第8話 トイレの天使!

 スリッパを履かずに、素足でペタペタ。ヒンヤリと冷たい廊下を、そろりそろりと歩く。寝静まっているみんなを起こさないよう、極力足音を消す。

 これからのことを考えていたら、どうしても寝つけなかった。

 明日から、僕は寮で一人暮らしを始めることになる。学園長の誘いを了承した僕は、早くも学生寮に行くことが決定した。ぐたぐたと進路を決めかねていたので、長かった春休みはなんの遊びもせずに終わってしまったのが悔やまれる。

 荷物は全部段ボールに詰め、郵送した。忘れ物はない。

 こう振り返ってみると、入学を渋々決意してからあっという間だ。

 寮には生徒全員が入るわけではない。むしろ、学費が桁違いにかかる霊堂学園では、自宅から高級車で通うような人間の方が多いらしい。だけどこの実家から、霊堂学園まで通うのは距離的に無理だ。

 女子寮に入れば、僕が男であることがばれやすくなるけど、出来る範囲で全面的に学園長が便宜を図ってくれるらしい。

 ――あなたはもう少し、他人に甘えることを覚えなさい。

 連絡をしなかった僕に、学園長はえらく憤慨していた。わざわざこの家まで乗り込んできて何を言うのかと思いきや、説教から始まり、説得で終わった。

 それにしても――。

「他人に甘えることを覚えなさい……か」

 父子家庭だった僕は、何かと一人で抱え込むことが多かったのかもしれない。父親は仕事一筋でほとんど家を空けていたから、一人でいることにも慣れた。

 だから、家族の増えた今の生活は楽しいものばかりではなく、面倒なこともたくさんある。一人ですればすぐに片付くことも、しがらみが多ければ多いほどに身動きが取れなくなる。

 だったら、この家を出ることになってよかったのかもしれない。

 いやいや、騙されるな、僕。これじゃあ、あの学園長と碧さん達の思惑通りじゃないか。

 でも、正直あの制服が可愛くて気に入っている僕もいる。あの恰好をずっとしていられると思うと、心ときめく。……どうやら、色々な意味で手遅れなところまで来てしまったみたいだ。

 溜め息をつきながら、この前の二の轍を踏まないよう、一応トイレのドアをノックする。眠れなくて、布団の中で何度も寝返りをうっていた僕は、催してここに来たのだ。すると、ドア越しに控えめな返答が帰ってきて僕はそっくり返った。

「……はい」

「ぶっ!!」

 本当にいた。しかもこの驚きに満ちた声は……。

「……葵ちゃん?」

 他の人間を起こさないように、ボリュームを絞る。

「そう……です」

 やっぱり、石橋を叩いておいて良かった。それにしても、トイレでのエンカウント率が異常ではないだろうか。もしかして、体調でも悪いのかな。それともただ単にトイレがはやいのか。僕は小さな声でも聞こえるように、トイレのドアに接近する。

「葵ちゃん、もしかしてどこか悪いの?」

「……大丈夫です。だから早くドアから離れてください」

 苛立ち気な口調で言われるが、何かに苦しんでいるようにも聞こえる。僕に遠慮しているのだろうか。水くさいとへそを曲げそうになるが、自分だって家族に心の距離を置いているから同罪だ。後ろめたいからこそ、僕は誠実であろうとした。

「どうしたの? 葵ちゃん。僕にできることがあったらなんでも言ってよ」

「いいから離れてください! 音を聞かれたくないんです!」

 あっ、そっか。女の子だから、こうやって用を済ます音を聞かれるのは恥ずかしいのか。学校ならば、毎日のように、隣で小便をするから、トイレの音に関しては無頓着だった。

 妙に納得しながら、僕がトイレできるまで少し離れる。

 ただ、僕がトイレに入ると、みんな縮こまってトイレをしようとしない。中にはトイレから、真っ赤な顔をして飛び出す人間もいるぐらいだ。容姿がまるっきり女だからこそ経験したことのないことだろうけれど、結構これが傷つくし、気を使ってしまう。

 中学じゃ、みんなに迷惑をかけないようにと、トイレをするのを極力我慢していたぐらいだ。だから落ち着いてトイレできるのは家だけで、家のトイレをなにより至福と考えている。でも霊堂学園ではそんな悩みから解放されるのか。

「……離れてくれましたか?」

 葵ちゃんの過剰なまでの確認に、僕は微苦笑する。

 こうなったら、なるべく葵ちゃんを安心させなきゃ。

「うん、もう僕に気遣わなくていいよ。心置きなくやっていいからね」

「私の声聞こえるじゃないですか! 耳を塞いでいてください!!」

 なんて理不尽な怒り方なんだ。

 と思いながらも、さっさとどこかに言ってください、ではなくて耳を塞いでくださいって言い草に、僕は過敏に反応した。

 もしかしたら、葵ちゃんは暗いのが怖いのかもしれない。僕も本当に小さい時は、夜に一人でトイレがいけなかったという、非常に恥ずかしい経歴を持っている。あの頃は、ドアの外に眠そうな母さんを待機させて、ちゃんとそこにいる? と何度も訊いたものだ。

 そして律儀に母さんは、大丈夫。ここにいるよ。私はもみじの傍にいるよ。って言ってくれたんだ。そんな風に言ってくる母さんのことが、僕は大好きだった。本当に嬉しかったんだ。理屈抜きに闇を怖れてい僕に、救いの手をさし伸ばしてくれたことが、本当に。

 僕は耳を塞いで、葵ちゃんが出てくるのを待ち続けた。

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