葉がうまくでない。
「どう……して?」
「私みたいなお荷物を抱えていちゃ、もみじとお父さんが幸せになれないでしょう? 私は病気なの。いつ治るかも分からない。こんな私を待ち続けていたら、お父さんおじいちゃんになっちゃうかもしれない。だったら、若い内の方が新しいお母さんを見つけやすいの。……これは私たちが真剣に考えて、散々話し合って出した結果、ようやく出した結論なの。ね? 頭がいい子だから分かってくれるわよね、もみじ?」
「――か――よ」
「えっ?」
「分かんないよっ!! ……分かりたくも……ない」
「……もみじ」
なんなんだよ、大人って。どうしていつも勝手に何もかも決めちゃうの? どうして僕に一言でも言ってくれなかったの? 大切なことを事前に言われないことで、どれだけ傷つくのかが分かるの?
……離婚って、別れ離れになるってことなんだよね? もう会えなくなるってことなんだよね? そんなの耐えきれるわけないよ。どうしてなの? 母さん。
もしかして、母さんは――
「母さんは、僕のことが嫌いになっちゃったの? だから、僕のこと捨てちゃうの?」
母さんが鼻白む。
傷ついている。
僕の心ない言葉を聴きたくないようにしている。
僕は何も気がつかないフリをして、叫ぶようにまくし立てる。
そうしなければ、僕の心が壊れてしまいそうだったから。
「僕のことなんて、母さんはどうでもいいんだっ!! 嫌になったから、もうどうでもいいから、離婚なんてしちゃったんだっ!! そんな母さんなんて嫌いだっ!! 大っきらい……だっ……」
不意に――抱きしめられる。
抱きしめる力も残っていないのか、ただ僕の体に巻きつけるだけの抱擁。僕は子どもの力で込められるだけの力を込めて、母さんを抱きしめ返す。
母さんの胸の中で、僕は必死に奥歯を噛みしめる。
まぶたの奥が熱くなって、開けられない。
「ごめんね、ほんとにごめんね」
母さんの声が震えている。
全身が熱くなる。
閉じられていた瞳から、感情が溢れ出そうな気配。
僕は、もう堪えれなかった。
「嫌……だっ!! 嫌だよっ!! なん……で? どうして? 神様は、いつもお空の上にいて、みんなのことを見守ってくれってるんじゃないの!? いいことをしたら、いいことが返ってくるんじゃないの? それなのに……おかしいよっ!! お母さんは……お母さんは……何も悪いことしていないのに、どうして……こんな……?」
抱きしめられていた格好から、僕は抜け出し感情を吐露する。
なんで、母さんがこんなに苦しまないといけないの?
母さんは自分の身を犠牲にしながら、誰かのために懸命になっていただけだよ。
それなのにっ!! それなのにっ!!
「大丈夫、大丈夫よ」
母さんは柔和な笑顔を見せる。
「私はずっと、もみじのことを想っているから。これから私にどんなことが起きたとしても、それは絶対に嘘なんかじゃないから」
「だったら、だったら今すぐ退院しようっ!! お医者さんは嘘つきなんだよ。母さんの体にどこも異常なんてないんだ。……そうだ母さんと父さんと僕の三人でさ、旅行でも行こうよっ!! 僕、どこでもいいよっ。海でも山でもっ!! ……僕たち家族みんなで!! 一人だって欠けずにっ!!」
ぽん、と柔らかい手が頭にのせられる。
とうとう、見開いた僕の目に、透明な膜が張られる。
ずるいよ、母さん。
そうしたら、僕が何も言い返せなくなるのを知ってるくせに……。
「私は、もみじ達の重荷になりたくないの。私が傍にいるせいで、貴方達の可能性が狭まってしまうのなら、私は一人になったほうがいい。そっちのほうが、私にとっては正しいことなの。こんなの親として間違っているのかも知れない。……だけどね、私は絶対に後悔したくなんてないの」
「ただ……しい?」
「そう」
涙が瞳から溢れ、止めど無く頬に線を描いていく。
視界があやふやで、母さんの顔がどんな顔をしてるのかがわからない。
だけど声の調子は妙に明るくて、どこか満足そうだった。
「もみじの幸せが、きっと――私の幸せだから」
洪水のような涙が一瞬だけ止まり、目蓋を開くと視界に母さんの笑顔が映る。壮絶なる悲哀を帯びた、涙の溜まった瞳をしながらも、それでも母さんは笑っていた。
その映像を最後に、全ては暗転した。
そこは、見覚えのある僕の部屋だった。
寝汗がひどくて、いまにも吐きそうなぐらい気分が悪い。
虚空にさし伸ばした手を、頬にもっていくと涙で湿っている。
……痛い。
頭がずきずきする。そして、ようやく自分が床に寝転がっていることに気がついた。どうやら掛け布団を巻き込みながら、ベッドから転倒したらしい。
しかも、直接頭から。
頭を押さえながらカーテンを開けると、あいにくの曇り空。
これじゃあ、今が朝なのか、まだ夜明け前なのかもわからない。
「……痛いな、ほんとに……痛い」
ポツリと闇につぶやいた独白は、僕以外だれも聞いてはいない。
今日は、球技大会だ。
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