第6話 バウムクーヘン
芳賀に見送られたその後、そのまま藤木は件の店へ向かった。いつもであれば八時ちょうどくらいに着くのだが、今日はゆっくりと気持ちの整理をつけながら歩いたため、普段よりも十分程過ぎた頃の到着だった。
考え事をしていると、ついゆっくりとした足取りになる。周りを見て歩かなければならないのは重々承知なのだが、どうにも思考の海に引きずり込まれてしまうのだ。
色々と考えすぎなのは悪い癖だと周囲からもよく言われるのだが、最早これは性格の問題のようで何度試みても直らない。自信など欠片も持ち合わせていない藤木にとってはポジティブになるというのが恐ろしくもある。だがこのネガティブさ、自信の無さが普段の疲れや気落ちの原因になっていることは明らかなのだ。
何とかしなければとは思うのだが、自分で自分の首を絞めるようなことばかりをしてきた。歩く間ずっと考えこんでいたためだいぶ煮詰まり、何今更の事を考え込んでいるんだろうかと達観できた頃合いの入店となった。
そうだ、あれからもう今まで二度もここへ足を運んだのだ。きっと今日も同じように時間を過ごし、そうしてもとの平和な日常へ戻るのだろう。ああ、なんだかあれから短いような長いような時間が過ぎていったなあ……。
日常の過ぎ去る速さに感嘆の息を漏らしながら、今回はいつも飲んでいるカプチーノを注文した。いつもの席でいつもの場所で、とにかく心落ち着けたかった。
〇
一方その頃、数キロ程離れた道路上で猪端のミラが走る。運転するのは猪端、天井部分の手すりに掴まって助手席で怯えているのが佐々木だ。
「どこだ佐々木! あの駅の⁉西口⁉東口⁉」
「東‼ 東口‼ 猪端待って、頼むからもうちょっと落ち着いて運転してくれ!」
車中での話し合いの後、猪端へ粕谷が投げかけた最後の一言、
「いいよ、行ってらっしゃい! くれぐれも気をつけて、と伝えておいて! あとこっちは気にしないでいいからって伝えてね!」
という言葉を完全に右から左へスルーし、そして訳の分かっていない佐々木を拉致して向かうは件の駅近のカフェ「金雀枝珈琲店」。
ちなみに現在に至るまで話がどう動いているのかなど一切説明していない。それもそのはず、時間がないのはもちろんだが猪端は久方ぶりに燃えに燃えているのだ。なんとしても浮ついた話の無いこの生真面目一辺倒な同僚に春を! あとそんなほっとけない雰囲気の女の子とかめっちゃ気になる! そのただシンプルな好奇心が猪端を荒々しく突き動かしていた。
「お、あそこか!あそこの店か⁉ちっくしょ目の前路駐してんじゃねえか! 少し過ぎたとこ停めんぞ!」
「そうだけど! そこだけど! 頼むから落ち着いてくれ、そこ一時停止……ああぁあお巡りさんが見てる!」
「大丈夫バッチリ左右確認済みだ! こんな緊急時に事故起こして足止めされてる場合じゃないからな!」
「そうじゃない止まんなきゃいけないところだろそこは!!」
――もうぐっちゃぐちゃのてんやわんやだ。減速したとはいえ一時停止無視、お巡りさんが追いかけてくるのをミラーで確認し、ついに佐々木は思考を放棄した。
そんなこんなでたどり着いた、金雀枝珈琲店。佐々木は入口をくぐる頃にはぐったりとしていた。まるで二日分の仕事をこなしてきたかのような疲労感だ。意を決して入った店内のふわりと香るコーヒーの香りと、適度な音量のBGMがくたくたに疲れきった心によく染みた。
ちなみに猪端は、佐々木が車を降りて少しした頃追い付いたお巡りさんに話しかけられていた。当然だ。
——はて、そういえばあいつは何をどう言って職場を抜けてきたのか……無茶苦茶なことを言っていないだろうか。明日の出勤が怖い。というかその前に今日残っていた仕事はどうしよう、その前に何も言ってなかったがあいつは路上でずっと待っているつもりなんだろうか。何があいつをこうも突き動かすんだ、あのパッションはどこから湧いて出るんだ。
様々な方面にクエスチョンマークを浮かべつつも、とりあえずいつものカプチーノを注文した。食べるものはいい、とりあえず落ち着きたい。そう思い、カップを手にし、駄目元で店内に視線を巡らせた。
「……あっ」
あの壁際の隅の、コーヒーカップを手に一息ついている女性。いつもとなんだか雰囲気が違う感じを受けるが、あのひとは例の、あの!
やっと来れた初日にして会えるなんて! と嬉しくなり思わず一歩前に踏み出した。しかし、なんと声をかけたらいいんだろうか。この前はどうも? こんばんは、この前はすみませんでした? いやいや……? ここ数日ああでもないこうでもないと散々頭を悩ませてきたものが、いざという局面だからとぱっと出てきてくれるはずもない。思考が停止したままどんどん近づいてしまう。
〇
藤木は淹れたての温かいカプチーノを飲んで一息つく。やはり肌寒くなってきた頃の温かい飲み物は良い、一口飲むごとに体を強張らせていた余分な力が抜けていくのを感じた。これこそが至福のひととき……。ささやかだけど、最高のご褒美だなぁ、なんて。
落ち込んでいる時には耳に届かない心地よいBGMに聞き入り、周りの適度なざわつきに身を沈める。絡まり合った糸が解けていくような心地よさに身を浸す。と、その時。横で小さくきゅっと鳴った靴音を拾ったように思い、顔をあげた。
「……あっ」
この時ばかりは、周囲の話し声も、慎ましやかなBGMも。一瞬にして意識の外へ追いやられすべてが静まり返ったように感じた。
「……こ、こんばんは……。」
「こんばんは……こ、こちらご一緒しても……?」
「どうぞ。……お久しぶりになりますね。」
酷く緊張しているのか表情は硬いが、まぎれもなくあの時の人だ。この声、あのブラウンの目。向こうが緊張しているという状況がおかしくて、笑みがこぼれる。すると向こうもほっとしたようで、体の力を抜いてくれた。
「本当、お久しぶりです。そうだ、前回の約束守らせてください。食べ物、何がいいですか?」
「え、それは悪いですよ。きちんとお支払いしますから、注文しに行きましょう。」
「いえ、これは俺のエゴなんで……前回ご迷惑おかけしたので、おごらせてください。」
「……じゃあ、お言葉に甘えて。……厚切り焼きバアムでお願いします。」
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