第5話 落ち着けない部屋!
坂、というよりは山を登った先に、僕の住んでいる市営住宅は建っている。
あちこちガタがきている気がするが、今のところ改築する話はでてきていない。
もともとあった山を切り崩して建てたため、上から眺められる景色は絶景。近くには野球とサッカーが同時にしても、まだスペースが余る広大なグラウンドもある。それに、子どもが遊べるような、ちょっとした公園も設備されている。
……ただし。季節は冬真っ盛りだというのに、自転車で登ってくるだけで、上着を脱ぎたくなるほどの急勾配な坂道だけが気にくわない。この坂のせいで休日だというのに、気軽に買い物にも行けない。
不憫さゆえに家賃は安いのだけれど、交通の便が悪すぎる。
いっそのこと、碧さんに車を出してもらおうかとも思ったが、たかが文具を購入する用件だけで、そこまでしてもらうのも気が引ける。
まあ、その場しのぎだけど、シャーペンの消しゴムで代用するしかないな。
「んんんー。あー、解んないな」
椅子もろとも後ろに倒れそうになるぐらい、凝り固まった背骨をひき伸ばすと、ボキボキッと不穏な音が鳴る。
ヘッドホンからは、流行りのJ-POPがシャカシャカ流れている。
集中力が極限に高まると音楽が聞こえなくなるので、音楽が聞こえるか聞こえないかで集中したかどうかの目安にしている。正気に戻った時に、ああ自分はこんなに勉強に熱中できていたんだという自信にも繋がるから、昔からずっとやり続けている。
書店の店員さんにお勧めの高校教材を紹介してもらい、購入した数学教材の上下巻は、まるで電話帳並みの厚さでズシリと重い。それでも奮起し、高校の数学を今のうちに予習しようと思ったけど、これが予想以上に難しかった。
誰かに解き方を訊きたいのは山々だけど、頼りになりそうな大人は近くにいない。いや、勉強を教えるのに適任な人に心当たりはあるけれど、あの人は苦手だ。
「はぶっ!」
後ろから不意に抱きつかれ、そのままの勢いで机に突っ伏す。
ううう、おでこが痛い。
乗りかかっている相手は、僕の体に全体重を預けているせいで身動きが取れない。首を捩じろうにも、この無様な恰好ではそれも叶わない。
僕はしかたなく、机にへばりついたままヘッドホンをむしり取る。
「あ……茜義姉さん。ノックぐらいしてくださいって、僕いつも言ってますよね。いい加減入ってくる度に、僕の体に突進してくるのだけは止めてくてませんか?」
「なんで、振り向きもせずにあたしだって分かったの? 気配だけで分かったんなら、流石はもみじちゃんね!」
「……こんなことするのは、茜義姉さんだけだからですよ」
「またまた~、知ってるんだよ、あたしは。いつももみじちゃんがあたしの胸の大きさで、判断してるってことっ!」
「そんなことないです!」
雑念を振り払おうとするが、どう足掻いても事実は事実だ。
背中に押し付けられた豊満な胸の感触で、特定できたってことは隠しておこう。
恥ずかしがる僕をいじることによって、茜義姉さんにテンションを上げられると、僕なんかじゃ捌ききれない。
それにしても、おっきい。そのへんのグラビアアイドルより、よっぽど……。
「なあ、もみじちゃん。実は、もみじちゃんにだけは言っておこうと思ってたことがあったんだよね。聞いてくれる?」
一体なんのことだろうか。
もしかして就職先のことだろうか。
茜義姉さんは、高校の教師を目指してだけあって頭の回転が速いのだけれど、就職難らしく内定が未だに決っていないらしい。
僕も他人の心配をしている暇はないが、茜義姉さんが深刻な悩みを抱えているのなら、それを聞く義務がある。
僕は覚悟しながら肯くと、茜義姉さんはとんでもない爆弾発言を、僕の部屋に投下した。
「私の胸、最近また大きくなったんだけど分かる?」
「わ、分かりましぇん!」
さ、さっきまで考えていた、邪まな感情をそのまま言い当てられて、動揺したんじゃないんだからね! ……って、なんでツンデレっぽくなってるんだ僕は!?
茜義姉さんが、何を思ったのか自分の腕をするりと、背中越しに僕の体に回す。
へ? ええええええ!?
メロンのような胸が僕の背中で押しつぶされて、僕の中でいけない妄想が膨らんでいく。
このまま茜義姉さんが、僕の体を無理やりあっちこっちいじくって、茜義姉さんなしじゃ生きていけない体にされるのではないのか。
僕は唇を噛みながら、不埒な思考を塗りつぶそうと、さっきまで暗記しようと四苦八苦していた数学の公式を反芻させる。
僕をからかうだけが目的だろうが、女の子に免疫がない僕には効果抜群だ。いまにも、漫画のように鼻血を吹き出しそうだ。
「ねえ、もみじちゃん」
「ひゃい!?」
飛び上がるように振り返ると、茜義姉さんの思いがけない真剣な眼差しにドキリとする。
どうしたんだろう?
