第5話

 及川果歩の個展準備がはじまった。目標の作品数まで達しなかったが、果歩の顔は晴れ晴れとしていた。

 弟の健一との競作という絵も持ってきた。健一が描いた絵に果歩が色をつけたものと、果歩の描いた絵に健一が絵の具で描き殴ったような絵。破られたり、折られてしまった絵も同じように飾られた。

 約束の数に達していなかった。東吉春は果歩に声をかけた。

「この数でいいのかい。君の性格からいって、これじゃあ」

 果歩はにっこり笑った。

「ごめんなさい。また展示スペースの計画のやりなおしですね」

「いや、そんなことより」

 東陶冶が様子を隅でベンチに座って見守っていた。その笑顔をみて東吉春は、もうなにも言わなくなった。展示されていくものにアドバイスを加えて、閑散としないように努めた。

「及川さんの、あんな笑った顔、はじめて見た。あんな顔もするんだな」吉春は汗をぬぐった。

作品を手に取る。絵のタッチは変わらないが、色彩が変化している。より原色に近い色を大きく使っている。それはモチーフをはっきりさせる力を感じさせた。迫力がでている。

「これは最近の作品かい」

「はい、そうです。実は昨日の、といいますか今日の朝方にやっとできあがったものです。ギリギリでやっと出してもいいくらいの納得できるものができました」

 吉春は壁にとりあえず立てかけて眺める。

「これは真ん中の誰でも視界の入るところに飾ろう。メインというか」

 レイアウトがまた変更される。

「これは及川果歩の最高傑作といってもいい。タイトルはあるのかい」

 果歩はヘアバンドを頭からはずして答えた。

「明日の福島、です」

 果歩は言い終わると涙を落とした。

「うん。いいタイトルだ。まさに。希望に満ちている。明日の福島はこうでなくっちゃいけない」

 果歩は壁におでこをつけて、頭をかいた。

「なんか、今までの私っぽくない絵ですよね。それが最高傑作だなんて、なんか嬉しいようでもあって、なんか、複雑だな。私、ホラ、こういう絵でしか自分を表現できないといいますか、弟には偉そうなこと、たくさん言えるのですが、人に対してだと、うまく、なぜか言葉がでてこないんですよね」

 果歩は壁に拳骨を何度も打ちつけた。壁におでこをつけたまま。

「それは、及川さんが絵の中で成長をみせたってことだよ。ほら、陶冶爺さんだって笑っている。震災以降の絵はあきらかに変わっている。もう少し、このギャラリーを遅らせたほうが、もっといいものが並んだかもしれない」

 吉春がそう言うと、果歩はゆっくりと顔を向けた。

「そのときは、もう一度個展をよろしくお願いします」果歩は深く頭を下げた。

 吉春は声をあげて笑った。

「ちゃっかりしているなぁ。ま、そのときはまた陶冶爺さんの予選がいるからね。うちのギャラリーもこれでも地味に人気があるから競争が激しいんだよ」

 果歩のまぶたには涙が乗っていた。

「し、知っています。私たちの憧れのギャラリーです。子供の頃にみた高尾ゆかりさんの展示を見て以来から、私の夢はまさにここでした」

「高尾ゆかり。回顧展でも見たのかい」

「いえ、そのときは高尾ゆかりさんは高校の制服を着てあのテーブルに座って、サインをしていました。そのときはまだサインが決まっていないと言っていて、テスト答案に名前を書くみたいな字で書いていました。そう言われて、みんなで笑っていたのを覚えています」

 飾りつけをしていた吉春の手がとまる。

「それ、伝説の高尾ゆかり第一回展示会、大地は眠る展じゃないか。君、それ観に来たのかい」

 今、高尾ゆかりは東京でアートディレクターをしている。たまに雑誌で特集を組まれる人気ディレクターとして活躍している。当時の高尾ゆかりは美術にまったく関心がなかった。中学の文化祭をたまたま東陶冶が高尾ゆかりの絵を見て、直々にスカウトした。アトリエ東に展示会が開催され、それが地元で反響を呼んだ。美術に興味にない人もとりこにさせた。それほど高尾ゆかりの絵には迫力があって、人を魅了させた。

