第4話 懺悔の病院!
病院は消毒剤や湿布の匂いが充満していて、この場に長く居座っているだけで、気分が悪くなりそうだった。自分が思い描いていたレールから外れ、将来に対する曖昧な希望的観測が粉々に打ち砕かれてしまったのだから、体に変調をきたすのは尚更至極当然だ。
低反発素材で高そうな黒革のソファーに、どすん、と僕は遠慮なしに体重をあずける。隣に座っていた老人がびくついて、こちらを批難するような視線を寄越すが、相手をする気力もなかった。
老人は僕の態度に気分を害したのか、僕に何の抗議もしないまま杖をついてこの場からそそくさと退散していった。足取りがおぼつかずに、背骨が折れているかのように腰をひん曲げている老人を見て、僕は拳を握り締める。
……八つ当たりなんて、最悪だ。
握った拳を、座っているソファーに思いっきりぶつけてやりたい衝動にかられたが、すぐに握力を緩める。
そんなことしたって、どうにもならない。
これから将来どうなるか分からない絶望感と、自分のしでかした行為による罪悪感が、背中に重くのしかかり、俯いていると、
「ねえ……あなた、大丈夫?」
一緒に救急車に乗ってきた、ゆるふわカールの茶髪が首を傾げた拍子に揺れる。
ソファーの端に座っているというのに、彼女は少しばかり強引に、僕のすぐ傍――肩が触れ合う位置におさまった。
さらさらの髪の毛が、彼女の呼吸と共に上下し、頬に当たってその度にこそばゆい。ソファーの隅まで押しのけるわけにもいかず、ただ黙って彼女を下から怪訝な表情で見上げる。
ぷくっとプリンのようにぷるぷるしている唇には、薄いピンクの口紅が塗っている。その唇は真一文字にきつく結ばれていた。
自然と、口から出た言葉は、棘のある声音になってしまった。
「……大丈夫ですよ。ちょっと疲れただけです」
「そう良かったわね。でも、それだけじゃなくて」
「電話したんですけど、駄目でした」
「……そう」
刹那、その瞳に影を落としながらも、瞬きすれば元通り、大人の表情。作り慣れた能面。
それでも隠しきれないのが、ちょっとばかり幼稚な好奇心と、一回りも二回りも格差のある年齢差の余裕が表情から滲みでてきている。
こちらの様子を伺いながら、ご機嫌をとろうとしているのが明白で、それがさらに気に食わない。
くそっ、くそっ。
わかっている、こんなのヒステリーと同義だ。
心の中で八つ当たりしている理由は、さっき病院の外で掛けた電話のせいだ。
試験の遅刻理由すら聞いてもらえず、もう受けないでいいと、プライドの高そうな男の人にあっけらかんと言われた。さすがに僕もカチンときて、言い返そうと思ったら一方的に電話が切られた。
吐き出しきれなかった憤りを、電話越しにぶつけることができず、有毒ガスのように体内を循環している。
「あの時、私はあなたに言ったわよね。『ここは私一人に任せなさい』って。それなのにどうして、私のいう通りにしなかったの?」
喘息の女の子が倒れた時に、おばさんは、僕に言った言葉を繰り返した。
確かに、おばさんのいう通りにすれば試験を受けれて、難なく合格切符を手にしていただろう。
けれど、あのまま行ったら、あの女の子を見捨ててしまうような気がした。
助けを懇願されたわけじゃない、これは――確固たる自分の意思。
「僕は、後悔したくなかったんです」
目を眇め、顎を引き、真顔になる。
そうだ。僕は後悔をしたくなかったんだ。
頑固だといわれようが、天邪鬼だと揶揄されようが、愚か者だと嘲笑されようが、自分を曲げたくなかった。
たった……たったそれだけのことだ。
「……後悔しない選択なんて、有り得ないわ」
僕の返答を試すような、ちょっと面白がっているようなおばさんの声のトーン。
待合室には、様々な人間がいたが、そのほとんどは皺くちゃのおじいさん、おばあさんばかりだった。
呆けた顔で、漫然と余生を生きているように見えた。それでも、頬に刻まれているのは苦労の証である皺。あの人たちがどんな生き方をしてきたのか、僕は知ることができない。ただ僕は、あの人達以上の皺を、頬に刻むことができるだろうか。
「そうですね。後悔しないことなんて、絶対にありえません。けど――」
十数年生きているだけでも、今まで僕は無数の選択を強いられてきた。
小さいことから、大きなことまで。
そして、人生において、初めて大きな選択を迫られたのが、恐らく今日のことだったのだと思う。
これからの僕の人生を決める上で、とても重要な……。
「後悔することが前提としてあるのならば、僕は……できるだけ後悔の少ない人生を歩みたいって、そう思ったんです」
世間の人間から言わせれば、僕は大馬鹿ものだろう。
きっと、「喘息の女の子をこの人に押し付けて、自分は試験を受けにいくことこそが、人生において最も正しい選択である」と、万人が口をそろえて言うだろう。
確かに、そうだ。そうだよね。僕もそう思うよ。
それが合理的判断で、大人の思考だ。
思わず苦笑が漏れる。
女の人は、珍獣でも見つけたかのような顔になる。
「……つまり、あなたはそこまで後悔していないってこと?」
「はい」
悔恨の気持ちがゼロだと言うならば嘘になるけれど、僕はここに来てよかったと思っている。
あのまま見て見ぬふりをするよりかは、ずっと……。
これは僕の勝手な贖罪だ。
あの女の子に十字架を背負わせるつもりはない。
ただ、あの子に何もしてやれなかった、僕自身へ戒めのようなものも含まれている。
「あなた、見た目に反してそうとう頑固ね」
「……よく言われます」
互いに笑いを交わし合う。
財布の中をさぐりながら、「気に入ったわ」と彼女はナチュラルに、名刺を差し出す。
生まれて初めてもらった名刺を、まじまじと見つめていると「じゃあ、また会いましょう」と、スカートを翻し、ブーツを鳴らしていった。
なんだか、暴風雨のような人だったなあ。
ぱちぱちと瞬きし、もらった名刺を見下ろすと、『霊堂学園高等部学園長』……と、肩書きの箇所にそう書かれていた。
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