第5話 焦燥 後編
一方佐々木は、かつてなく自分の運の悪さを恨めしく思い歯噛みする。それというのも、カフェで盛大にやらかしてから今日で一週間。毎日あの時間に通ってやると意気込んでいたのに、まだ一度もあの店に行けていないのだ。
予想されていたことではあるのだが、突然のシフト変更で生じる影響が予想以上に大きく、なかなか収集が付かない。佐々木個人の仕事というだけでも量があるというのに、いない間に仕事を肩代わりしてくれる同僚への引継ぎや質問への応答、先手を打って片付けておかなければならない仕事、お得意様への連絡等々。毎日がてんてこ舞いで、時間がいくらあっても足りない。
もちろん、心情としては今すぐにでも駆け付けたい。しかし時間は待ってはくれない。急遽入れられた連休はもうあと数日のところに迫っている。明日は休みだから、あと実質二日。日を追うごとに焦りが募り気持ちもぴりぴりとささくれ立ってきていた。
公私混同などするべきではないし、冷静にこなさなければと努めて心を落ち着けるようにしていたが、さすがに毎日顔を突き合わせる同僚には隠し通せるものではない。いつもの無駄話を振ってこなかったり、質問は必ず纏めて持ってきたりと気を使わせてしまっているのをひしひしと感じ、申し訳なさと不器用さで自分が情けなくなってくる。
ああ、早くあの店に行かないと。あの時は突然あんな申し出をして怖がらせてしまっただろうか。あれから彼女は少しでも元気を取り戻せているだろうか。悩みは何なんだろう。というかその前に、自分をずっと見ていた変質者がいたと思ったのではないだろうか。その点に関してはちょっと言い訳をさせて頂きたい。
それは差し置き、あの時の彼女の面影が気がかりで胸にしこりとなって残っている。今日も例のごとく行けなさそうだが明日は休みだ、明日こそ——。
そうして佐々木が業務に追われている中、少し離れた場所で話す人物が二人。
「なあ、佐々木の奴、なんで最近ずっと、あんなにおっかない顔してるんだ? 俺なんか言っちゃったっけ。それとも取らせた連休……まずかった?」
「いやあ俺らも何にも……。ここ一週間くらいですかね、めっちゃ張り切って仕事してると思いきやため息ついて考え込んで頭抱えて、また仕事してって。確かに月初一日から連休入れたから! とか言われたら誰でもバタつきますけど……本当にスケジュールが立て込んでるだけっすかねぇ。」
それにしても様子おかしいっすよね、彼女に手酷くフラれたんすかね! いたのかも知らないっすけど! などと話をするのは粕谷と猪端である。
粕谷は佐々木の上司にあたる人物だ。思いついたら即行動、しかし後々振り返ってみればもっと良い方法あったじゃんと頭を抱える事の多いのが玉に瑕な人である。部下の面倒見がよいことから人望が厚い。
もう一方猪端は佐々木の同期で、よく飲みに行ったり愚痴を言い合ったりと公私で仲の良い人物だ。周囲からは猪端と佐々木はタイプが真逆なのに珍しいよな、と不思議がられている。本人達からしてみれば案外気が合うというだけのことなのだが。
「ま、あんな変な状態で仕事されてもいつかミスしそうですし。あいつの部下もびくびくしちゃって可哀想でね。ちょっくら俺、聞いてきますよ。それでもし俺だけじゃカバーできなそうなら相談さしてください。」
「わかった、すまんな。俺じゃ前聞いた時も大丈夫ですの一点張りでな。頼んだ。」
「……ってなわけで猪端お悩み相談出張所ここに開店いたしまあす。最初のご相談者さま佐々木くん、何があったんですか洗いざらい吐き出しやがれ~。」
「……俺、そういう何も包み隠さないところ好きだよ、猪端……。」
慌ただしい仕事の合間の休憩を取っている間に突然肩に腕を回され車に拉致されたかと思えば、これである。包み隠さず話してくれる猪端は一緒にいて非常に気が楽だった。しかし続けて彼女にフラれたのか、そもそもいたのか彼女、というのは解せない。そんなものいないのは百も承知だろうに。
「……じゃあどうしたのさ? 別に言いたくないなら言わなくていい。ただ、明らかに最近の様子おかしいぞ。皆もとっくに気づいてる。少し距離置かれてんの流石にわかるだろ?」
「……ああ、もちろん。皆気を使ってくれてんのはわかってた。けど、あんま人に話せる内容じゃないんだ。上司に話せるようなことでもないし……。ああ、仕事の事じゃないぞ、仕事は確かに忙しいが休み入るまでになんとかなるし、今のところトラブルはない。」
