引っ込み思案と、眠れない夜

 都内の中高一貫女子高、清沢女学院は全寮制である。校舎からほど近いところにある学生寮で、一部屋に付き二人の生徒が寝食を共に生活していた。

 規律に関しては特別厳しいというほどではないが、規則正しい生活を重んじているため一日のスケジュールは分単位で設定されているほど厳格である。特に夜更かしは翌日の生活に著しく支障をきたすとして、厳しく禁じられている。

(……眠れない)

 午前二時。消灯時間はとっくに過ぎているというのに、しかし朱音は寝付けずにいた。

 二段ベッドの上段から聞こえてくるルームメイトの幸せそうな寝息が恨めしい。

(うーーーん、結局土日遊び倒してたから課題作文のテーマなんも決まってないな……)

 課題、移住、そして将来。あらゆる不確定事項や不安材料が鎖のように絡まり合って、朱音の安眠を束縛していた。

(なんか前もこうやって眠れない夜を過ごした記憶があるな……あれは確か入学したてのとき……)




 朱音が清沢女学院の受験を決意したのは、小学五年生の春だった。

 いや、決意と言えるほどそれは大層なものではなかっただろう。

「あたしね、中学受験しようと思ってるの」

 いつものように放課後遊んでいたある日、突然明日香がそう言ったのだ。

「? 受験って、もっと大きくなってからするものじゃないの?」

「ううん。入学するのに試験を受けないといけない中学があるの! あたしはそこに行きたいんだ」

「へー、知らなかった! どこにあるの? 隣町とか?」

「東京!」

「と、東京⁉ あの電車に乗って何時間もかかる、あの東京⁉」

「そう!」

「じゃ、じゃあ明日香ちゃん、引っ越しちゃうの?」

「ううん、生徒たちだけが住む家みたいなところがあって、そこでみんな暮らすんだって! 大人っぽくて憧れちゃうな~」

「そ、そうなんだ……」

 当時年の離れた高校三年生の兄が受験勉強するのを見ていた朱音は、受験のことをなんとなく自分たちよりもずっと年を取った人がやらなくてはいけない辛く苦しい試練だと捉えていた。

 それにのみならず、中学生にして遠く離れた東京で親元を離れ暮らす生活に憧れる明日香が、朱音には突然どこか遠くに行ってしまったように感じられた。

 そして何より。

 当たり前のように続くと漠然と思っていた明日香との日々が数年後には終わってしまうという事実が、朱音をひどく動揺させた。

「じゃあ、中学になったら私たちバラバラになっちゃうね……」

 俯く朱音に対し、明日香はなおも希望と憧れに満ちた表情で言葉を発する。

「うーん、だったら朱音ちゃんも一緒に来ればいいんじゃない?」

「えっ⁉」

「そしたらまた一緒にいれるよ! 朱音ちゃん頭いいから大丈夫だって!」

「で、でも……」

「じゃあ今から朱音ちゃんのお母さんに受験したいって言いに行こうよ! 私も一緒に行ってあげるから!」

「ちょ、ちょっと待ってよー!」

 明日香に引っ張られるまま成り行きで受験することになって、明日香と同じ学校に行きたい一心で勉強して、明日香と一緒に清沢女学院に合格して。

 そこまでは良かった。


「じゃあね。これからしばらく会えなくなるけど、明日香ちゃんと一緒にちゃんと頑張るのよ」

「……うん」

「明日香ちゃん、朱音をお願いね」

「はい! 朱音ちゃん、行こ!」

 母親に励ましの言葉をもらった後、朱音は明日香に連れられて入学式の会場に入っていく。

 会場入り口で配っていた今日の予定が書かれた紙を見る限り、この後保護者と直接会う時間は設定されていないようだった。それは、この瞬間を境にこれから何か月も両親と会うことなく生活していかなければならないということを意味している。

 受験を決意したときから覚悟していたとはいえ、朱音の心からは一抹の不安は拭い去れなかったが、握っていた明日香の手の温もりが幾ばくかの心の安らぎを与えていることもまた事実だった。

