II
姫川先輩から受け取った入部届をぺらぺらと弄びながら廊下を歩く。
結局、あの一手からぼくの手勢はすっかりバラバラになってしまい、最後には王将はほとんど真っ裸だった。完膚なきまでの敗戦。とても悔しいけれど、先輩が棋力を自画自賛するのも頷ける。
将棋部への入部は決まりかな。
「あれ、弥? 何してるの?」
そんなとき、ばったり才華に出くわした。
「才華のほうこそ。帰ったと思っていたよ」彼女とはぐれてから一時間近く経っている。ぼくは入部届を示してみせた。「さっきまで将棋部にいたんだ」
「へえ、将棋ねぇ」才華はそれほど興味がなさそうだ。「わたしは体育館で吹奏楽部の演奏を聴いていたの。特に見たい部活もないからね」
音楽を鑑賞する才華を想像する。うん、何だか絵になる。
「それじゃあ、これからどうするの? もう帰る?」
「わたしは図書室にでも行こうかな。いま帰ろうとすると外で勧誘に捕まっちゃうから」
「図書室……」
文芸部が勧誘を行っているはずだ。去年の五月号は見つかったのだろうか?
図書室がどうしたの? と才華に問われ、かくかくしかじか説明した。国語科資料室に文芸部の三人が訪れたこと。三人は昨年の部誌を探していたということ。その部誌は傑作とまで言われていたこと。
それを聞いて、才華はくるりと踵を返した。身体の半回転に合わせて、ミディアムの黒髪、制服のリボン、そしてスカートが順番にふわりと踊る。
「ちょっと気になるかも。見に行ってみようか」
野次馬はよくないよな、とは思うけれども、正直ぼくも部誌の行方が気になるところだ。何歩か遅れて、歩きはじめた才華のあとに続いた。
図書室までの道のりは、外の賑やかな勧誘が嘘のように閑散としていて、途中二人組の女の子たちとすれ違っただけだった。文化部に関心のある生徒が少ないのと、図書室がそもそも校舎の隅にあるのとが原因だろうか。
まず、図書室の扉の前で覗きこんでみる。
入口からすぐのところに勧誘ブースがあり、部誌やファイルなど勧誘の材料となる活動の足跡が飾られていた。といってもそれは図書室の閲覧席のテーブルのひとつを間借りしただけのスペースで、それを除けば図書室は一般に利用可能なようだ。勧誘が行われていない隣のテーブルには、部員のものとみられる鞄が置かれている。
新入生を待っていたのは四人。先刻国語科資料室で見かけた三人に加え、もうひとりお下げ髪の女子生徒がいる。姫川先輩が言っていた通り、図書室で留守番を任された部員がいたのだ。
「あ、家入」
ぼくらに一番に気が付いたのは、唯一部員ではないぼくらの同級生、背の低い眼鏡の女の子。才華に気が付いて図書室を出てきた――なぜか、眉を顰めて敵意を含んだ視線を送りながら。
「……
そして、才華も才華で嫌味を隠そうともしない。江里口さんとやらは低いところから見上げるように睨み、対して才華は長身を活かし見下ろすように威嚇する。正直どちらもなかなか怖い。
一目見てわかる、ふたりは仲が悪いようだ。ぼくの経験に基づく偏見では、女の子同士が苗字で呼び合うのは、よっぽど仲が良いか、ほどほどに仲が悪いかのどちらかだ。今回は間違いなく後者。
「ええと」こういうとき、当事者たちは内心、ぼくのような第三者にこう切り出してほしいはず。戸惑うような演技をして問う。「ふたりは知り合いかな?」
「そんなところ」案の定、才華が皮肉たっぷりに応じた。ぼくではなく、江里口さんに向かって。「中等部の三年間、どうしてかずっと同じクラスだったの。なんて運が悪い。今年はようやく別のクラスになって安心していたところだったのに」
「ああ、そうだな」喧嘩を売られた江里口さんも負けていない。やや乱暴な汚い口調で返す。「まったく同感だね。万一高校もずっと同じクラスなんてことがあったら、あたしの人生おかしくなってたんじゃないか?」
それからふたりは互いに顔を背けた。
「それで、名前なんていうの?」そんな江里口さんとぼくの目が合った。「家入の恋人か何か?」
「いいや、違うよ」予想していた質問だから簡単に否定できる。「高校から入学した久米弥。才華とは……昔馴染みってところかな?」
嘘は言っていない。憶えていないけれど、小さいころ遊んだことがあるから。
「へえ、家入にも友達がいたんだ。あたしは江里口――江里口
ぼくに興味があるのかないのか曖昧な態度。苗字を強調するのは、下の名前で呼んでほしくないのかもしれない。
「ところで江里口さん。さっき部誌を探していたみたいだけれど、見つかったのかな?」
才華と江里口さんの視線が同時にぼくに集まる。犬猿の仲のふたりだけれども、ここにいる関心では一致している。
「ああ、あのとき将棋を指してたのは久米くんだったのか。五月号なら、まだ見つかってないよ。学校に保存してあるのはひとつだけだったんだろうな。そうなると、その唯一の一冊は誰かが盗んだってことになって、犯人捜しをすることになるんだけど……」
突然に予想外の言葉が出てきたものだから驚いてしまう。
