優しい凪

第1話

 二○一一年四月一二日午前一一時。いわき行き常磐線。佐藤友恵はiPodに入っているラッドウィンプス「絶体絶命」を聴きながら涙をひとすじ頬通した。

 窓の外を見ると晴れていていい天気。目を閉じるといろんなことを思い出す。左手に切符、右手にiPodを握り締める。

 友恵は鞄から手紙をとりだす。中には写真も同封されているが写真は意識して見ないように封筒にしまう。手紙を読みながら場所と時間を確認する。腕時計をみる。

 一息つく。

「よし」

 同じ車両に誰も乗っていなかったので声を出してみた。

 正午にいわき駅に着いた。空は晴れていて暖かかった。高校生の男の子と女の子がはしゃいでいたり、走り回っている。

 友恵はブーツの足音をたてながら駅から階段を下りる。

「久しぶりに来たなぁ。なにも変わらない」

 大きな深呼吸を歩きながら一度。

何回もリピートもしているアルバム「絶体絶命」の曲が「君と羊と青」に変った。発売日からずっとヘビーローテーションで聴いている。他にも好きなアーティストはいる。バンプオブチキン、ミスチル、いきものがかり、AKB48も聴くけど、今日まではラッドウィンプス「絶体絶命」を聴き続けた。

道路を歩くと、ところどころ崩れたままになっている。舗装工事もあちこちで行っている。足元に気をつけながら歩く。途中大型スーパーも営業を行っている。店内は照明をできるだけ抑えているため若干の薄暗さはあるけど従業員は変らない接客態度を示してくれた。

路地を抜けてたどり着いたお店。

ここに来たのは一年ぶりだった。そう、あのときは桜が散ろうとしていた時期。

「あとりえ東」

店には小さな明かりが灯っていた。人影も見える。門から歩いていこうとするけど、唇が震えだしてきた。鼻がつんと痛む。iPodの電源を切ってイヤホンコードをまるめて鞄の中にしまう。鞄の中に手を入れたついでにハンカチを取り出す。進んだ所から引き返して、門の影まで駆け戻る。

「友恵じゃなあーい」声がした。

 松田麻里が店から出てきた。

「ばかばかばか」友恵は急いでハンカチを鞄に仕舞う。

 咳払いをひとつして歩き出す。

「久しぶり」

「なにしているのよ。はやく来なよ」体をとにかく触る。

 ドアを開けると大きな絵の展示物が並び、横からテーブルに置かれてあるコーヒーの匂いがしている。そして歓声が湧く。

「久しぶり、友恵」「友恵、元気だった」黄色い声が弾ける。

「よく、来たね。遠いところから」

 宇野実由がことさら大きな絵を抱えて柱の裏から顔を出した。宇野実由だけが作業着みたいな上着を着て軍手をしていた。今日の個展主催者だ。

 あとりえ東は喫茶店を運営しているが、低料金で個展貸し出しを行っている。未来アーティスト育成目的で地元新聞にも載るので界隈では知る人も多い。

 実由は中学、高校と美術部だったわけではない。ずっとバスケ部に所属していたし、美術成績もさほど良かったわけではない。だけど絵を描くのは好きだった。本当に仲のいい友達は知っていたが、とくに実由は自己主張して絵を描いているわけではなかったので知る人は少なかった。

 あとりえ東のオーナー、東陶冶は還暦を越えた好々爺で今日もカウンターでただ笑みを絶やさずにそこにいる。店の仕事はすでにほぼ全権息子、東吉春に任せている。ただ、個展許可は陶冶オーナーが最後は決めていた。頼まれた順番に決めることはなかった。陶冶オーナーにどのような基準があるかは誰もわからない。気分次第じゃないかと東吉春は傍でいつも笑っている。つられて陶冶オーナーもにこやかに笑う。

 実由は本来なら三月下旬に個展開催が決まっていたが、一度白紙になり、今にこぎつけた。決してはしゃぐことなく、今も展示物位置を替えたり、観に来てくれた人にコーヒーを運んだり、もてなしていた。