 入学の式典は幸いなことに席が自由であったため、二人は並んで席に着く。

 ガチガチに緊張している朱音に明日香が「あの先生変な髪形~」とか「今噛んだよね」とかひそひそ声で話しかけてくるうちに、校長の祝辞や入学者代表の挨拶が終わり、やがて移動するよう教員から指示が出た。

 移動を指示された本校舎玄関先のホールではクラス分けの紙が貼り出されており、同じ制服を着た生徒が殺到していた。

「自分のクラスが分かったら早く教室に移動しなさーい」

 見張り役の教員が叫ぶ中、明日香と朱音は群衆の後ろから背伸びして懸命に自分の名前を探す。

「三原、三原……あっ、あった! 私B組! 朱音ちゃんは?」

 その声を聞きB組の名簿を見たが、そこには倉敷朱音の文字はなかった。

「あっ……」

「あー朱音ちゃんD組かー。一緒になれなかったね」

「うん……」

「まあ教室離れちゃってもお昼一緒に食べたりしようね! じゃあ私B組の方行くからこれで!」

 B組の教室の前で明日香と別れ、朱音は不安な心持のままD組の教室を目指した。


 結局それから数日間、明日香と朱音が話すことはなかった。

 それどころか、明日香以外の人間と話すことも数えられるほどだったと朱音は記憶している。

 もともと引っ込み思案な性格だった朱音は、当然ながら初対面の人間しかいないB組でうまく溶け込むことができずにいた。

 約束通り明日香と一緒に昼を食べようとD組の教室に赴くも、早くもクラスに溶け込み新しく友人を作って談笑している明日香の姿を見ると、とても声をかけることなどできなかった。

「うっ……うぅ……」

 不安、心細さ、寂しさ、羨ましさ、そして嫉妬。それらの感情がない混ぜになり、消灯時間が過ぎても眠れなかった。溢れ出る涙と吐き出すような嗚咽を押し殺すため、枕に顔を埋めその表面を濡らす。

「……んん……」

「ひっ……ごめんなさいごめんなさい……」

 ベッドの上から時折迷惑そうにルームメイトの声が聞こえてくる。名前と顔しか知らず碌に話したこともない彼女の威圧感のある寝息に、朱音は更に追い詰められていった。


 そんな日が何日か続いた結果、朱音の身体は寝不足によって確実に蝕まれていった。

 授業中に何度も意識が飛びそうになるが、授業中のピリピリした雰囲気がそれを許さない。

「———それじゃあ倉敷、次のところ読んで」

「は、はいっっ‼」

 唐突に国語教師に名前を呼ばれ、勢いのまま立ち上がったその瞬間。

「あ……れ……?」

 朱音の意識は深く暗い闇の底へと落ちていった。


 目が覚めると、目に写るのは白い天井だった。

 いつも二段ベッドの下にいる朱音にとってその光景は久しく感じられた。もっともベッドの天井すらも碌に見ずに泣いてばかりいる生活を送っていたけれども。

「あら、目が覚めた?」

 身体を起こすと養護教諭から優しく声をかけられた。

 窓の外を見やるとすっかり暗くなっている。

「ずいぶんと長い間眠っていたようだけれど、普段ちゃんと眠れている? 毎年この時期になると貴方みたいな人が多くなるのよ。慣れない寮生活が原因なんでしょうね。何か不安なことがあったら相談に乗るわよ」

「いえ……」

 確かに寮生活は不安材料の一つではあったが、原因がもっと別のところにあるということは朱音自身も自覚していた。しかしそれをここで相談して親でも呼ばれ、心配をかけてしまうことは朱音には耐えがたかった。

