第3話

果歩は衣料品販売店でアルバイトをしている。一日中服をたたみ、レジ打ちをする。忙しく動き回れば、雑念を忘れられるのに、この日に限って暇だった。

 人の話をまともに聞くこともできずに、一日上の空だった。電話をしたところで健一は電話にでることができない。でないように教育しているからだ。

 店長に相談をして六時に一度帰ることに許可をもらった。一時間の猶予。

 車をとばして家に戻ってきた。家の鍵が開いている。果歩は持っていた鞄を玄関先に投げ捨てて靴を脱ぐのも忘れるほどに、家の中に入った。台所は食器や洗剤がぶちまけられて散らかっていた。果歩が描いた絵も汚れたり、破損していたりしているものもあった。中には真ん中から突き破られているものもあった。居間に入ると同じように洋服や本が散乱している。

「健一」

 トイレ、風呂、クローゼットと果歩は健一の名前を叫びながら扉を開けるが、どこにもいない。果歩の声だけが虚しく響く。

 床に落ちているタオルに足をとられて果歩は転んだ。

 呆然と座り込む。天井をみて首をかしげる。ひざを手でおさえていると心臓の鼓動がはやくなっていった。果歩は爪を噛んだ。

「お父さんも、お母さんも、健一も失っちゃう」

 果歩はよろめきながらトイレに駆け込むと吐いた。

 吐くものがなくなると、壁をつたって立ち上がって玄関に向かって歩き出した。

 頭をおさえながら、体は揺れていた。

 地震がおきた。地震がおこると果歩は手をすべらせて床に転げた。

「どこ行ったのよ、健一」

 床を這いずって外にでた。スニーカーをやっとの思いで履いて欄干にしがみつく。

 パトカーの音がどこかで鳴っている。外は真っ暗になっている。節電だとはいえ、暗すぎる。

 果歩はまっすぐに交番に向かった。ときどき立ち止まってまわりを見回すが、ため息を落とすと、また歩いた。

 交番には初老の警官がいた。日誌を書いているのだろうか、果歩が最初に声をかけても気付かなかった。

 果歩は戸を叩いてもう一度声を出した。

「すいません、いいですか」

 警官は手をとめて果歩をみあげた。警官の手からペンが落ちた。

「どう、しましたか。失礼だけど、すごい顔になって、いや、ひどく真っ青だ。髪もぐしゃぐしゃじゃないか。どうしました。ま、座りなさい」

 目をまるくした小太りの警官は立てかけてあったパイプ椅子を机の前で広げた。

 果歩は軽く頭を下げて座った。

「どう、なさいました」

 警官は書いていたものを閉じて、脇に置き、握った両手を机の上に置いた。

「あ、あの」果歩はひざの間に手を挟んで俯いてしまう。

 そのとき果歩の携帯電話が鳴る。

「あ、すいません。ちょっと会社からです」

「どうぞ。待っていますよ」

 果歩は立ち上がって、交番からはでずに警官の顔を何回か見ては電話を通話に切り替えた。

「あ、あの。弟が、ですね、そうです、幼稚園児の健一です。帰ったらいなくなっていまして。今警察にいるんです。はい、はい、すいません、連絡しなくて。そうです。はい、わかりません。ええ、はい。今、きたばかりです。わかりません。すいません。はい。本当に、申し訳ございません。そうさせていただきます。また、明日連絡します」

