第20話 ため息の絶えない浴場!(下)
白鷺さんは身体を洗い終えると、今度はシャンプーが泡立つように、両の手を擦るように擦り合わせる。そのまま丁寧に、頭の表面を傷つけないように髪をすくと、頭からシャワーを浴び始める。
「うわっ!」
僕の目蓋にぴちょんと、天井に張り付いていた水滴が気まぐれのように落ちてきた。
子犬のように、ぶるっとかぶりを振る。……思わず、素っ頓狂な声を上げてしまった。
面を上げるが、白鷺さんは自分のことに没頭していた。
聞かれなかったことにほっとしながらも、なんだか面白くないという相反する気持ちが同居する。
足をぶらぶらさせ、ばしゃばしゃと水音を立ててみるが、見向きもしない。
僕は少々声を張り上げる。
「白鷺さん! 薫子……さん? っていうかたを、知っていますか?」
白鷺さんは泡が落ちきっていないため、目を瞑ったまま、顔だけ振り返る。悪いことしたかな。
「薫子さん? 児玉薫子さんのことでしょうか? この寮にいらっしゃる?」
「はい、そうです。昨日ちょっと喧嘩というか、いざこざがあって……」
苦笑混じりにあー、と彼女は髪を洗いながら答える。
「児玉さんならありえるかも知れませんね。あの人ちょっと、怒りっぽいところがありますから……」
「あの人って、もしかして何か部活でもしてるんですか?」
ジャージの上からでも、無駄のない肉のつき方がわかった。しかも、上半身と下半身にバラつきなく、均等についていた。恐らくスポーツの中でも、全身を動かすスポーツだ。
「はい。たしか、女バスでしたよ。中等部の頃から、ずっと続けていらっしゃるようですね」
……バスケ。
まさか、今さらその言葉を聴くことになるなんて……。
でも。そうか、そういうことか。
どうして咄嗟に薫子さんの名前が口から出たのかわかった。僕の出身中学ですら、バスケ部員の中では、彼女の名前が話題にのぼるほど有名な選手だ。
人の人格を全否定するような、あの上から目線の物言い。
よっぽどのお金持ちか、よっぽどのエリートか。
偏見かもしれないけど、そのどちらかだとは思った。
キュキュと、蛇口を閉める音。
「薫子さんはスポーツ特待生で、凄く強くていらっしゃるんですよ。クラスも、あの、運動能力に特化した人しか入れない、Bクラスに確定したと聞きましたし」
「……うん、そうだと思った」
「……えっ? なんておっしゃいましたか?」
「なんでもないです」
一学年で、クラスは五つに分けられる。
その中でもスポーツ特待生が揃うのが、Bクラスらしい。始業式に配られるはずだったパンフレット――校長先生にこっそりもらった――の受け売りだ。それにしても、まさかこんなところで薫子さんと邂逅することになるなんて……。
「……そんなに、薫子さんのことが気になっていらっしゃるのですか?」
白鷺さんは唇を尖らせながら、無音のまま足を入れて、湯船に波紋をつくる。
「いいや、そうじゃないです。ただ――って、な、なにしているんですか?」
「……なにって……? お風呂に入ろうとしているだけですが、どうかなさいましたか?」
白鷺さんは事もなげに言った。
いや、確かに一緒に入ると確約はしたけれど、これは……。
小さめのボディタオルは、彼女の肢体全てを覆うことはできていないない。巻きつけることもできないのか、胸と、女性特有のなだらかな丘を、剥き出しにさせない程度しか長さが足りていない。
その見えるか見えないかの、ギリギリのチラリズムはある意味、生々しい裸よりももっと淫靡で、眺めるているだけで、背徳的な気分になってしまう。
「……あの、もしかして私の体って変なのでしょうか?」
「は……はい?」
「その、病院にいる間は暇だからと、両親が漫画を山のように置いていってくださるんです。その漫画には、男は狼だから、女の人が裸でいれば襲ってくると書いてありました」
それ、いつの時代の少女漫画?
白鷺さんは酔っているかのようにふらふらしながら、顔を赤らめている。
「それなのに、もみじさんは私のことを全然襲ってくださらない!!」
「なに言ってるの!? この人!?」
なんだか、今日の白鷺さんはおかしい。
もしかして、本当に飲酒でもしているんじゃないだろうかというぐらいに、言っていることが支離滅裂で訳がわからない。
「どうしてですか? 私よりも、薫子さんのほうがいいとおっしゃるんですか?」
「そういうわけじゃなくてですね。というか、僕はあの人のことよく知ら――」
「言い訳しないでください!!」
り、理不尽過ぎる。
「私は、もみじさんのこと――」
ざぶんと、白鷺さんが僕との距離を一気に縮めると、お湯が波立つ。
なにやら白鷺さんは神妙な顔をしながら、僕の顔を覗き込む。透明な瞳に写った僕は、どんな表情をしているのだろうか。お湯の熱気と、彼女の異常な熱意にあてらてて、くらくらして焦点が定まらない。
彼女の真剣過ぎる声音は、どこか神谷くんに告白された時とダブる。そんなはずないのに、何かしらの期待を抱いてしまっている。自分でもよくわからない、その感情。
心臓が口からはみ出しそうになった、その時。
「え、ええええええええ!?」
ことん、と胸に顔を埋められる。そしてずるずると、白鷺さんの鼻が僕の体幹をなぞっていく。へそ付近に、生温かな感触。ふっ、ふっと断続的な吐息を吹き付けられ、僕はノックアウト寸前だ。
「ちょ、ちょっと白鷺さん!?」
さすがにまずいと、肩を掴み引き剥がそうとするが白鷺さんはてこでも動かない。
「どうしたんですか?」
何度か揺り動かすが、何の反応も返さない。
も、もしかして……。
僕は白鷺さんの脇に手を入れて起こすと、彼女はぐったりとしていた。
「……ね、ねてる?」
湯冷めして気絶しているのか、それとも喘息の発作でも起きたのかと一瞬心配したが、どうやら杞憂だったらしい。
すー、すー、と、しっかり寝息を立てている。
「……まったく」
きっと、僕と一緒で疲れているかもしれない。
白鷺さんはこの霊堂学園に慣れてしまっているのだと思っていたけれど、やっぱり中等部と高等部では勝手が違うのだろう。
それに、毎日病院と寮を行き返りするだけでも、他の人の二倍は負担が大きい。今はしっかり寝かせておいたほうが懸命だろう。
なにやら様子がおかしいと思っていたら、ひどい眠気が引き起こした、一種の気の迷いのようなものだったのかもしれない。
僕のできることは、あの白鷺さんの珍行動を忘れてあげることだ。
「あれ? でも、この状態の白鷺さんをどうしよう?」
白鷺さんを抱っこするような状態になりながら、僕は途方に暮れる。
当然ながら寝ている白鷺さんは、無防備に自分の裸を晒している。そんな彼女の肢体をまじまじと眺めていたいのは山々だが、そんな不実で駄目な人間になるには、僕には勇気が足りなかった。
それよりも問題なのは、白鷺さんを着替えさせるのも、抱えて部屋に運ぶのも、助けを呼べない僕が、全て一人で実行しなければならない。
「……はあ……運び終わったら、もう一度お風呂に入ろうかなー」
僕の独り言は、夜の浴場によく響いた。
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