第2話

及川果歩は家に帰ると絵筆はとらずにパソコンに向かっていた。

「これから保育園に弟を迎えに行かないといけない。創作する集中ができない。たかが二十分でなにができるのか。アーティストはデリケートなのだ。そう簡単にスイッチは入ってくれない。入ったものを一度切ると、もうその日はなかなか戻らない。ものすごいエネルギーを使う。震災からもう一生分のエネルギーを一気に使い果たした気がする。今日は個展の打ち合わせを行った。もう日があまりない。最悪間に合わなくても、大学で創作したものや、高校、いや中学のものでも出して体制を繕えば大丈夫だと思う。今日は、もう無理。」

 更新ボタンを押すと、キーボードにおでこを落とした。

「なにやってるんだろう。私」

 本棚の上に乗せられた写真たてが目に入る。及川果歩と宇野実由が一緒に映った写真。そのバックには実由の大きな絵が飾られていた。

細かい曼荼羅模様に似た細かさでありながら遠めから見てもダイナミック。

「実由ちゃん、これってどれぐらいで仕上げたんだろう。今日のもみんな新作だったな。震災から時間がなかったのは私より実由ちゃんなのに」

 膝下には仕上げた三枚の絵。それだって、手をもう少し加えられそうなのに、それを完成としてしまう。

 髪をぐしゃぐしゃにしてしまう。

「だって、できないんだ。これが私の味なんだって。あ、はやいけど行くか」

 ジャンパーをはおって、天井に息を吐く。

「巷のいわれる、かわいいコートでも買ったほうがいいのかな。ま、いいか。ガラでもないし」

 鼻で笑う。

「独り言が多いな。もう病み入ったな」

 履き潰したスニーカーを履き、アパートをでる。車に乗ると手をこする。両手に息を吹きかける。

「寒くなる前に行かないと。その前に銀行に寄っていくか」

 痩せているため暖房はいつも温度高めにしておかないといけないのだが、あまり高いと今度は眠くなってしまう。徹夜はしないが、寝不足はいつものことで、昼間に急に眠気に襲われることがある。

 銀行では振込みを確認する。入っていない。うなだれるが気を持ち直して、車を再び走らせて保育園に向かった。

 保育園では丁度送り迎えの時間になっていた。母親に抱きつく園児や、はしゃいでいる園児。その中に健一はいない。

 保育士に挨拶して窓を覗く。

 健一は部屋の隅っこで積み木を積み立てている。みっつ以上乗せられなくて、崩れてはまた積みなおす。三角や丸いものではなく、どれも真四角のいびつな形のひとつない、ごく普通な積み木。

 果歩は鼻で笑う。

「アイツ、どんな気持ちなんだろう」

 保育士に一礼して、健一を呼ぶ。

 健一は顔をうつむかせたまま果歩に向ける。

「健一くん、最近特に気持ちが落ち込んでいるのか、誰ともうまく話せなくなっているようですね。ずっとああやって積み木と向き合っています」

 果歩の後ろで声がかかる。果歩は振り向いて保育士を睨んだ。果歩の目は横に鋭く大きいので大抵睨まれると相手は尻込みする。当然保育士は尻込みした。

 もう一度健一を呼ぶ。健一が積み木をきちんとゆっくり箱にしまい、箱を所定の位置に戻す。帽子をかぶり上着とかばんを手に持ち歩いてくる。

 果歩はその様子を両手組んで黙って見ていた。動作の動きが遅いのを深呼吸しながら待っていた。前はあまりの遅さに怒鳴ってしまい、健一が泣き出しては動かなくなり、余計に時間がかかってしまったことがあるので、果歩はそれから深呼吸して待つことにしている。

 健一が立ち上がってから果歩の八回目の深呼吸でやっと手の届く位置まで歩いてきた。

 果歩は帽子の上から頭をなでた。健一は手をあげて果歩の手に触れる。果歩はほんのり温かい小さな手をにぎった。

 保育士は果歩と歳がさほど変わらないようだった。すれ違い様、再び睨んだ。

 果歩が手を離すと、健一は車に駆けていく。助手席のドアで待つ。果歩が鍵を開けてやるとドアを開けて素早く乗り込む。前に慌てすぎて足をドアにはさんだことがあるのに、もう忘れてしまっているかのようだ。果歩も運転席に乗る。