「私、あれを見て、絵を描くことに喜びを見出したんです。人が描いた絵を人が見て、いい顔しているのって。なんだろう、この絵は、とか、なんかわからないけど好きっていう感覚が絵にはあると思うんです。言葉で言い表せない理屈にならない感情は、絵を描く喜びであって、絵を見る喜びだと思うんです。子供の頃はよくわからなかったけど、今でもうまく言えませんが、そういうのが好きでよかったって思うんです」

 吉春は仕事の手がまったく止まっていて果歩の顔をずっと見ていた。

「なんか、かわったね。及川さんって、そんな喋る人だと思わなかったよ」

「えっ、なに。やばっ、恥ずかしい」

「いや、いいよ。すっごく、いいよ。これから、このギャラリーをきっかけに、及川さんはもっといい絵を描くよ。きっと」

 果歩は頭をぐしゃぐしゃにかいた。

「いや、今のギャラリーにいい絵を描かないとだめでしょう」

 吉春は再び手を動かし飾りつけをしはじめた。

「ここから羽ばたくような作家じゃないと、ここでの審査は通らないよ。ここで完成しちゃうような作家なら、ここでは展示会はさせない。福島でもいわきでも、どこか別のところでやってくれって。ここアトリエ東はそういうところだって」

 果歩はイスに座って窓の外を見ていた。

「及川さんの展示会でしょう。自分もやりなさいよ」

 奥からスタッフ女性の声がする。

 果歩は袖で目元を拭いて立ち上がった。落ちている資材をよけながら小走りに駆けた。

「はーい。ごめんなさい」軍手を手にはめて微笑んだ。


 及川果歩アトリエ東個展「ASHITA」開催された。

 及川果歩の描く絵は原色をベースにして、背景を淡い色合いをさせた多少どぎつい印象を残す雰囲気があるので決して万人受けする作風とはいえなかった。いわき駅前に配布されるチラシには大きく「明日の福島」が使われたが、その魅力はチラシじゃ伝わらないと東吉春は苦笑いを浮かべた。

 果歩はオープンして三十分、誰もこない入り口を受付の席に座りながらじっと見ていた。

「なんか、こんなヒマなもんなの」

「及川さん、友達とか呼んでいないの」

「いや、なんか照れくさくて」

「なんだよ、じゃあ初日こそ誰もこないよ。ま、二週間もあるんだ。気長にいこうよ」

 東吉春はそう言いながら、次の個展準備の書類に目を通し始めた。

 果歩は本も持ってきていない。あくびをひとつ。首をかしげて、まわりをみる。とても静かだ。

「東さん、あの日の午前中もこんなふうに静かだったと思いますか。私はあの日の三時からのことはよく覚えているんです。だけど、あの日の午前中は一体どんな時間がたっていたのかがイマイチ思い出せないんですよね。ニュージーランドで地震があって、その惨状がまだ少し新聞に載っていたのを読んでいたような気がするんです。もう今では日本の福島のことばかりなんですよね。もう忘れちゃっているんです。私が小さい頃あった阪神大震災もそのときまでもうすっかり忘れていて。なんか私の明日の福島も明日がずっと続いていけば、忘れられちゃうのかなって」

「及川さん」

「東さん、画用紙と、あとなにか書けるものマジックでも鉛筆でもボールペンでもいいからありますか。私はうまく物事を言い表すことが苦手なんですよね。文章もなにがいいたいのか結局わからないものになっていったりするので。だけど、絵なら描けるんですよね。今の今しかないこのわけのわからない感情はうまく言えないけど、絵にはできるような気がするんです」

 東吉春は立ち上がって奥の部屋に入っていった。

「やっぱり東京とか行かないとダメかな。みんな関係ない人は忘れていってしまうから」

 空は晴れていて青色がとても澄んでいる。真っ白い雲がゆっくり動いている。鳥や虫は空を飛んでいる。木には葉がついている。

果歩は画用紙と鉛筆を貸してもらった。なにも考えずに、とにかく描いてみることにした。なにかを考えてしまうと手が止まってしまう。構図のバランスはどうでもいい。思いつくままに描いてみる。

途中からなにを描いているのかわからなくなっていく。果歩は気にする様子もなかった。白い歯がこぼれる。目が自然と輝く。絵を描きながらニヤニヤしている自分に気付くことはあるけど、目が自然と輝くことはわかっていない。目が輝くと、人を美しくさせる。