 果歩は深い息を吐いて携帯電話をポケットにしまった。

「すいません。電話、終りました」

「どうぞ、お座りになってください。あなたの電話の会話でだいたいの内容はわかりました。弟さんがいなくなったのですね」

「はい」果歩の口の中は乾ききっており、いまく喋れなくなっている。

「どこか心当たりのところは回りましたか。

例えば、弟さんの友達の家や、よく遊びに行くところなど」

 果歩は首を振った。

「では、一緒に行きましょうか。まずはあなたの家に行きましょう。幼稚園の連絡網があるでしょう」

 警官は立ちあがって果歩の肩に手を置いた。

 果歩は鼻をすすった。

「どうしよう。健一までいなくなったら、本当にひとりぼっちになっちゃう」

 警官は警官用コートを果歩に着せた。

「その格好だと寒いでしょう。健一君もどこかで寒い思いをしていると思います。もしかして、もう家に戻っているのかもしれません。とにかく、行きましょう」

 果歩はため息のように「すいません」と一言、ゆっくり立ち上がった。

 家まで果歩はずっと黙っていた。警官も無理にはなにも喋らなかった。白い吐息だけが漏れていた。

 アパートに着くと警官の期待虚しく誰もいなかった。部屋の荒れた様子を見て警官はつばを飲んだが、なにも言わなかった。

 果歩は電話受話器をとって壁に貼ってある連絡網をみる。指でなぞる。拳で額を叩く。

「うん」と一声あげるとプッシュした。果歩は胸に手をやって呼び出し音を聞く。

「はい。夜分すいません。及川健一の姉です。あの、弟がお宅にお伺いしていますでしょうか。そうですか。はい。いえ。あの、健一が行方不明なんです。今、警察の方にも来ていただいています。なにか、心当たりでもあればと思いまして。はい、すいません。あ、お願いします。あたってみます。はい。はい。ありがとうございます」

 受話器を電話に戻す。

 息を長く吐く。

「なにか、わかりましたか」

 警官が部屋を見回しながら声をかけた。

「いえ、だけど、健一の他の友達の家にこれから電話してみます。さきほど教えてもらいました」

 すうと息を吸うと、連絡網を指さしながら、再度電話をかける。

 警官は台所の椅子に腰かけて様子をみていた。

 果歩は何件か電話してみたが健一はそこにはいなかった。自分の携帯番号を伝える。連絡網でまわしてくれるらしい。最後に受話器を置くと、その手は離れなかった。過呼吸気味になると、警官は立ち上がって、トランシーバーでパトカーを呼んだ。

「大丈夫、弟さんはきっと見つかる。最悪なことがあったら、すぐに連絡が入るはずだ。それはまだない。どこかで、きっと、ひとりで怯えているだけだと思う」

 警官は果歩の背中に語りかけるが、果歩は同じ姿勢のまま動けなくなっていた。

 パトカーがアパート前についた。閑静な住宅街にそのサイレンはとても響く。

 大家の鈴木敏子が家から出てきた。

「どうしたんですか及川さん」

 その声に果歩は電気が入ったように背中を震わせた。

「ちょっと、どなたかわかりませんが、この方は今憔悴しきっています。あまり過敏な言動は謹んで頂けますか」

 警官は果歩の前に立って敏子に説明をした。

 敏子は警官をどかして言った。

「私はこのアパートの大家です。なんですか、このひどい有様は。ちゃんと綺麗にできるんでしょうね。ちょっと、及川さん」

 敏子は大きな声でまくしたてた。

 果歩はうつろな目で敏子を見た。敏子は果歩をみてなにも言えなくなった。

 警官に肩を支えてもらってパトカーに果歩は向かった。

「及川さん」

 大きな声で叫びながら走ってくる女性がいた。果歩は目をこらすと、横に小さな影がふたつ見える。近づいてくるにつれはっきりした。

 ひとりは健一だった。

 果歩は「はっ」と息が漏れると、腰が抜けた。そのまま意識を失った。警官が素早く抱きかかえたためケガにはならなかったが果歩はそのままパトカーに乗せられた。

 走ってきた女性と子供ふたりも一緒にパトカーに乗った。健一は泣きじゃくっていた。

 果歩はそのまま病院に運ばれた。寝息をたてていた。異変はないと診断された。医者は腰を揉んで湿布薬を貼った。

 待合室で健一はしゃっくりが止められず、その度に涙をこぼした。一緒にいた男の子は背中をさすっている。

 警官が女性に事情を聞いた。

 果歩からの電話の後、息子、祐一と健一を探そうと外へ出た。

 祐一は健一と仲が良かった。祐一は健一の行きそうなところをみっつ知っていると言っていた。イオンの駐車場前、いわき駅改札口、アリオスカフェ前。

 その一つ目でみつけた。イオンの駐車場に健一はいた。駐車場入り口前で膝を抱えて空を見ていたところを発見された。体を震わせながら、時々出入りする車を見ていた。そのときの健一は泣いていなかった。

 果歩はやがて眠っていた目が開いた。

 健一は祐一の母親から一緒に家で待っていようと言われても頑なに拒否をした。自分の姉が目を覚ますのを、握りこぶしをつくって膝の上に乗せて、うつむいたままイスに座って待っていた。

 声がかかると健一は飛び上がった。呼びに来た看護婦さんを振り切って走り出す。入院室のドアを開けて駆け込む。

「おねえちゃあん」

 果歩は健一を見ると寝返りをうって、そっぽを向いた。

「お前なんか死ね。バカ」

 健一は激しく泣いた。

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