第3話 駅前は人生の分岐点!

 

 まるで人がゴミのようだ。

 駅のホームから降りる細長いエスカレーターは、上り下りの二種類が仲良さそうに連なっている。椅子とりゲームのように我先にと乗り込もうとする流れに酔いそうになりながらも、どうにか誰にも足を踏まれないポジションを確保した。

 みんな行儀よく、狭い空間にぎゅうぎゅう詰めで、体同士がぶつかり合いそうになるぐらいの密着具合で息苦い。

 それでも幾許かの時間を経て、ようやく僕らは駅の外へと吐き出される。電車から駅へのこの道中皆無だった開放感を、憂いなく全身で感じる事が出来て、ようやく吐息の一つもこぼせた。

 ……ふぅ、これが毎日ともなるとキツイな。

 電車の中では、おじさん達が僕の体の線をじっくりと舐めるようなイヤらしい目線を感じたので、危うく悲鳴を上げそうになるのをなんとか堪えた。こんな苦難をみんな毎日乗り越えているんだとしたら、本当に感服する。

「……わっ!」

 誕生日プレゼントに親に買ってもらった、新品のスマホが振動していた。どんな機能が搭載しているかも把握しきれていないが、連絡の為に必要だからと碧さんに持たされた。高価なものだからと断ったのだけれど、どうにもあの人の強引な頼み方を拒みきれなかった。

 えっとぉ、と慣れない手つきでメールボックスを開くと、愛華だった。

『もみじが受験票を忘れるとか馬鹿なことしなければ、推薦入試なんて余裕で受かるわよ! ここまできたなら、私はもうなんの文句も言わない。私がもみじに願うのはたった一つだけ。……私と一緒に、同じ高校に通うわよ!!』

 ……自然と微笑が溢れる。愛華らしい直接的な文面に、自分の中でずっと張りつめていたものが弛緩する。担任からは「受かって当然」だと言われ、もしもここで万が一にも落ちてしまったら、みんなの期待を裏切ってしまう、とかなりのプレッシャーを感じていた。

 愛華と先生には同じことを言われているのに、全然感じ方が違うから不思議だ。

 どうしてなのかな……。

 スマホのディスプレイにある時計機能に目を下ろす。

 試験開始時間までは、走らずともまだまだ余裕がある。だけど、今は小走りで群集をかき分けてとにかく早く会場へと赴きたい。さっきまで感じていたヘビーな重圧はすっかりどこかに吹き飛んでしまった。今なら、どんな難問が飛び込んだって直ぐさま解決出来るような気がする。

「よし、頑張ろうか!!」

 意気込みながら歩いていると、視界の脇に痛々しそうに咳き込む少女がいた。年齢は僕と同じぐらいだろうか。咳き込み方があまりにも苦痛そうなので、自然と目についた。

 今年は新型の風邪が蔓延したせいで、性質の悪い症状が持続するらしく新聞でも取り上げられていた。

 僕も風邪をひかないように気をつけなきゃな。せっかく点数は足りているのに、風邪で本調子が出ないなんてなったら、悔やんでも悔やみきれない。

 うーん、こんなことなら万全を期して、風邪をうつされないようにマスクを着用してくればよかった。

 憐憫の眼で一瞥し、僕は受験会場へと急いで足を運ぼうとすると、彼女は持っていたボーチを落とし、アスファルトに膝をついた。

 ……え?

 断続的な咳き込みは勢いを増し、おさまる兆しすら見えない。明らかにただの風邪じゃないと確信した僕は、驚きながらも駆け寄る。

「大丈夫ですか?」

 彼女はからくも頷くが、ヒュー、ヒューと、明らかに尋常ではない音がどこからか漏れている。まるで壊れた機械のような音が、僕の不安を煽る。

 彼女を近くで良く見ると顔面蒼白で、全身に汗をびっしょりかいている。

 ……ひどいな、これは。

 もしかしたら今すぐにでも病院に連れて行かないと、手遅れになるかも知れない。流石に命の危機とまではいかないまでも、何らかの処置を迅速に行わなければ、何らかの障害をきたすかも知れない。

「あのっ、誰か!! 誰でもいいから救急車をっ!! この人苦しんでるんで――えっ?」

 僕は周りに助けを求めるが、誰もかれも我関せずとばかりに、ついっと視線をそらして速足になる。

 舌打ちしながら、腕時計を覗き見ているサラリーマンもいる。僕の言葉を打ち消すかのように、馬鹿みたいに高笑いする女子高校生たちもいる。好奇心で近づこうとする子どもを、必死に遠ざけようする母親もいる。

 なんだ……これ……?

 もしかして、みんな面倒事に関わりあいたくないのか? 目の前で、彼女はこんなにも苦しんでいるのに、人間として、この切迫した事態に背を向けることを、恥ずかしいと思わないのだろうか。

「ゴホッ、ゴホ、ゴホッ!!」

 今にもかっ血しそうなぐらい、痛々しいまでに咳き込むのを聞いて、僕はもうあてにならない誰かの助力を乞うのは諦めた。

 僕は彼女の背中を擦りながら、途方に暮れた。

 でも、どうすればいいんだろう。何をしてあげればいいのか、皆目見当がつかない。

 僕は医療の知識も、不測の事態に対応できるだけの瞬発力も、どちらも持ち合わせていない。下手な手当てをして、逆効果にでもなってしまえば誰に責任を取っていいのかさえも分からない。

 こうやって悩んでいる間にも、彼女の症状は刻一刻と悪化していっている。

 ……いったい、どうすれば?

