過去編:図鑑と、スケッチブック

「あかねちゃん、ちきゅうってすごいんだよ!」

「……そうなんだ」

 幼稚園の隅で一人で絵を描いている朱音に、明日香はよくこんな風に話しかけていた。

 朱音としては一人でいることなど些末な問題でしかなく、外で皆と遊ぶより絵を描く方が好きだったので、正直なところ明日香を鬱陶しく思っていた。

 あまり他人と関わらない朱音を心配して、幼馴染の明日香に遊んでくれるよう頼みこんでいた母親には少しの罪悪感があったが、まだ幼い朱音には自分の娯楽が何よりも優先だったのである。

「……でね~、ちきゅうってたいようからちょうどいいきょりにあるからいきものがいきられるんだって!」

「………」

 明日香が幼稚園児向け図鑑を読み聞かせるのを聞き流し、朱音は黙々と手に持ったクレヨンを動かす。

 話す内容は動物や植物のこともあったが、とりわけ多いのはこのような宇宙や地球の話だった。

「……あすかちゃん、ほし、すきなの?」

「うん、だいすき! あかねちゃんは?」

「……おえかきのほうがすき」

「へー、そうなんだ! なにかいてるの?」

「………」

 朱音としては遠回しに絵を描くことに専念したいからどっか行ってくれと言ったつもりだったが、そんなことに気づくはずもなく明日香は質問を返してくる。

 そんなとき。

「おい、おまえらなにやってんだよ」

「……ケンタ」

 ケンタと呼ばれた男児は取り巻きを連れて二人に絡んでくる。

 いじめっ子というほどではないが、いつもこのように色んな同級生に絡んで邪魔をしてくるので、朱音のような引っ込み思案な子供たちは彼のことを最も苦手としていた。

「アカネはなにかいてんだ~?」

「……べつになんだっていいでしょ」

「そうだよ! あかねちゃんいっしょうけんめいかいてるんだからじゃましないで!」

「うるせえ! おれがもっとうまくかいてやるよ」

「あっ!」

 ケンタが机の上のスケッチブックを取り上げる。

「ちょっ、かえしなさいよ!」

 明日香が食って掛かると、ケンタはスケッチブックを取り巻きにパスする。その瞬間、明日香は素早くターゲットを変え、スケッチブックを渡された取り巻きに飛び掛かった。

「ぎゃっ!」

「なにしやがる!」

「や、やめてよ……! けんかしないでよぉぉぉぉぉ! うぇぇぇぇぇぇん!」

 突如始まった明日香とケンタたちのつかみ合いの喧嘩に、朱音はただ泣くことしかできなかった。

 やがて朱音の懸念通り、騒ぎに気付いた保育士が仲裁に入る。

「クソッ、おぼえてろよ!」

 いつも自分たちを叱る保育士に恐れをなし、ケンタたちは捨て台詞を残して逃げていく。

 スケッチブックはほぼ無傷のまま床に残されていた。

「全くあの子たちにも困りものね……大丈夫? ケガはない?」

「はい! あすかもあかねちゃんの『え』もだいじょうぶです! でも……」

 誇らしげに笑っていた明日香は、申し訳なさそうに俯く。

 床には彼女の持っていた図鑑がバラバラになり散乱していた。もともとこの図鑑は幼稚園に長年置かれていたため何度も補修されるほど傷み切っていたが、今回の喧嘩で表紙は折れ曲がりページは破れ、完全に修復が不可能なほどボロボロになってしまっていた。

「その……ケンタがあかねちゃんの『え』をとって、それでとりかえさなきゃ、っておもって……ご、ごめんなざいぃぃぃぃぃぃぃぃぃ‼」

「びえぇぇぇぇぇぇぇぇ‼」

 保育士が優しく慰めている間、二人はひたすらに泣き続けた。


「あかねちゃん、なにかいてるの?」

「………」

 翌日、またいつものように明日香は朱音に話しかけていた。

 ただし、その手にはいつも持っていたお気に入りの図鑑はない。この幼稚園から明日香が一番好きだった本は無くなってしまったのだ。

 明日香はスケッチブックを覗き見る。

「‼ それ、あすかとあかねちゃん?」

「……わたしのせいであかねちゃんのすきなずかん、すてられちゃったから」

 申し訳なさそうに、そして照れ臭そうに言う朱音の手元には、地球の上で明日香と朱音の二人が仲良く手を繋いでいる絵が描かれていた。

「ううん、ありがとう! わたし、ちきゅうもあかねちゃんもだいすき‼」

「……えへ」

 こうして二人の友人関係———あるいは依存関係———が始まった。


 ———そのおよそ数か月後、「地球はあと数十年で滅亡する」という衝撃的な事実が全世界に公表されることとなる。

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