 佐藤友恵は柱をひとまわり宇野実由の絵をみると向かいのテーブルに座っている人をみて飛び上がった。

「いかやん先輩じゃないですかああああ」

 テーブルにタックルするかの勢いでいかやんと呼ばれた及川果歩に飛び込んだ。

「あ、ああ。久しぶり」

 友恵が手をついたテーブルには契約書があった。その目を横に向けると東吉春が座っていた。

「ってことは」友恵は目を大きく見開いた。

「う、うん。やっと決まったよ」

 及川果歩は引きつりながら笑った。

「わー、おめでとうございます」

 友恵は果歩の手をとって跳ねた。果歩は友恵が手を離すまで自由にさせた。手が離れると「まだ決まっただけだし。これから作品も作っていかなければならないから大変だよ」と声のトーンを落とした。

「でもいかやん先輩ずっとここの個展に憧れていたじゃないですか。やっと念願叶ってよかったですね」

「あ、うん。友恵ちゃん、あとちょっとで打ち合わせ終わるから、ちょっと待ってね」と及川果歩は手で友恵を制した。

「なんか偶然たまたまですけど、先に私が個展やっちゃってごめんなさい」

 宇野実由が果歩のコーヒーのおかわりを持ってきて、頭を下げた。

「宇野さんは悪くないよ。予定通りだし。私には今まで勇気が足りなかっただけだから、気にしないで」

 及川果歩は大げさに首と両手を横に振る。

「ねえ、実由、友恵にあれ見せてあげてよ」

 井上咲がコーヒーから口を離すとそう言った。

「うん。友恵、こっち来て」実由が手招きをする。

「あ、うん」友恵が返事をして実由のいるところへ歩く。その後に井上咲と松田麻里がついていく。

「さっき、友恵こっち回って来たけどスルーしちゃうんだもんな。寂しかったよ」実由はディーゼルに置かれた一メートル四方のやや大きめな絵を友恵に向けた。

 ひとりの少女の肖像画だった。肖像画といっても顔全体をくしゃくしゃにしたような笑った顔が描かれていた。バックは淡いピンクがオーラのようにキラキラ光っていた。

「優子」

 友恵の肩がビクリと動いた。目頭が熱くなる。両手で鼻をおさえる。

「みんなに見せてあげたくて。あれから、がんばって描いたんだ。描くの、やっぱり時間がかかってさ」

 タイトルは「御神本優子」と記されていた。

「うん、優子って笑うとこんなぶっさいくな顔になるよね。普段、美人なくせにさ」

 唇が痙攣している。

「その手にのるかー」友恵は実由の背中を叩いた。

 井上咲と松田麻里は顔を見合わせた。

「おかしいなあ、絶対大泣きすると思ったのに」

 麻里は友恵の顔を覗きこむ。

「ばっかじゃないの」

 友恵は笑った。するとみんなも笑った。笑えば泣かないですむ。

「友恵だけだよ、この絵を見て泣かなかったの。強く、なったんだね」

 実由が絵を傾けて見ながら言った。

「なにそれ、私だけ冷たい人みたいじゃん。それより、久しぶりだから話そうよ。私にもコーヒー頂戴」

「うん、わかった」実由がコーヒーをとりにいく。

 及川果歩が書類をクリアケースに丁寧に入れて鞄にしまった。携帯電話のメールの有無を確認すると立ち上がった。

「じゃあ、私行くね」

 コーヒーをうけとった友恵が「ええー」と声を出す。

「もう少しいてくださいよ。いかやん先輩も久しぶりじゃないですか」友恵は果歩のそでをひっぱった。

「うん。だけど弟の迎えにも行かなくちゃいけないから。ごめんね。友恵ちゃんメアド変わってないでしょう、個展の日程が決まったらまた連絡するね」

「はい。いかやん先輩の個展も必ず来ます」

 友恵は立ち上がって敬礼ポーズをした。

「ふふ、友恵ちゃんは変わらず元気だね」

 そう言うと果歩は店を出た。

「ああ、行っちゃった。って、今何時。ああ、まだ余裕か。私も今日帰ろうかと思うんだよね」

 友恵はコーヒーをすすりながら窓の外、バンに乗り込む及川果歩を見ていた。

「えっ、明日も休めるんじゃないの」

