第31話 保健室はデット・オア・アライブ!(下)

「コーヒー飲める?」

「へ? は……はい」

 当然のように、電気ケトルを取り出す。保健室にそんなものがあるのか唖然としていると、いつの間にか光沢のある黒いカップが、腹八分ぐらいコーヒーを飲み込んでいた。

「いい加減座ったらどう、もみじちゃん?」

「で……でも」

 僕が棒立ちになっているのが目障りだったわけではなく、本意の親切心で言ってくれている寮長さんには悪いが、あまり気の進まない提案だった。

 保健室に唯一ある椅子には、寮長さんがすとんとおさまっていて、必然的に僕の足を休ませる場所はベッドしかないのだが、シーツが乱れに乱れていて、女の人の長い髪の毛まで散乱している始末だった。

 さっきまで何かしらの情事が行われていたかもしれない、このベッドに平然と体重を預けられるほど、僕は無神経にはなれなかった。

「そんなに縮こまらなくても大丈夫よ。ここの保健室の先生は、仕事放棄するので有名なんだから。めったのことがない限り、この保健室は貸切状態にできるわよ」

 どうやら僕が先生を気にして座れないと、寮長さんは判断したらしい。

 ここまで気遣われて断るのも寮長さんに悪いので、適度にベッドメイキングし終わると、おずおずと腰を落ち着かせる。枕元に、アイロンまで置かれているのを見つけてしまった。

「砂糖とミルクあるけどどうする?」

 僕はもう驚かなかった。

「両方いただきます」

 はい、と手渡されたコーヒーの闇に、白い波紋。

 備え付けれていた、小さいスプーンでかき混ぜる。口に運ぶと、仄かなコーヒー豆の香りが鼻腔をくすぐる。

 ふと、コーヒーをブラックで飲めるのが大人っぽいと、小さいころに背伸びして飲んだことを思い出した。あの時初めて飲んだブラックコーヒーは、やっぱり子どもには早過ぎてぺっぺっと吐き出してしまった。怒られることを覚悟したけれど、どこまでもお人好しの母さんは、僕の失敗を見て大声を出して笑ってくれた。

 そういうところは愛華に似ていると、いま気が付いた。

 母さんは、どこか演技くさい含み笑いをする碧さんとは違うとは気がついていたけど……。

 そういえば、僕はお父さんが碧さんのどこが気に入ったのかを、根掘り葉掘り聞いていない。普通だったら、新しい母さんとの馴れ初めが気になってしかるべきなのではないのだろうか。

 だけど僕は――

「ねえ、どうして私の部屋に来てくれないの? 合鍵は渡したでしょ?」

 僕は寮長さんの爆弾発言に仰天して、コーヒーから視線を引き剥がした。

「あれ、本気だったんですか?」

「本気も、本気。だーい、本気よっ!!」

 どんなに詐欺師に騙されやすい実直な人間でも、決して騙されないような適当な言い方。それが、逆に僕にとっては好印象だった。

 初めて寮長さんとご対面した時には、「恐怖」が僕の胸の内を占めていた。

 精緻な顔づくりはどこか機械のようで、それでいて体のつくりは驚くぐらいに完全体。そのアンバランスさが僕を困惑させ、今までの僕の経験論を根本から崩すような女性だった。

 だけど教室の廊下や、寮ですれ違う内に、それは彼女の一部分だけだということは周知の事実だと知った。

 彼女はいつでも陽気で思いやりがあって自由奔放だった。

 自己中心的なところもあり、態度はお嬢様然としている時もあったが、サバサバしているところもあって掴みどころがなかった。なにより彼女の傍には、いつも尊敬の眼差しで見つめる女性達がたくさんいた。

 露骨に避けられている僕とは、まさに彼女は正反対に位置する存在だった。

 だからなのだろうか。

 むくむくと湧き上がってしまった劣等感を抑えきれずに、思わず皮肉が口から飛び出してしまった。

「それじゃあ、さっきの女の子は本気なんですか?」

 きょとんと寮長さんが目を瞠る。

 ……しまった。

 寮長さんが他の女性と様々な関係を持っているという噂が真実なのかという、好奇心も相まってあまりにも不躾な態度になってしまった。

「もみじちゃんってさあ」

「は――はい」

 ぎしっと寮長さんが椅子に体重を預ける。

「ずばり、友達少ないでしょ?」

「はい?」

 想定外のところから切り込まれたので、体が硬直する。

 そんな僕の様子を見てどう思ったのか、寮長さんはさっきの発言の時にしたウインクを忘れたかのように笑い飛ばす。

「ごめん、ごめん。……でも、少ないのは事実でしょ?」

 僕は友達と自信を持って言えるのが、愛華と白鷺さんぐらいしかいないことか言えないことが分かると、こくんと力が抜けたように頷く。

「もみじちゃんの、そのズバッと、他人の急所を抉るような言動を受け止められる、器のでかい人間は、同級生じゃ少なそうだしね~」

 寮長さんは僕のことを何もかも悟っているかのように、コーヒーを音もなくすする。

 そして僕は、ガサツにも盛大に音を立ててコーヒーを飲んでいたことに気が付き、急に羞恥心が芽生えた。これがお金持ちに生まれた人間と、そうではない人間との差なのだろうか。些細だけれど、こういう日常的な部分で、育ちの差異が目立つ。

「そういえば、なんで寮長さんって――いや、なんでもないです」

「うーん、なになに? もみじちゃん。言いかけた言葉を言わないなんて、話し好きの私を生殺しにするつもり?」

「いえ、本当になんでもないです。大したことじゃないんで」

「どうして一年生である私が、先輩って言われているか……でしょ!?」

 僕の沈黙が図星だと理解したのか、妖精すら嫉妬するような美しい微笑みをする。

「もみじちゃん、たまにだけど、考えていることが顔に出過ぎ。逆に、何を考えるのか全然分からないときもあるけどね」

「そ、そうですか……?」

 僕は顔をグニャグニャと触っていると、

「よし。もみじちゃんはいずれ私の愛人になる子なんだから、特別に教えてあげましょう!!」

 寮長さんはわけのわからないことを言い出して、僕はまた閉口した。

 なんだろう。

 この学園は僕を驚愕させる人材と、話題には事欠かないらしい。

「今日の夕方は予定空いているわよね!?」

 それが確認ではなく、独白同然。寮長さんにとっては、確定事項なのだということは分かり切っていた。


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