高校生編~Cパート~

第35話 輝いていた記憶の中!(上)

 子どもの頃。

 僕はマザコンだったと思う。

 それも重度の。

 僕は小さな手足を一生懸命動かし、最愛の人の元へと急ぐ。

 彼女は僕の姿を視界に入れると、普段以上に朗らかな顔で、大きく手を広げて出迎えてくれた。それだけで僕が彼女にとって特別だと思えた。それが子どもなりにとても誇らしかった。


「母さんっ!!」


 母さんは目を見開きながらも、飛び跳ねるようにタックルした僕を受け止めてくれた。柔らかな肌の感触は、まるで干したばかりのお布団のようだ。鼻先をくっつけて匂いをすんすん嗅ぐと、石鹸のいい匂いがする。

 そして気が付く。

 ――ああ、これは夢の中だと。

 その証拠に、僕の手は小さく頼りなくて非力だ。まるで他人事かのように、僕の意思を離れどんどん場面は進んでいく。

 そして、ついに僕の意識は薄れ、勝手に物語は進んでいく。

「いい子ね、もみじ。だけど、もう少し周りに気を使うことができなくては駄目よ」

 母さんがため息をつく。

 ここには僕ら以外にも人がいた。

「いいんですよ、秋月さん。そのぐらいの年齢の子は、元気が有り余ってくるぐらいが丁度いいんですから」

 車いすに座って柔和な笑みを浮かべている初老のお婆さんは、この老人ホームで何度か見たことがある人だ。名前は憶えていない。

 よく母さんと一緒にいるのを見かけていた。

「でも主人に、『お前はもみじを甘やかせ過ぎてる』って、よく言われるんですよ。だから最近は反省して、少しでも厳しくしようって決めてるんです」

「あらあら、一番可愛がっているのは、ご主人の方ではなかったんですか?」

 お婆さんのからかい半分の言い方に、母さんは口元に手をやって笑顔を隠す。

 眉をへなっと曲げ、目蓋を瞑る。

 僕が好きだった母さんの癖だ。

「そうなんですよ、主人はもみじをまるで女の子のように可愛がるから、私は嫉妬してばっかり。私も、主人にもみじがとられないかと気が気がじゃないんですよ」

「まあ! とんだライバルの出現ですこと。これは秋月さんも、うかうかしてられないわね」

「ふふっ、ほんとですよね」

 木立がふわりとした風に揺れながら、さわさわと囁いている。

 頭を照りつける陽の光は、直視できないほど眩しい。

 だけど、地上にはもっと眩しいものがある。

「母さんっ!!」

 僕を無視して、難しい話をしないで。

 咎めるようにして母さんの裾を引っ張ると、苦笑しながら僕のうなじを撫であげる。母さんは少しでも困ったことがあると、必ずこうやって頭を撫でる。

 ずるい。

 反駁しようにもできなくなってしまう。

「もみじ、どうしたの?」

 やったっ!! お母さんが僕を見てくれたっ!!

「えへへ。今日ね、今日ね。困っている女の子がいたんだっ。それで母さんが言っていた通り、困っている人を助けてあげたらねっ、その子とお友達になったんだよっ!」

「……そう。それは、とてもいいことしたのね。もみじ、偉いわよ」

「そうでしょっ!」

 母さんが微笑んでくれた。

 たったそれだけで僕は嬉しくて、そこら中を駆け回りたい衝動に駆られた。

 僕は本当にあの子を助けたかったのだろうか。もしかしたら僕は、母さんに褒められたいだけだったのかも知れない。ただ、母さんの笑った顔が見たかっただけなのかも知れない。

 老人ホームのボランティアを、誰に強制されるわけでもなく、積極的にこなす母さんは誇らしかった。母さんは他の誰よりも優しい心の持ち主で、正義感に溢れていて、どんな小さな悪事も許さなかった。

 例えば僕がほんの少し嘘をついても、「嘘をついたら泥棒の始まりよ」と必ず咎めるぐらい。そのぐらい母さんは真っ直ぐで、それでいて格好良かった。

「ねえ、その女の子は可愛かった?」

「……え? か、可愛かったけど、母さんほどじゃないから安心してよ!」

「まあ、ありがと」

 しゃがみ込んで僕と視線を合わせてくれていた母さんが、意味ありげにお婆さんと目配せする。

「どうやら、女の子泣かせな男の子になりそうですね。お顔も整っていますし」

「そうかも知れません。ただ、そうなったら色々大変そうです」

 何のことについて話しているかは理解できないけれど、なにやら僕の言葉を聞き流しているらしいことは、なんとなくわかった。

「本気だよっ!! 僕、将来は母さんをお嫁さんにするからねっ!!」

 数刻ばかり、僕をポカンとした表情で二人は見つめる。

 やがて、母さんとお婆さんの笑顔が弾ける。

「秋月さん、これはどうやら、嫉妬するのはご主人の方になりそうですね」

「ええ、そうですね。ふふっ、こうなったら精一杯、主人には焼きもちを焼かせてやります!」

「母さんっ!」

 遮った僕の表情を見て取った母さんは、突如目を眇めた。僕は叱られるのかと思い、ぐびっと無様に喉を鳴らす。

「……もみじ、今から私の言うことをよく聞いてね」

「う、うん……」

 ようやく頭を上下すると、母さんは続けた。

「いい、もみじ。あなたはきっといつか、母さんより好きな人ができるわ」

「できないよっ!」

 反射的に言い返すと、母さんが僕を優しくねめつける。僕が頬を膨らませ俯くと、ぽんと頭に手を乗せられる。

 見上げると、やっぱり母さんの笑顔が眩しくて、僕にも遺伝しているその嘘みたいに白い肌が綺麗だった。母さんは、ずっとずっと背丈が高くて、僕から見たらまるで天にも届きそうなぐらいだ。長い髪が毛先まで真っ直ぐで、僕の密かな憧れだ。今は子どもで、髪があそこまで伸ばせないから、いつか母さんぐらい長髪にしたい。

「あなたが本当に心から大切にしようって思う人ができたら、さっき母さんに言ってくれたことを、その子に言ってあげなさい。その子はきっと喜んでくれるわ。私は、もみじのその気持ちだけでお腹いっぱいだから……」

 そんなことない!! 僕は声を大にして主張したかったけど、やっぱり母さんはちゃんと聞いてくれないだろう。だけど僕は母さんのことを心底愛していて、その生き方を尊敬していた。

 母さんみたいに嫌な顔一つせずに、誰かに手を差し伸べる人間に――僕はなりたかった。


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