第36話 輝いていた記憶の中!(中)
時間に都合が付く限り、母さんは老人ホームに行っていた。
ずっと一緒にいたかった僕も必然、老人ホームに通っていた。
「お婆ちゃん、母さんは!?」
「そう慌てなくても大丈夫ですよ。秋月さんは、お化粧直しに行っただけなんですから」
僕は前のめりになりながら、車椅子に座っているお婆ちゃんに質問した。母さんを通じて話す内にどんどん仲良くなっていき、お婆さん呼びからお婆ちゃんになるぐらい仲良くなった。本当のお婆ちゃんを相手にしているように、気兼ねなく話せるようになった。
「ちぇっ。母さんにまた、今日あったことを聞いてもらおうと思ったのになあ」
「だったら秋月さんの代わりに、私がもみじちゃんのお話を聞きましょうか?」
「……お婆ちゃんじゃ、母さんの代わりは務まらないよ」
「まあ、それは残念ですこと」
そう言いながらもクスクス笑うお婆ちゃんを見ていると、気が変わった。
そういえば相談したいことがあったのだ。
父親には恥ずかしくてできないけど、家族じゃないお婆ちゃんだったら逆に言えるかも知れない。
「……ねえ、お婆ちゃんって好きな人いるの?」
「あら? おませさんねぇ、もみじちゃんは。もしかしてようやくお母さん離れなのかしら?」
「……僕は母さん一筋だよ」
相談したかったのだ。母さんが好きすぎて、将来母さんより好きな人ができるのかって。
「本当にいい子ね、もみじちゃんは。私の娘の小さい頃にそっ――くりっ!!」
「僕、男だよっ!?」
いきなり女の子扱いされて、僕びっくりだよ。
「わかってますよ。でも、今はお顔が卵のようにまん丸で、ツルツルしてるから女の子みたいですよ」
「ぼ、僕はいつか立派な男になるんだっ!!」
そして、母さんにどんな困難が降りかかろうとも、男である僕が守るんだ。
「そういえば、お婆ちゃんって子どもいたんだ?」
「ええ、いましたよ。凄く優しくてねぇ……。手作りの肩たたき券を作ってくれて、いつも私の傍にいてくれたの。それなのに今でも夢に出るぐらい、後悔してるわ。たった一人しかいない子どもだったのに……。娘を……どうして私は、もっとしっかり見ていなかったんだろうって……」
「……どうしたの、お婆ちゃん? もしかして、どこか痛いの?」
「……もみじちゃんは、どうしてそう思うんだい?」
「だって、お婆ちゃん凄く痛そうなんだもん」
眉根を寄せるお婆ちゃん。握った拳が小刻みに震えていて、嗚咽を我慢しているようだ。
そんなお婆ちゃんを見ていると、何故か僕まで胸が苦しくなった。
「……そうだねえ、そうかも知れないねぇ」
「どこが痛いの? 僕がさすってあげる!! そうしたらね、少しぐらいは楽になるって、母さんが言ってたんだ!」
「それはできないわよ、もみじちゃん」
「えっ、どうして?」
僕、なにか気に障るようなこと言っちゃったかな?
「お婆ちゃんが痛いのは、目に見えない場所なの」
「目に……見えない?」
「そうですよ。目に見えないものが――もう、手から溢れて、拾うことができないものが――もしかしたらその人にとって、本当に大切なものなのかも知れませんねぇ」
「……どういう意味?」
僕は首をかしげる。
大人はたまに小難しいことを言うから、僕はその度に質問する。そして大人は決まってこう返すのだ。
「いつか分かる時がきますよ。……もみじちゃんが大人になったら」
早く大人になりたいな。
今出来ないことも、きっと時間が経てばできるようになるのだろうか。
「ほら、秋月さんがきましたよ」
「えっ? 母さんっ!?」
はぐらかされたような気がするが、母さんの名を出されたらそれどころではない。
いつものように走って傍に行こうと思ったのだが、足が止まる。
「母……さん?」
「もみじ、今日も迎えに来てくれたのね。ありがとう」
顔面蒼白な母さんは、弱々しく微笑む。
「大丈夫ですか、もみじさん。最近はいつも体調が優れないと思ってたけど、今日はいつも以上にキツそうですよ。やっぱり少しぐらい休んだらどうですか?」
「そうなの、母さん?」
母さんが体調を崩していたなんて、全然気がつかなかった。
参ったなあ、と困り果てた顔をしながら、母さんはため息をつく。
「大丈夫ですよ。私にはこれしか取り柄がありませんから! 勉強も、仕事も、何もかも中途半端で、今まで誰の役にも立てなかったんですよ。昔から私って、なんの才能もないんですよね。……だから、皆さんのお世話はしっかりやり遂げたいんです。こんな私ですが、誰かの助けになりたいんです」
「そんなことないよっ!!」
大声で叫んだ反駁に、二人とも僕に視線を集める。
「母さんは才能あるよっ!! 母さんの目玉焼き美味しいし、子守唄も上手だし、それにとびっきり綺麗だし、だから、えっと、あと……。と、とにかく――母さんにはいいところがいっぱいあるよ!!」
「――だ、そうですよ。秋月さん?」
お婆ちゃんが笑いを噛み殺しながら促すと、固まっていた母さんが、ようやく唇を動かす。
「ありがとう、もみじ。そうね、だから私は――」
バタッ、と 何かを言い終える前に母さんが、目の前で倒れた。
「――えっ?」
地震が起きているわけでもないのに、なぜか視界がグラつく。
怪我をしているわけでもないのに、お腹のあたりが鈍く痛い。
べっとりと、背筋に誰かが触っているかのような、嫌悪する感覚が走る。
「母――さん? 母さんっ!! 母さんっ!!」
駆け寄って、どれだけ叫んでも母さんは身じろぎ一つしない。玉のような汗をびっしょり掻きながら、過呼吸を繰り返していた。
僕の慟哭は、悲鳴を聞き届けた人間が救急車を呼んでからも、やむことはなかった。
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