 早く助けなければいけなのに、全身が金縛りになったかのように動いてくれない。

 頭が真っ白になる。

 絶望に俯いていると、一つの影が僕の傍で止まる。

「恐らく彼女は喘息持ちよ! 私もそこまで知識がないから自信ないけど、この子は私が面倒見ておくから、あなたは一応、救急車を呼んでくれる? いますぐ!」

 ブーツをカッと鳴らす。

 瞬時に状況把握して、僕に命令を下したのは茶髪のおばさんだった。

 おばさんといっても、見た目は三十代ぐらい。

 ぱりっと糊のきいたスーツには、埃一つついていない。スーツとは縁のない生活を送っている僕にでも、一目で高価なものだということが分かる。そしてそのスーツを着こなすことができるだけの、すらりとした長身に、僕は自然と見上げる格好になる。

 見た目は、仕事をバリバリこなすキャリアウーマン。もしくは頼りになるが、近寄りがたい社長秘書を彷彿させた。

「はやくしなさい!」

「……はいっ!」

 女性の詰るような叱咤で、茫然自失の状態から立ち直る。

 すぐさま僕は電話を掛けた。

 あちら側の事務的な対応に、いちいち腹が立った。僕の名前とか今はどうでもいいじゃないか。こっちは緊急事態なんだ。そんなに何回も場所や状況を聞く余裕があるのなら、もっと早く現場に向かって欲しい。

 はやく、もっとはやく。

 救急車一台が出るまでに、途方もなく長いプロセスに焦れながらも、ようやく一仕事終える。と、その途端どっと肩の荷が下りた反動で、自分が疲労し切っていることを自覚して地面にへたり込む。

 安堵の溜息をつき、少女の状態を心配して視線を向けると、ぎょっとする。

 おばさんは、女の子が落としたポーチを弄っていた。

 モラルに欠けた行為を咎めようとすると、おばさんは白いプラスチックの器械を取り出した。

 ……なにを?

 訝しげに見ている僕に気が付いたのか、黙って見ていなさいとばかりに一瞥し、おばさんはその器械を少女の口につける。

 すると、段々とだが顔色がよくなっていき、素人目にも症状が和らいでいくのが確認できる。唖然としている僕に呆れたのか、おばさんがため息交じりに見やる。

「気管支拡張薬よ。喘息持ちの人間ならだいたい持ち歩いているわ。これでだいぶ楽にはなると思うけど、あんまり自信ないわね。ああそれと、一応水分をとらせた方がいいわね。……ごめんなさい、ちょっとこの子を抱えていてくれないかしら」

「は、はいっ!」

 抱き抱えた女の子は、全くといっていいほど重さを感じなかった。

 まるで羽のような軽々しさで、彼女の病弱さがそうさせているのだと考えると、正直いたたまれない。虚ろな瞳で僕を見上げている、彼女の視線は感じていたのだけど、無視してしまっていた。

 なぜなら、僕は彼女に何一つとして胸を張れる行為をやり遂げていないのだから。

 おばさんは、自分のバッグの中からペットボトルを取り出す。

「ありがとう。あなたのお蔭で彼女はもう大丈夫そうね。あとは病院の人に任せるとするわ」と、僕を安心させるような、穏やかな目線をよこす。

 だけど僕は、好意を素直に受け取ることができなかった。

「僕は、結局――いや、そう、なんですか。……気管し……? ……とにかくこの子は、喘息だったんですね。全然気づかなかったし、そんな知識も僕なんかにはありませんでした……」

 ハハハと、自分の口から乾いた笑いが漏れ、ガクリと項垂れる。

「なにやっているんでしょうね、僕は……」

 自分の無知さが恥ずかしい。

 何より、勇んで人助けを試みようとして、失敗。それから自発的に何も挽回できなかったことが悔しい。

 全部おばさんの指示通りにやっただけで、僕はみっともなく右往左往していただけだ。

 こんなんじゃ、見て見ぬふりをしていたほうが、よっぽど賢い選択だったんじゃないのか。女の子を見捨てたあの人達みたいに、傍観者になればここまで傷つくことはなかったはずだ。

 偽善者がどこまで偽善を貫いたところで、進んだ先に待っているのは、地獄のような無力感か、空虚な満足感だけだ。

「無知の知」

「…………?」

 おばさんの唐突な単語に、僕は言葉をなくす。

 ……なんのことだろう?

「『知らないことを知っているのは、それだけで聡い』って意味よ。それは……今のあなたのこと……。ねぇ、だから、そんなに落ち込まないでいいのよ。私だって、あの子を助けようどうか、一瞬躊躇しちゃったの。でもね、あなたは全く迷いなく彼女に手を差し伸ばした。それは、世間体やしがらみにとらわれない、あなただからできたことなのかも知れない。とにかくあなたは、胸を張っていいの」

「……ああっ……はい……」

 ……やっ――ばい。

 それだけしか言えなかったけれど、本当はもっともっと感謝していることを伝えたかった。

 おばさんの、何気ないように言われたその一言で、ちょっと救われたのだから。

 僕は視線を逸らしていると、腕に優しく手を置かれる。細くて、今にも折れそうな少女の手。彼女は僕を無言で見上げながら、まるで「ありがとう」と温かな瞳の色で語っているかのようだった。

 僕はもう、涙を流さない努力をすることを諦めた。


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