 車を発車させると健一は音楽をかける。保育園のお遊戯で習う歌だ。

 健一は大きな声で歌う。

 果歩は歌がとぎれたところで話しかけた。

「ねえ、健一。健一は保育園楽しいの」

 次の歌が始まっても健一は黙ってしまった。

「うん。楽しいよ」

 健一は膝に鞄を叩いてリズムをとってまた歌いだした。

「楽しいって意味知っているの」果歩が鼻で笑う。

 健一は歌うのをやめて首を垂れた。黙ってしまって手を畳んだ。こういうときに果歩はなにも言えない。黙って運転する。

 健一はうつむいて黙ったまま、肩を震わせて嗚咽していた。

「は。男のくせに」

 果歩は健一の頭を平手で叩いた。すると健一は火の出るように泣き出した。車の中が泣き声の轟音でいっぱいになる。耳をつんざく。

「禁煙していなかったらタバコ吸いたいところだな」

 足をばたつかせて、暴れまくる。両手を振り回して頭を振る。その体はバランスを崩してシートの下へ落っこちる。頭を何度かどこかしこにぶつけて、またさらに泣き出す。シート下でも体を激しく動かし、大声をあげる。

 アパート前に到着した。

 健一は暴れ疲れてしゃっくりをしながら、うずくまっていた。

「ほら、着いたよ。降りなよ。自分で開けられるでしょ」

「お姉ちゃん、嫌い」

 健一はシートの下からか細い声を上げる。

 果歩はドアを開けて車から出る。

「勝手にしなよ。いつまでもそこにいな。そのうち暗くなって、お腹空いても知らないからね」

 ドアを閉めると果歩は鞄を背負って歩き出した。

 車からドアノブをひっかく音がする。ドアが開くと健一が転げ落ちた。

「バカ~バカああ」

 果歩が車の鍵をかけていると健一は横切ってアパートに向かって走る。自分の持っている鍵で家のドアを開ける。

「あ、こら、待て」

 果歩も走った。

 果歩が家に入ると、健一は布団を押入れから引っ張り出して中に入って寝ていた。

 果歩は見届けると笑いがこみあげてきた。台所に入ると野菜を冷蔵庫からとってまな板に乗せると、包丁を取った。

 野菜を鍋で炒めて、煮込む。

「仕方ない、今日はこれでいくか」

 果歩は王子様カレールーを鍋の中に入れる。

 甘い匂いが部屋の中に充満する。

 果歩が味見する。

「げえ~、なんだこれ。チョコレートかよ」

 排水溝に吐き出す。

「健一の後、作り直しだな」

 健一の分のカレーを皿によそうと、健一を呼んだ。

 健一は足をバタつかせている。布団を叩いている。

「ほら、いらないのかい。いらないなら捨てちゃうよ。せっかくつくったのに」

「いーるー」

 果歩はため息をつく。健一に近づく。

「ほら、姉ちゃんが悪かったよ。言い過ぎた。ごめんね。ほら、健一の好きなカレーだよ。食べてから、寝な」

 果歩は健一用の小さなちゃぶ台を組み立てる。カレーをその上に乗せると、また台所に戻った。

 果歩は鍋をもうひとつとって、カレーを作り直した。

 カレーをつくりおえると自分の皿にカレーをよそって、健一のいる部屋に入った。

 健一はカレーを半分食べただけで、布団にもぐりこんでいた。

「こら、またあんたはこれだけしか食べていない」

 果歩が布団をはぐと健一は飛び起きて、果歩の脇を潜り抜けて表に向かって走り出した。

「あ、コラ」

 健一は靴を履いてドアに手をかけると振り向いて叫んだ。

「お姉ちゃんのカレーは美味しくない。お母さんのカレーが食べたいよお」

 健一は外に飛び出した。

 果歩は立ち尽くして動けなかった。

 健一の足音が聞こえなくなると、果歩は腰を落として座り込んだ。カレーの湯気が横でゆらめいている。

