第11話 食堂は修羅場!(上)

 起き抜けと同時に、お腹の虫が悲鳴を上げた。

 お腹が減りすぎて、鈍い痛みのある腹を押さえながら、スマホで時刻を確認するとぎりぎりスーパーも閉まっている時間。メールの受信が表示されていたが、返信する気力も起きずに、あて名を確認せずベッドに放る。

 僕の部屋は二階の角部屋で、隣にはトイレが配置されている。この部屋を選んだ理由は、東向きで太陽の光が直接燦々と降り注いで洗濯物を乾かすのに利便性がいいからと、トイレが近いからだ。近ければ近いほど、他人と会わなくて済む。そうしたのは、会う機会が少なければ少ないほど、男だとボロが出なくて済むからだ。

 廊下に出ると、しまったと立ち止まる。スリッパを購入するのを失念していた。しかたなく部屋に戻って、靴下を履いて歩き出す。

 この女子寮は二階建てで、一階も合わせて三十部屋ぐらいしかない。板張りの廊下は、寮母さんに毎日掃除してくれているのか、靴下だとつるつるで滑りやすい。ホコリが溜まっているよりは何倍もマシだが、こけてしまわないように細心の注意を払わなければならない。

 明日は百均でも行って、部屋履き用のスリッパを買わないといけないな。他にも生活必需品があるなら今のうちにメモしよう。

 と、ポケットの中を弄っても何も出てこない。そうかスマホはベッドに放り投げたままだった。スマホを取りに戻ろうと身を翻すと、マシュマロのような低反発する柔らなものにぶつかる。

 ぶっ、と僕はくぐもった声を上げながら、反動で後ろに退く。

 鼻に手を当てながら足元に視線を落とすと、しなやかな女性の足が強烈に僕の網膜にこびり付く。

 凄く綺麗な足だ。というか、かなり細長くて、なにやらエロい。

 足を見ただけで心臓が跳ね上がり、蹈鞴を踏みながら視線を上げる。そして今しがたぶつかった部位が、胸であったということに気づき、全身全霊で腰を折り曲げる。

「すいません! 考え事をしていたもので避けきれませんでした」

「あー、いいのよ。部屋から出たら、たまたまあなたと一緒に出た形になって、私も新人さんの肩でもいきなり掴んで、ちょっと驚かせてやろうと思っただけ。こっそり後をつけてきたのは、私が悪いでしょ?」

 僕は胸を撫で下ろしながら、まじまじと変な人の顔を拝見しようとするが、さらりと僕を追い越し、振り向きざま、先導するかのように僕にウインクを投げかける。キラッ、と星屑が飛び出すかのような、完璧な片目の閉じ方に僕は顔を赤くした。

 彼女の後ろに着いていっていると、髪の毛の匂いか、それともこの女性特有の甘美なフェロモンか、それともどちらも一緒くたになったのかは分からないが、兎にも角にも僕の鼻孔を刺激した。

 突き刺さるようなキツイ香水の匂いとは違い、使いたての石鹸のような優しい香り。それは鼻から侵入し、ゆるやかに脳へ全身へと移り行き、僕を困惑の底へと突き落とした。

 今まで出会った女性の中で最も女性らしい。

 とにかく……綺麗だ。

 瞬刻の香気に身震いし、僕は視線をなんとか彼女から引き剥がすことに成功した。彼女をまじまじと眺めてしまったら、知恵の実を食べてしまうことのように罪深いような気がした。

 仄暗い、麻薬のような快楽に惑わされて、二度と平凡な生活に後戻りできないような、そんな気がした。

 ろくに状況説明もされていないが、彼女に逆らうことは困難なようだ。 

 なんだろう、この気持ちは……。

「ずっと眠ってた、新人さん。ご飯なら寮母さんがタッパーに入れてくれて、冷蔵庫の中よ」

 二人りの視線が合わさる。

 まずは最初に、さらさらのブロンドヘアーが目を引く。

 一本一本の髪の毛はまるで生き物のように、瑞々しく艶やかで、僕を骨の髄まで魅了していた。日本人が憧憬の念を抱いて止まない外人のような髪の色だった。いくら高価な染料剤を用いても、ここまで素晴らしく、完璧なブロンドヘアーの味をだせるとは思えない。