 実由が脚立に乗り、絵をもうひとつたて掛けながら、上から声をあげる。

「ううーん、やっぱり地震もまだあるから、やっぱり不安なんだよね。いや、東京だってまだ地震あるしさ」

「放射能も心配だしね」

「放射能は、うん。特に、今は。だって、みんなここでがんばっているし。あまり、そういうことは言いたくないな」

 友恵は声を落とした。みんなも黙った。

 脚立をかついでいた実由は友恵の肩に手を置いた。

「友恵、どうする。行ってみる」

 実由はきれいにウィンクをする。

「もう明日の準備も終わったし。まだ、時間大丈夫なんでしょう。みんなも行こうよ」

 友恵がツバを飲み込み、頷く。

「どこに行くの」金子麻里が顔をあげる。

「平豊間」

「そこって」

「そう、あの海岸。友恵だけ、まだあれから行っていないから。みんなも、また行くでしょう」

 みんなが立ち上がる。

「行こうよ」友恵が声をあげる。

 みんなそれぞれコーヒーカップを片付けて、陶冶オーナーに挨拶する。

「気をつけて」陶冶オーナーは微笑む。

「はい。今日はありがとうございました。また明日もよろしくお願いします」

 実由は深々と頭を下げた。

 実由の軽自動車に四人が乗り込んだ。多少狭いが乗れないことはない。井上がやや太めの体で窮屈そうだけど、大丈夫そうだ。

「もう、咲ちゃんったら」松田麻里が井上咲の肩を押す。

「なによ」咲は窓にへばりつく。

 みんな笑っている。友恵は助手席に座って、一緒に笑っていようとしている。その友恵の横顔を実由は見ていた。

気付いた友恵が「なに」と実由を見る。実由はふふっと笑って「じゃ、しゅっぱーつ」と声をあげた。

近況を車の中で語り合った。友恵にとってはほぼ一年ぶりだから質問責めにあった。東京の生活、大学の生活、かっこいい人はいたのかと笑いあった。

「あれ、ここの道路、もう直ったんだ」

「そう、ここ海外でニュースにもなったんだよ。日本人は魔法を使えるって」

 友恵はいつしか黙って外をずっと見ていた。道路が崩れているのを工事している人たちが必死に整備している。

「ほら、友恵。大丈夫だから」

 井上咲が友恵の肩を叩いて揺らす。

「う、うん」友恵は咲に顔を向けて笑顔をつくる。

「私たち生きているんだよねぇ」実由が演歌調に歌いだす。

「なに、それぇ」麻里が声出して笑う。

「生きていれば、なにかができる。道路も直って、こうやってみんなと出かけられる。でも、生きていれば、つらいこともいっぱいあるよねぇ」

 実由は大きな声で音はずれに歌う。

「実由どうしたの」

「ほら、あそこ。優子の家だよ」

 御神本優子の屋根が補修されている以外は家にほとんど損傷はみられなかった。

「うちも屋根曲がっちゃったよね」麻里が笑った。

「そうなんだ。私の家族はみんな東京に来ちゃったから、福島にこうして来て見てみると、やっぱりここは大変だったんだなって実感するよね」

 佐藤友恵が頬杖ついてつぶやく。

「なに、しんみりしているのよ。やめてよね。そういうの」麻里が友恵の肩を叩く。

「そうだよ。今からしんみりしてどうするの。もっとしんみりするようなところに、これから行くんだから」

 実由が長い息を吐く。

「行くよ」

 実由は車を走らせる。

 車が進んでいくと舗装途中の道になっていき渋滞ぎみになっていく。前を走るバスもゆっくりと盛り上がった道を進んでいく。

「バスがんばっていってるね」「がんばれ~、バス」と麻里と咲が後部座席で指差しながら笑っている。

 友恵はもう笑顔がなかった。道沿いに並ぶ家はもう壁がはがれているのも見える。東京は、自分の住む地域はここまでの揺れではなかった。道路が液状化してしまったぐらいだ。

 車が小道に入ると、また景色は一変した。友恵は口を手でふさいだ。

「私もここまでは、はじめて来た」麻里がつばを飲む。

