第13話 食堂は修羅場!(下)
ガダンッ!! と扉がブチ壊れそうな音で開く人が現れた。
ビクついた僕が何かを発する前に、
「動物みたいにサカるのは他人の勝手ですが、時と場所を考えてくださいませんか、綾城先輩」
はあ、と乱入者は呆れたように嘆息をつく。
肩にスポーツバックを掛けた短髪の女性は、寮長さんの奇行を見慣れているのか、平然と言い放つ。疲れているのか、瞼は二重になっていて、開けているのも億劫そうだ。
「いいじゃない、寮の新人さんなんだから。せっかく入寮してくれたんだから、このぐらいの熱烈に歓迎してあげてもいいでしょ?」
「だったら、綾城先輩の部屋にでも連れ込んでください。こっちは部活終わりでヘトヘトなんですよ」
邪魔なんでどいてくれますか、と短髪の女性が顎をしゃくる。
「……ちぇ、薫子ちゃんに叱られちゃった。まあ、いいわ。楽しみには後にとっておいたほうが、より美味しくいただけるもの」
妖しく全身を蔦のように絡め捕るような寮長の視線に、僕の体が火照っているのを感じる。そのまま自重を、どん、と疲弊し切ったように背の壁に預ける。
僕の体から距離を置いた寮長さんは、僕の情けないその姿に優越感を感じたのか、ほくそ笑む様に頬を歪ませる。
「じゃあね、もみじちゃん。気が向いたら私の部屋に来ていいわよ」
寮長さんはそう言って踵を返す。
僕はほっとして俯いたが、あっ! と大きな声を上げられたので、もう一度視界にとらえる。
「うわっ!」
何かを投げられた。
僕は思わずキャッチする。
恐る恐る拳を開くと、そこにあったのは鍵だった。
「私の部屋は第二食堂に隣接している部屋だからね。……鍵は渡しておくから」
手をひらひらさせながら、性欲を持て余している人は遠のく。視界から消え、ようやく安全地帯となった第二食堂で僕はほっ、と安堵のため息をつく。
あの人の艶麗さは体に悪い……。
というか、鍵って……。
流石に合いカギだよね?
まさか、関係を持つ女性とあんなことやそんなことをするためだけに、合いかぎを大量に作っているのだろうか。
会ったばかりの僕に渡すぐらいには、たくさん持っていそうだ。
あの人、色んな意味で奔放すぎない?
そして、第二食堂には僕と、短髪の女性だけになる。寮長さんがいなくなると、なぜか空気が重くて話しにくい雰囲気が漂い始める。
勘違いされていそうだ。
その気があったわけじゃないんだけど。
なんだか、部活をやっていそうだし、真面目そうな人だ。
こういう悪ふざけが一番嫌いそうで怖い。
それにしても、この人。寮長さんの魔の手から、間接的に僕を助けてくれたのだろうか。
「あ、ありがとうございます」
不機嫌そうに眉を八の字にしている女性は、スポーツバックを椅子に、投げるように置く。そんな粗野な行動は予期していなかったので、僕の体はびくりと竦む。
僕の本心から口に出た謝意は、宙ぶらりんになったまま。
この場の居心地の悪さを、意に反さない彼女――薫子さんだったかな?――は、これまた無造作に冷蔵庫を漁る。
聞こえなかったのだろうか。
着こんでいる服は、上下ともに校章の縫いこんであるジャージ。服越しからでも分かる、筋肉の隆起から、体育会系の部活動に所属していることはまず間違いなさそうだ。だったら、挨拶や返答は徹底されているはずだ。
小さく咳払いをし、先程よりは幾分か声のトーンを上げる。
「あの、僕の分の夕食も入ってるみたいなんで、とってもらってもいいですか?」
狐のように細い目をさらに細めながら、僕の分のタッパーも取ってくれる。
「ありが――」
再度感謝の謝辞を述べようとすると、わざとらしく大きな音を立たせるように、僕の分のタッパーを机に置かれる。
呆気にとられた僕は、初対面の相手、しかもなにやら機嫌がよろしいとは到底思えない無愛想な言動と、仏頂面な顔をしている人を、まじまじと眺める。
話しかける言葉も、タイミングも見いだせずに、僕はおずおずと椅子に座る。
それすらも咎められるのではないかとびくびくするが、流石にそれはないようだ。
どうやら最悪のファーストコンタクトだったらしい。
すっかりと嫌われたみたいだ。