「もう七時よ。もうすぐ寮が閉まる時間だけど、帰る? それともここで泊まっていく?」

「大丈夫です、帰ります。ありがとうございました」

 手短に礼を言うと、朱音は荷物をまとめ保健室を出ていった。


 暗くなりかけた空の下、一人朱音は帰路についていた。もちろん自宅ではなく寮への。

 いっそこのまま一人で実家に帰りたいとすら思ったが、親に心配をかけるという懸念から養護教諭のへの相談を跳ね除けた朱音に今更そんなことはできなかった。無断で帰宅したりしたら、家族だけではなく学校側にも多大な迷惑をかける。騒ぎがおおきくなればいずれ明日香の耳にも届くだろう。

「そうなったら、明日香ちゃんは心配してくれるのかな……」

 自分がいなくなっても明日香は何も感じないのではないか。それどころか私の存在すらもう忘れてるのではないか。

 そんな嫌な想像が朱音の脳内を支配した矢先に。

「あっ、いた!」

「‼」

 ばったりと出くわしたのは、他でもない明日香だった。

 反射的に、朱音は踵を返し反対方向に走っていく。

「ちょ、ちょっと待ってよ!」

 振り返りすらせずに一目散に走るも、寝不足の朱音に長時間走ることは苦しく、すぐに明日香に追いつかれてしまった。

「なんで逃げるの⁉」

 明日香が朱音の手首を掴み、二人は立ち止まる。

「明日香ちゃんこそなんでここにいるの……」

「倒れたって寮で聞いて心配になったんだよ! ルームメイトの人に聞いてもまだ帰ってきてないみたいだったし……」

「なんでよ……」

「え?」

「なんで私のことなんか心配するの⁉ なんで私なんかのためにそこまでするの⁉ 明日香ちゃんはちゃんと学校馴染めてるし友達もいるし私なんかいなくても生きていけるでしょ‼ それなのに、私は……!」

 明日香がいないと生きていけない、とは言えなかった。

「そんなの決まってるじゃん。朱音ちゃんが私の友達だからだよ」

 慟哭する朱音に対し、明日香はこともなげに言い放った。

「う、うぅ……うえぇぇぇぇ……」

「ちょ、朱音ちゃん、どうしたの⁉ ほら、これで涙拭いて!」

 それがきっかけとなり、朱音は自分が思っていたことを全て吐露していた。

 両親のもとを離れて暮らすのが不安だったこと、クラスに馴染めず友達ができなかったこと、毎日泣いていて眠れなかったこと。そして、そんな自分と真逆の生活を送っている明日香が羨ましく、またどこか遠くに行ってしまったようで不安だったこと。

「……」

 ひとしきり朱音の告白を聞いた後、明日香はしばらく考え込んでいたが、ふと何かを思いついたように言った。

「じゃあさ、部屋変えてもらおっか」

「えっ?」

「今から寮帰って、先生に部屋変えてもらおう! 私と同じ部屋なら大丈夫でしょ!」

「ちょ、ちょっと待ってよー!」

 受験を決めたときのように、明日香は朱音を引っ張って走っていく。




(んで結局帰宅時刻を大幅に遅刻して寮監に大目玉食らったんだっけ……)

 当時を懐かしみながら、朱音は寝返りを打ってベッドの上を見やる。

 木製の天井の上には、そうして変わった二人目のルームメイトが寝ているはずだ。

(私もそろそろ寝ないとな……課題のことは明日考えればいいや)

 過去に思いを馳せ少し満足した朱音は、目を閉じ寝る態勢に入った。

 

「ん……朝……?」

 いつの間にか寝入っていた朱音は、自然に目を覚ます。

 そう自然に。

「待て、今何時だ⁉」

 枕元のスマホを見ると、全く止めた記憶がない複数のアラーム通知とともに、時刻が表示されていた。

 八時五十分。授業開始の十分前だ。

 ベッドの上からは、昨夜聞いたものと同じ寝息が相変わらず聞こえてきていた。

「明日香‼ やばい起きて‼」

 朱音ははしごを駆け上がり、ルームメイトを叩き起こす。




 ———4月9日 地球滅亡まであと387日

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