「私はそこの病院でお父さんが入院しているから何回か来ているけど、やっぱりいつ来ても、言葉がないよね」

「友恵、大丈夫」咲が友恵の肩に触れる。

 友恵は震えていた。

「一回外出ようか」実由が車を停める。

「ここからあとどれぐらい。ちょっとショックで」友恵は下を向いて長いため息をついた。

 そこは家がひっくりかえっていたり、一階部分がなくなっていた家もあった。

「ほら、海が見えてきたよ」実由が微笑む。

 車は病院横の駐車場に停まった。

「じゃ、歩こうか」

 四人は車から降りた。

「すごいゴミっていうか、なんか散らかっているね」

「うん、もうとりあえず道の端に寄せたって感じだね」

 友恵は足が止まり歩けなくなっていた。

「もうダメだよ。行けないよ。だって、ゴミじゃないよ。卒業写真とか、ランドセルとか、教科書とかじゃん。なんでこのままなの。ありえないよ。ありえなくない。なんでよ」

 友恵が顔を手で覆う。

「友恵、ごめん。ゴミじゃないよね」

 麻里が振り向いて頭を下げそうなところを実由が麻里に首を振って、友恵の目を睨んだ。

「ゴミじゃないよ。だからなによ。これが現実よ。ここが東北よ。福島の海なのよ」

 実由は語気を強めて言った。

 友恵が手を顔から離す。

「行くよ、友恵。ここまで来たんだから」実由は小さく手を招いた。

「うん」

 友恵の足は震えが止まらないが一歩一歩踏み出す。

「友恵、ゆっくり行こう」咲が手を差し出す。

「地震がきたら速攻ダッシュで逃げるよ」実由は大きく笑って大きく手招きした。

「本当に、すごいことになっているね」

「家が土台だけになっている。こんなのはじめて見た」

 友恵が潮風を吸い込む。

「ここに優子がいたんだね」

 崩れた防波堤から、テトラポットが住宅に突っ込んでいるのを見つめてため息をつく。

「なんで優子はあのとき、ここにいたんだろう。誰かといたのかな。あの日、誰にも連絡していないんだよね。おばさん泣いていたよね」

「うん。遺体でも見つかってよかったって言っていたけど、そんなことないよね」実由がしゃがんで海をみつめた。

「なんでここにいたんだろう」

 友恵が空を仰いだ。白い息を薄っすら吐くと涙がこぼれた。

「友恵、これ飲みなよ。あったかいよ」

 実由が水筒からカップにお茶を注いで友恵にわたした。

「あ、いいな。持ってきたの」先を歩いていた麻里が駆け戻ってきた。

「ありがとう」白い息と湯気を混ぜ合わせながら手を震わせて、友恵はカップに口をつけた。

「あったかいね」友恵は目を閉じて微笑んだ。

「私さ、優子に本を貸していたままなんだよね。村上春樹の海辺のカフカ、あれ返してもらってないんだよね。優子、どこまで読んだんだろう。下巻までいったのかな。感想聞きたかったな。もう聞けないね」

 井上咲がうずくまった。

「咲、私も同じだよ。私もコールドプレイのアルバム貸したまま。いろんな洋楽聴きたいって言うから。もっといっぱい教えてあげたかったのに。ギターもやりたいって言っていた。今度って言ってそのままにしていた。なんで、私、すぐに教えてあげなかったんだろう」

 麻里は海に向けて言った。

「私は」

 友恵はカップに涙をたくさん落としていた。

「ラッドのアルバム、日曜日に貸してあげる約束してた。優子が土日に東京来るって約束してた。会う約束してた。なんで。なんで金曜日にこんなことになったの。もし、一日遅れていたら、こんな、こんなことにならなかったのに。どうして。私はなにもしてあげられなかった。麻里と咲みたいに、してあげられなかった」

 実由が友恵の髪をさすった。

「大丈夫だよ」

 カップからお茶がこぼれた。

「どうして、優子がいなくならないといけないのよ」

 風が一段と強くなり、波の音が大きくなった。


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