 そのまま横になって天井を見つめた。手で顔を覆うと、力が抜けたかのように、体すべてが床についた。

「どうせ、また腹空かせて帰ってくるだろう。外も暗いし、どこに行こうっていうんだ、あのバカ」

 果歩はゆっくり起き上がると、カレーを口にする。

「どこが違うっていうんだ、バカ。うまいじゃないか」

「ばか」

 果歩は壁にもたれかかった。

「私もこんなことしてる場合じゃない。仕事も辞めて、絵を描いても中途半端、弟にしか強くあたれなくて、やつあたりして、泣かしてしまう」

 絨毯に手をつくとホコリに触れてしまう。震災以来、掃除機かけていない。

 果歩はテーブルに手をついて立ち上がる。

「どれ、健一でも探しに行くか」

 果歩が外にでて歩いていくと、電灯の下で座っている健一が見えた。

「ほら、風邪ひくよ。姉ちゃんが背負ってあげるから。ほら、立って」

 健一は赤い目をこする。

「カレーまだ残ってるの」

「あるよ。温めなおすから。だから立って」

 果歩は健一を背負うと体が反って、空が見えた。星がいくつか見えた。

「光る星はいくつもある。見上げなきゃ見えない星もある。気にすることは、ないかな」


 健一が寝静まると果歩は台所で小さな電気ストーブをつけて、筆を握った。カラーマジックも手にとる。果歩のスタイルだ。アイデアが湧くと、作品をつくりながらラフスケッチも同時に描いていく。

中学生の美術の授業で自分の課題作品が納得いかなくて、学校に遅くまで残って、それでも完成できず、家に持ち帰り、登校拒否までして完成させたことがある。それでも教師からは、さほど評価はされなかった。

 それでも果歩は満足だった。あのときから果歩は創作活動に魅せられた。誰かの影響を受けたからではなく、果歩は自分で勝手に覚醒した。その日の夜は興奮してまた眠れなかった。大学ノートに一晩中「覚醒した! 覚醒した! 覚醒した!」と大きく何度も書きなぐった。覚醒したと何度も書いて、眠れるわけがなかった。

 果歩は中学のことを思い出す。目が右左、上下に激しく動く。歯は食いしばって、顎が痙攣してしまう。

 筆が力強い音を立てる。額にうっすらと汗がにじむ。ストーブのスイッチを切る。羽織っていた上着も脱ぐ。

 ひとつの作品ができあがる。いつもなら、それで終わって寝てしまうところが、次の作品にとりかかる。次の作品にとりかかりながらも、前の作品を再び戻して手を加えた。

「仕事も辞めた、弟にしかやつあたりできない。それで、これも中途半端にしたら、私はなんのために生まれてきたんだ。バカはどっちだ。この今の生活ができるのは今のうちだけだ。ううううううううう」

 窓から朝日が差し込むと果歩は立ち上がって今日描いた作品群をみる。描き殴ったものや、スケッチブックから切り離したものまで散乱していた。

 立ちくらみがして一度座ったが、また立ち上がるとスケッチブックをとった。お腹で支えて立ったまま絵を描きだした。それは宇野実由の絵を記憶の中から手繰り寄せて描いた絵。果歩は実由の絵を模写し終わると、そのまま膝をついて倒れて寝てしまった。

 最後に描いた絵を抱きしめながら。


 翌朝、健一に揺さぶられて果歩は目が覚めた。果歩は飛び起きた。転がっている時計を手にとった。八時をすでに回っている。

「ヤバイ。遅刻だ」

 果歩は昨晩作り置きしていた料理を適当に小さな弁当箱につめる。

 変な体勢で寝てしまったため、髪の毛が捻じ曲がり突っ立っているが、時間がない。昨日着た服をとって着替える。頬に何本か油絵の具がついてしまっている。落とす時間もない。