まともに会話すらしていないというのに。
電子レンジのブゥーンという機械音が、無言の空間に妙に響く。
あんまり話しかけたくはないけど、あまりにもいたたまれない雰囲気。押しつぶされそうな空気に、せっつかれるように、僕は声高々に二度目の感謝の言葉を言う。
「あの、さっきはありがとうございました!」
「はあ?」
ようやく目線が絡み合う。
自分で切ったかのように、乱暴に切りそろえた短髪に、オシャレをまったく意識していない上下ジャージ姿。 それに、他人を威嚇するような肩の上げ方。
この人、僕なんかよりもずっと男らしいかも……。
僕の体を射抜くような薫子さんの視線に萎縮しながらも、彼女の挑むような、蔑むような目つきになんとか応える。
「あ、あの……さっき助けてくれたので……お礼を、と」
「……へー。このことを誰にもバラされたくないから、こんな私にも一応、おざなりで、とってつけたような感謝の言葉を言っておこうってことですか? 私が他人に、このことを吹聴なんてしませんよ。あの先輩、いつもあんなことばっかしていますよね。馬鹿みたい。あんな誰にでも愛想を振りまく人大嫌い。そして、あの尻軽な先輩と一緒に遊んでいるあなたと話すのも面倒くさいし、そんな形だけのお礼なんていりませんよ」
薫子さんは僕を一瞥し、冷たくせせら笑う。
「……なっ、」
なんだこの人。
口から悪言が飛び出しそうになるが、何とか飲み込む。ここで反発してしまって、目立つわけにはいかない。自分の正体のばれる可能性が、格段に跳ね上がる。自分の首を自分で締めるわけにはいかない。
机に身を乗り出して何も言えない僕に、何を思ったのか薫子さんはあからさまに舌打ちする。
「あなた、さっきからありがとう、ありがとうって連呼し過ぎなんですよ。そんなんじゃあ、心の底から『ありがとう』って言葉をいつか言えなくなりますよ」
なんで初対面のあなたに、そんなことまで言われないといけないんだ、とは思ったけれど、ぐっと堪える。それに、救ってもらえたのは事実だ。それを脇に放り、感謝の一言でも言わなかったら、人として駄目だ。
ジャージ姿の薫子さんは、ドア際でこちらを振り向く。
「何も言わないんですね。それとも何も言えないんですか? あなた、さっきから人の顔色ばかり窺ってばかりですね。……そうやって言いたいこと我慢して、自分は他人のことを考えています、気を使ってあげています、私は偉いです。……そんな風に言い訳して、自分が傷つかないような場所でふらふらしている人間が、私は嫌いなんですよ。二度と話しかけてこないでください」
僕は一瞬硬直して、薫子さんの罵詈雑言が頭の中を反芻する。そして、猛烈に反発する気概が湧いていくる。
他人と距離をとって何が悪いんだ。
いい顔をして何が悪いんだ。衝突しないように、上辺だけで付き合う。……それが人間関係っていうものじゃないのか。物わかりがいいって、そういうことじゃないのか。
人と人とが分かり合うことなんてありえない。
だからこそ人は嘘をつき、相手の出方を窺いながら調子を合わせなければならない。それこそが社交性であり、不変な僕の真理の一つであったはずだ。
だけど、薫子さんが自信ありげにそれを打ち砕いていった。
何が正しくて、何が正しくないのか。
この寮の人ってかなり個性的だな。
今までまともにここまで話すことはなかった気がする。
男子とも女子とも、この容姿のせいであまり他人と話すことはなかったからな。
薫子さんを追いかけるが――
「あのっ――」
追いつけなかった。
彼女はスポーツバッグとタッパーを持って、そそくさと早足で立ちさる。僕の言葉なんて、一切耳に入れたくないとばかりに。
吐き出せなかった黒い感情が、お腹のちょっと上の辺りで暴れ狂う。うなだれながら、感情の自己処理を済ませると、自分の尋常でない腹のすき具合を自覚した。
こうなったらやけ食いだ。
冷凍保存されていたタッパーを手に取ってみると、当然のごとく冷たかった。
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