果歩はもとから目鼻立ちが整っている。目は大きく深みのある瞳をつくっている。頬は高揚と染まっている。真剣でいながらリラックス状態をつくっている。

ふと果歩は手を止める。

「なに見ているんですか、東さん」

 果歩は東吉春を睨んだ。

「いや、君の姿に見とれちゃってね」

「なんですか、それは。私より、私の絵を見てくださいよ」

 果歩が笑っていると戸がノックされた。

 佐藤友恵だった。

 ガラス戸を覗き込んで果歩の様子を伺っている。果歩は首をかしげてドアまで歩いて、開けた。

「どうしたの。入ってきたらいいのに」

 友恵は急に笑顔で顔が崩れた。

「いかやん先輩、看板がクローズのままになっていますよ」

「ええっ」

 一番大きな声をあげたのは東吉春だった。

「及川さん、ドアの表札、返していないの」

「いや、そこはやったはず」

「違います、違います。外に出ている立て看板です。まだ大きく準備中クローズっていう絵が描いてあって」

「やばい、それしまうの忘れていた」

「なに、そんなの出していたの」

 及川は慌てて外に出た。そこには二十人以上集まってオープンを待っていた。ほとんどが大学生ぐらいの女性だが、中には高校生の制服を着ている女性もいるし、男性もまじっていた。

「ごめんなさーい。オープンです。お入りください。いらっしゃいませ」

 黄色い声があがる。果歩に握手を求める人もいる。

 後から宇野実由、井上咲、松田麻里、佐藤友恵が顔を見合わせながら入っていった。

 果歩は舌を上向きにだして頭をかいた。顔と一緒にめがねが傾いた。

 その姿をみて友恵は涙を落とした。

「懐かしい。いかやん先輩のその顔。みんながいた、あの頃みたい」

 口もとをおさえた手が震えた。

「なんか嘘みたいに戻ったみたい。なにもかも。戻った、みたい」

「そうだね。及川先輩もいろいろあったみたいだけど、強いよね。全部乗り越えているみたい。あんなふうに、戻ることができるなんて、かっこいいよね」

 実由は友恵の肩に手を置いて話した。友恵は実由の手に触れて「うん、うん」と頷いた。

 果歩は笑顔で来客を迎えていた。

 接客対応から果歩は抜け出すと外にいた友恵のところに歩いてきた。

「ごめんね、ちょっとほったらかしちゃってね」

「あ、うん。私たちちょっとお茶してくるから、また来ます」

「友恵ちゃん、今日何時までいられるの」

 友恵はえっと声をあげた。

 みんなの顔を見る。

 実由が満面の笑みを浮かべて言う。

「あっ友恵、考えていなかったでしょう。とりあえず来ちゃった感じじゃない。今日、私の家に泊まっていってよ。ねえ、明日ゆっくり帰れば。大事な用があれば別だけど」

 友恵は髪の毛に手でいじった。みんなが笑いだす。

「うん、じゃあそうしちゃおっかな。バイトもやってないし、明日は学校休んじゃおう。一日ぐらいいいかな」

「よし。今晩はゆっくり話そう」

 実由は友恵の背中を軽く叩いた。

「あっずるくない。私も友恵と話したいよ」

 麻里が口をとがらせる。

「いいよ。みんなで泊まりにおいでよ」

「えっ、いいの」

 麻里が口に手をやって声がでた。

「いいって。私もちょっと落ち込んでいたし、楽しくなりそうだし」

 実由は麻里の頭をなでた。

「なに、どうしたの」

「なんでもなーい」

 見ていた果歩が笑いを堪えていた。

「みんな、相変わらず仲がいいね。四時に一回閉めるから、その前ぐらいにもう一度来てくれないかな。今はちょっとみんなの相手ができそうもないから。ね、お願い。後でゆっくり観に来てよ。その頃にはお客さんもいくらか空いてくると思うし」

 友恵の頬をなでるような風が吹いた。

「いかやん先輩、それ高校の文化祭でも同じこと言っていた。今はいっぱいいるけど、文化祭の終わり間際においでって」

 友恵は笑顔のまま涙がこぼれた。

「友恵ちゃん、なんで泣いているの」

「あ、ごめんなさい。そのとき一緒にいたのが優子で。一緒に行ったのも優子だったから、思い出しちゃって。なんか、もう、優子の顔を思い出しただけで泣けてきちゃうんですよ。ほんと、ダメですね」

 実由が友恵の頭をなでて笑った。

「大丈夫、大丈夫だよ」

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