向かい合って、改めて視線を合わせる。自然と猪端も佐々木も、前のめりになってひそひそ話をするような体勢になった。こいつはフットワークは軽いがそこそこ口が堅い。なにより信頼のおける同期だ。今の現状を鑑みれば、話してカバーしてもらうに越したことは無い……。そう自分に言い聞かせ、覚悟を決める。
「……絶対に他には言うなよ。真剣に悩んでるんだ、茶化すのも禁止。その上で、相談乗ってくれるか?」
「……もっちろん、任しておけよ。みっともないこともキツいことも全部吐きやがれ。」
そうして車に猪端達が立てこもって凡そ十分後。ざっくりとカフェでの一連の出来事を話す。しかし、溝木に関しては伏せておく。話がこんがらがるし、恋バナ好きなこいつがこの雰囲気を保てるわけがない。
社内では粕谷がどうかなーなどと気にしつつ淹れたてのお茶を啜っているその頃。
「……まっじか」
「おう。気持ち悪い野郎だと思うか? 犯罪者一歩手前の思考回路の奴だったのかと失望したか。」
「いやいや何もそこまで言ってないっしょ、なんでそうすぐにブッ飛んじゃうんだお前は。」
「だって時折見かける程度の初対面の女性に悩んでそうだからどうにかしてやりたいってどういう立場からもの言ってんだとか……周りに沢山人がいてキツイ物言いで拒否できないシチュエーションで迫った訳だろ、滅茶苦茶卑怯だろ。公衆の面前でプロポーズするようなものだ。
それに彼女にまた会えたら今度こそがっつり手貸そうとするぜ。もし向こうが繊細な弱気な人だったら? いやきっとあんな気疲れしてるんだ、その可能性は高い。相談乗りに行って、少しでも話してくれたらそのままガンガン進んじまう気がする。
でもそれを彼女が嫌がっていたら? 話したくないのに怖いから話さざるを得ないとか追い詰めていたら? 俺まじで思い込みで女性に詰め寄る変質者だぜ。そう思うとあんな事言ったのに本当に申し訳が立たねえんだわ。俺のエゴで怖い思いさせて。加えて店行こうとしてもこの残業続きで行けやしないだろ。もし仮に今彼女が店に来ていてくれているとしたらと思うと俺は……俺は……。」
「あああもう考えすぎだよお前は! そんなんなあ、店行って会えたら、先日はすみませんでしたって謝って、もしよかったら~って控えめに申し出るんだよ! 考えすぎてどろっどろだ。そこがお前の悪い癖だよな。」
佐々木は自分のしたことに頭を抱えているが猪端も頭を抱えたい気分だ。
何だよそういう事か、色恋沙汰なんてお前の苦手分野だろうに……そういうオイシイことは早く言えよな、俺は応援するし、協力だってしてやるのに。結局ぐるぐる煮詰めて自分で自分の首を絞めているとはなんという奴だ。しかももうすでに一週間が経っているだと。
さて、これからどうしてやるか、など改めて考えるまでもない。これは噂の彼女に会わずして解決しない案件だ。そしてそれは時間が空くほど泥沼化する。となれば答えは一つだ。……だが、あれ、ちょっと待て。
「あれ、佐々木。その店って、退社後に行ってたんだよな?」
「? ああ、そうだけど。話した通りだ。」
「と、言うことはだ。そっから向かってだといつも八時くらいからなわけ?」
「ああ、それくらいだな。」
「今何時かな?」
「丁度八時だな。」
「…………。」
「………………。」
これは非常に不味い。大変宜しくない。やるとするなら今すぐだ。粕谷も休憩室で待っている。
「……ちょっと待ってろ。絶対勝手に動くなよ。ここにいろよ。いいな?」
「俺は子どもか? わかったから、そんな念押しされずともこのまま待つよ。」
「おっけ、すぐ戻る。」
猪端は粕谷のもとへ走った。仕事へと戻る残業組の同僚たちをかいくぐり、お茶を啜る粕谷に詰め寄る。「おお、どうだった?」などと暢気に聞いてくる上司に、ひたと目を見据えて急きこんで言う。
「粕谷さん、佐々木の奴実家のバアチャンの体調悪いみたいなんで! 今すぐ送ってっていいすか!」
「ええ⁉」
わかったわかった、いってらっしゃい! 仕事のことは気にするなって言っておいて! と背中に言葉を受けながら支度をする。自分のと、佐々木のと。粕谷をだますのは少々良心が痛むが致し方ない。こちとら緊急事態なのだ。
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