もしかして、僕の進路のことかな。
高校受験を落ちて進路が定まらないなか、何も行動しようとしない僕を叱るために、こんな回りくどいやり方で僕の緊張をほぐしたのだろうか。
「どうしてあたしのことを『あ・か・ね』って呼んでくれないの?」
がくっ、と全身から力が抜ける。
なんだ、そんなことか。咎められるかと緊張して損した。
「茜義姉さんが僕のことを、もみじちゃんっていう恥ずかしい呼び方するからです」……なんてちょっぴり厳しめに言えたらいいけれど、そうもいかない。
そんなこと言っても、茜義姉さんのことだから、聞く耳なんてもたないだろう。
ただ、理由はそれだけじゃない。
「まだ戸惑っているんです。……この新しい家族に」
父親が再婚をすること自体に、反対はなかった。一生バツイチであるだろうと思っていた、あの朴念仁である父親と、再婚してくれる物好きな碧さんに感謝してもしきれないぐらいだし、二人の再婚を祝福すらしたはずだ。
けれど、新しくできた義理の母親と、二人の姉妹にどんな距離感で接すればいいのか、未だに模索している。
碧さんと茜義姉さんは、自分から積極的に話しかけてくれるタイプの人間だから、その行為に甘えることはできる。
だけど、義妹である葵ちゃんは、僕のことを嫌っているのか、僕の言葉に耳を貸すことがほとんどない。元々が寡黙な性格だから、いつも機嫌悪そうにそっぽを向いている。
「……もみじちゃん」
お腹に当てていない方の手を、僕の頭にのせる。
いったい何をするつもりなのかと不審がっていると、そのまま頭を優しく撫でられる。髪と髪の間を丁寧に入り込む、思いやりが籠ったナデナデ。僕は赤面しながらも、その行為を諌めることなんてできなかった。
「そんなに焦らなくてもいいだよ。あたし達に血の繋がりがなくたって、家族は家族なんだからさ。その事実をいきなり受け止めろだなんて、家族として振る舞おうだなんて、もみじちゃんの年齢じゃあそう簡単にできないのは当たり前なんだよ。それに、『家族』ってやつは、なろうとしてなるものじゃあないんだ」
優しい声音に、胸の内の熱が全身に、ゆっくりと広がっていく。
そうなのかなあ、うん……茜義姉さんの言う通りかもしれない。幼い頃に両親が離婚してしまったから、家族ってものがあんまり分からないけれど、なろうとしてなるものじゃあないことを確かだ。
「でもさ、もみじちゃんが家族に遠慮しているのは、あんまり感心できないんだ。少なくともあたしにはさ……気兼ねなく、なんでも言っていいんだよ。ううん、言って欲しいな。これは、命令じゃなくてお願い。ただのあたしの我儘だ。だから拒否してくれたって一向に構わない。なんたってあたしたちは――」
――家族なんだから。
おそらく、そう言いたかったのだろうけど、茜義姉さんは寂しそうに苦笑しただけだった。
どうして言えなかったのか。
おそらくそれは、まだお互いの溝が埋まっていないから。茜義姉さんも口では「気兼ねなく」と言ってくれているけど、やっぱり心のどこかでは遠慮がある。母のいなかった僕を、どこか同情を孕んだ視線で見てしまっている。
それに気が付いてしまったことは、決して悪くはないだろうけれど、やっぱりちょっとだけ心苦しいのは否めない。
ここで、「僕たちは家族なんだよね。だからこれからは何でも言うよ! 茜義姉さんと、もっともっと仲良くなりたいからね!」……なんて、心にもない台詞を吐いても誰も喜ばないし、下手したら茜義姉さんが傷つくだけだ。
だから、今は僕の正直な気持ちだけを紡ごう。
それは、家族になるためだとか、そんな損得勘定な理論じゃなくて、自然と心が感じたままの、衝動にも似た剥き出しの感情。
「……茜義姉さん」
もしかしたら、これを言ってしまったらなら茜義姉さんから嫌われてしまうかもしれない。
そんな細かいことで、いちいちウザいだなんて罵られるかも知れない。
だけど、これが最初の一歩な気がする。
僕と茜義姉さんが本当の家族になれるのかどうかの瀬戸際で、それでお互い距離を詰めた、最初の一歩。
「なんだい、もみじちゃん? ……なんでも言っていいだよ」
「どいてくれませんか?」
話している間、ずっと茜義姉さんが背中にのしかかれている。茜義姉さんには悪いけど、喘息で倒れてしまったらあの女の子と比較すると、段違いの重さだ。それに、机に突っ伏しているこの態勢にも限界が近い。
今にも体が、し、痺れそうだ……。
「……い、や!」
茜義姉さんは最悪なことに、満面の笑みで僕の予想通りの返答をした。
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