いち早く反応したのは才華。
「犯人捜し? 部誌は最初ここにあって、盗まれたってこと?」
江里口さんは静かに頷いた。曰く、才華の指摘は正しくて、部誌はこのブースで勧誘を開始した当初、確かにあったのだという。
詳しく話を聞こうと才華の口が動きかけたとき、図書室の中から横槍を入れられる。
「文芸部に興味があるの? 見ていく?」
二年生の男子部員だ。部誌の話をしていても、まだ部員たちには挨拶していなかった。
彼はぼくと才華を招き入れると、机の上に並べられた活動の足跡を示しながら、文芸部について説明しはじめた。
曰く、文芸部は奇数の月、つまり毎年六回部誌を発行している。五〇部ほど作って頒布するそうだ。その内容は、一〇ページ程度の掌編小説が主で、部員の趣味によっては書評や詩歌、イラストなども掲載される。もちろん難しいものを作っているわけではなくて、それぞれの趣味に応じて気の向くままに表現したものを載せているのだ、と過去の部誌を手に取って例示しながら、熱心にアピールしてくれた。
部誌はまさにハンドメイド。業者に依頼して製本したものではない。材料はごく普通の印刷紙。B5版で、文庫本でイメージされるような小説よりも大きな文字、長い一行で文章が印刷されている。四、五〇ページほどのそれを重ねて、ホチキスで右側を留めたのち、製本用のテープで体裁を整えただけ。
稚拙というと失礼だが、正直決して上質なものとはいえない。部員や部費といった、部活動そのものの規模の小ささからすれば妥当だろうか。でも、これはこれで手作りの温かみがあって、努力と工夫の末に完成したものだとわかる。
ふと手に取った一冊は、昨年の九月号であった。文化祭に出展されたようだ。目次をめくってみると気になるタイトルが眼に入る。『本番前』――ああ、そうだ、前の九月といえば、ぼくは受験を控えて緊張を高めている時期だった。
ペンネームは、カレン。
「たとえばこれは、誰が書いた小説なんですか?」
ブースの勧誘側に座っていたお下げ髪の先輩――国語科資料室に来なかった部員――に尋ねると、照れくさそうに自分を指さした。「私のだよ」と。
せっかくなので、ちゃんと読んでみることにした。
物語は吹奏楽部の女の子を主人公とした、十数ページほどの短編だった。その冒頭、高校一年生の主人公は、あるコンクールでソロのパートを任される。しかし彼女は、高校レベルの音楽に難しさを感じはじめていて、自分の演奏に自信を失っていた。そんなときに大役に抜擢されてしまったものだから、責任感と重圧感とに苛まれて一層自信を喪失していく。その不安を友達に相談すると、友達はソロを任される名誉を讃え、主人公を実力のある演奏家だと大げさに言って励ます。
そして、自信を取り戻した主人公が本番の舞台へと歩いていくところで、このごく短い物語は幕を閉じる。
――なんだ、ぼくと逆の立場か。
物語としてはよくできているほうなのだろう。でも、正直なところあまり感情移入はできなかった。理由はふたつ。ぼく自身が経験からひねくれてしまったことと、文章の稚拙さだ。誤字脱字や、主語述語のズレなどが目につくと、物語どころではなくなってしまう。
次のページにはすぐ別の作者の短編。一度顔を上げた。
才華はというと、男子部員と話を続けている。部活のPRを聞きたいわけではないだろう。きっと、部員たちから部誌紛失騒動の顛末を探るため、必要な情報を引き出そうとしているのだ。数歩後ろには、同じように真相が気がかりな江里口さんも控えていた。
ちょうど退屈な宣伝が一段落し、視線がバックナンバーに移ったところで、ついに才華は切り出した。
「ところで、部誌がひとつなくなったって聞いたんですけど……」
そのとき、少しばかりピリピリした雰囲気のあった図書室が、より強い緊張に覆われた。部員たちの表情が険しくなる。
「そうなの。展示しているあいだに、いつの間にか盗まれていたみたいで」
それまで声を発していなかった三年生部員――丸顔で髪の長い彼女だ――は、そう言ってため息を漏らしている。それにつられて、男子部員も、はあ。
「そんな! 盗まれたなんて」才華はあえてその落胆の空気をかき乱すかのように、大袈裟に驚いてみせる。なるほど、これも才華が自らの好奇心を満足させるため、相手から情報を引き出す手段なのだろう。「よければ順を追って教えてもらえますか? 第三者として話を聞いてみたら、何か気が付くところがあるかもしれません。勧誘中に盗まれるなんてことが本当にあるのか、気になるので――ほら、消えた五月号は傑作揃いだとも聞きましたし」
才華め、気になる理由を少し取り繕ったな。
でも、才華の演技は部員たちを動かすのに充分だった。三人は一瞬表情だけで会話を交わし、それからぼくらに向きなおる。それから、男子部員が代表して説明を始めた。
「部誌が消えたのは、ほんの一〇分間のことだったんだ」
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