 そして彼女の、横顔を見て僕は唖然とした。

 幸か不幸か、僕の周りには美女がいた。

 だから、テレビやみんなの話題から離れない芸能人や、アイドルなどを見ても、何の感慨も興奮をきたしていなかった。それゆえに、僕は愛華以外に目移りするわけがないと自信を持っていた。だけど、その確信が初めて激しく揺れ始めた。

 今まで色々な種類の美人を見てきたけれど、この人はまさに別格だ。依然として奪われていた思考の隙間に、彼女の歌手のような美声が割り込まれる。

「ほら、そうやってぼっーと立ってないで、夕飯食べなさいよ。どうせお腹へってるんでしょ?」

「……は、はい」

 彼女に促されるままに、食堂らしき場所に足を踏み込んだ。

 小さいテーブルが中央。洗い場と、時代を感じさせる電子レンジ、それと、なぜか金属の郵便ポスト。中を覗き込むと、まだ乾ききっていないタッパーが窮屈そうに身を寄せ合っている。

 自分の部屋に入るときも思ったけど、意外にココって狭いんだなあ。格式の高い高校だと事前に知らされていたから、もっと広い寮だと勝手に解釈していた。

 そんな僕の心中を、挙動不審気味な視線の動かし方で察したのか、彼女は親切にも解説してくれる。

「ここが第二食堂。あなたみたいに、みんなで食べる時間に遅刻人はここで食べるの。そして、」

 金色の髪をなびかせながら、彼女は指をさす。一挙手一投足が劇的で、輝いて見えるのは僕の幻視じゃないだろう。決して芝居がかってはいない、その流れるような動作は彼女の生まれながらにして持ち合わせた天性の才能ともいえるものだ。

 才能……か。

「第二食堂の向かいにあるのが、第一食堂。あっちは、こっちの二倍以上の広さは確保できているから安心して。それとご飯はお代わり自由だけど、残飯不可。自分で自由に告げるご飯を残すものなら、寮母さんにかなり怒られるから注意してね。原則として、六時から八時までは第一食堂で食べるの。何らかの用事があって、どうしても時間内に食べられない事態になったら、事前に私か、寮母さんに連絡して。分かった?」

「はい、ありがとうございます」

 言い慣れているかのような、流れるような説明。

 途中で区切ることもできず、なんとかお礼を言うことだけには成功する。

 この人、意外に世話焼きなのかも知れない。

「まったく、初日だからしかたないけど寮母さんから説明受けたでしょ? 本当なら連絡なしで、夕食時間に遅れた人間のご飯は廃棄されるのよ? タッパーは私のものを今日だけ貸してあげるから、明日にでも買いに行きなさい」

「す、すいません。わざわざ貸していただいて」

「いいわよ、別に」

 素っ気なく、視線も合わせない。本当にどうでもよさそうだ。まったく相手にされないで、少しがっかりな気持ちになってしまった自分を叱責する。 何をよこしまな感情を抱いているんだ、僕は。

 今の姿は女。

 そんな僕が少しでも心が傾く仕草を、彼女に感づかれでもすれば、僕の正体が白日の下にさらされる可能性が高まる。

 それになにより、愛華に失礼だと思うのだ。愛華の知らないところで、誰かに目移りするなんて不誠実極まりない。まあ、愛華は僕のことでもどうでもよく、おこがましい感情なのだろうが、これは僕自身の問題だろうが。

 眼前の彼女を見ていると、今まで感じたことのないような深く昏い禁忌のような危うさと、それに触れてみたいという歪んだ欲求が、どろどろになって危うい。

 ――その感情はきっと恋ではなく、自分に酔っているだけだ。まさに、「恋している自分が好き」という、滑稽で破廉恥な錯乱状態。

 かぶりを振って、正気を取り戻す。

 それにしても、この女の人は他人から感謝されるのが苦手なのかなと思うぐらいに素っ気ない。でも、赤の他人の為にここまでしてくれるなんて、愛想はないけれど悪い人じゃなさそうだ。

「それじゃあ、私は――」

 目を大きく見開き、凝視される。

「ど、どうしましたか?」

 もしかして、一見して僕の性別に気が付いてしまったのだろうか。たとえどれだけ昔から女性であると勘違いされたという汚名があったとしても、男性特有の雰囲気を感じ取ってしまったのだろうか。


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