「健一、着替えたの。車に乗って」

「お姉ちゃん、朝ご飯は」

「途中のコンビニでおにぎり買うから。おかかでいいね」

「嫌だ」

「なに」

 健一が果歩の手を振りほどいた。

「なにしているの」

「幼稚園行かない。行きたくない」

 健一は床を何度も蹴る。

「また、あんたはこんなときに。今日は行きなさい。明日からは、また話聞くから。もう時間ないんだから」

「嫌だ。嫌だ。嫌だ。こんなんじゃ行きたくないよ。お姉ちゃん嫌い。幼稚園嫌い。みんな嫌い。バカ、バカ、バカ」

 健一は大声で泣き出した。暴れると手をガラス戸にぶつけ、頭をテーブルの角にぶつけ、さらに泣き出した。転んでは、手足を激しく動かしている。

 果歩は持っていた健一の弁当箱を床に叩きつけた。

「知るか、もう。勝手に泣いていろ。姉ちゃん、もう幼稚園送っていかない。もうずっと泣いていろ」

 果歩は両手で顔を覆って、へたりこむ。健一は泣き止まずに暴れている。

 インターフォンが鳴る。果歩は腕すらあがらない。何度もインターフォンが鳴るとようやく顔をあげて立ち上がる。インターフォンは鳴り続ける。

 ドアを開けると向かいに住んでいる大家の奥さん、鈴木敏子だった。

「ちょっと、健ちゃん泣いているけど大丈夫なの。どうしたの」

 果歩は頭をかく。

「はあ、反抗期だと思いますが」

 敏子はドアを開けて中の様子をみる。

「ちょ、ちょっと、なんですか」

「まさかアナタ、虐待とかしていないでしょうね」

「してませんから。なんですか」

 果歩が手をあげると、敏子は手をとった。

「最悪な事態になったら結局、責任は近所だってことになるんですよ。声が聞こえていたのに無責任だってね。最近のニュース、アナタも見ているでしょう」

 敏子はサンダルを脱いで家にあがる。

「勝手に部屋に入らないでくださいよ」

 突き飛ばされながらも果歩は声をあげる。

「なにを言っているの。私は大家なのよ。部屋に入る権利はあるわ」

「なに言っているんだ」

 果歩の叫びを無視して敏子は健一に両手を広げる。

「あらあら健ちゃん、どうしたの。大丈夫」

 健一は抱えられそうになる腕の間から果歩の顔が見えた。健一は敏子の手をどかして、しゃっくりが止まらないまま、果歩の下へ走っていった。果歩の手が健一の頭に触れると、健一は果歩の腰を力いっぱい抱きしめた。

 敏子の頬に深い皺ができた。長い息を吐くと、床につけていた足のホコリを叩いて落とした。

「仲がいい姉と弟だこと。それと今月の家賃は二十五日までにお願いね」

「ちょっと待ってください。お給料が入るのが二十五日なので、待ってもらえませんか」

「こっちも震災で修復しないところがたくさんあって入用なのよ。ちょっとぐらい壊れたぐらいじゃ申請は降りないから、わかってもらえますか」

 口調はゆっくりとしていたが、敏子は果歩を睨みっぱなしだった。

 敏子は部屋を出るとき、台所に立てかけてあった果歩の描いた絵を見ると鼻で笑った。

 果歩は奥歯を食いしばった。かがんで健一の肩を抱いた。

「健一、姉ちゃんこれから仕事に行かなくちゃいけないんだ。だから健一は保育園に行きたくないんだったら、この部屋でおとなしく待っていなさいよ。お腹が空いたら、冷蔵庫の中からでもお菓子でも好きなだけ食べていいから。ただし、外には出ちゃだめだぞ。誰も助けてくれないからね。姉ちゃんもいないし。わかった」

 果歩は健一の両肩をつかんで、ゆさぶった。健一はもう涙が止まっている目をこすって果歩の話を聞いていた。

「お母さんはいつ帰ってくるの」

 果歩は両手に力を入れた。首を落として床を見つめた。くっ、と声を出して再び健一の顔を見た。

「わからない。わからないから、待っていなさい。わかったね。外に出ちゃいけないよ」

 時計をみる。今日の出勤は幸い午後からだった。しかしあと一時間で家をでなければならない。

 果歩はシャワーで髪だけを洗い、ドライヤーで寝癖を直す。化粧を急ぎでしていく。果歩は元から目鼻立ちがいいので、濃い化粧をするとケバくなる。薄めにしても十分に映える。その上黒ブチの大きなめがねをすれば、さほど化粧はいらない。頬と口紅リップさえしておけばいい。

 家を出る前に健一にもう一度念を押す。

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