Episode.02 しゅうさく

I

 東京での生活に楽しみを見出しはじめたころ、高校の入学式が開かれた。

 公立の学校でしか入学、卒業を体験したことがなかったので、私立天保高校のせっかちな入学式はとても新鮮に感じられた。よくわからない地元の名士たちが代わる代わる行うスピーチと、延々と続く電報の読み上げがそうした式の定番だと思っていたけれど、天保では校長先生と、大学の理事長の代理が高度な言葉で紡がれた文章を簡潔に述べたくらいだった。

 授業開始までの一週間は人生で最も忙しい日々だった。各種オリエンテーションやら体力測定やら健康診断やら。あっちに行ってこっちに行って。あれを提出してこれに記入をして。めまぐるしく時間が過ぎていき、才華やおばさんとの二週間も入学準備で忙しかったけれど、その三倍くらいの速さで時が流れているように感じる。

 だからって言い訳したいわけではないけれど――

 友達を作っている暇なんてなかった。

 クラスメイトの八割くらいは中等部から進級してきた内部進学生。すでに友達付き合いのコミュニティができていて、そもそも声をかけるのに勇気が要る。チャンスがないわけではなかった。しかし、正直なところ天保の「天才」たちと交わることにまだ恐れを拭い去ることができていないのだ。

 というか、入学式のその日から才華と一緒に登校したのがいけなかった。どこの馬の骨か知れない外部入学生が女の子と仲良く入学式に姿を見せたのだ、もし逆の立場なら正直ぼくも良い気分で見られるものではないだろう。

 もちろん、才華は「わたしは気にならないけど」と澄まし顔。

 才華と距離を置く必要はないと思うけれど、周囲に誤解されないようにはしたい。かといって親戚云々の事情が漏れるのも良くないので、同居していることは先生たちを除いて基本的にシークレットと約束している。どうやら、当面才華以外に友達は望めないらしい。

 こうなると困るのが部活探し。

 この日は午前中のうちにやるべきことが終わり、午後は学校中の部活動が新しい部員を獲得しようと一斉に勧誘を始めた。才華と一緒に見て回るしかないかな、と思っていたものの、誘おうと決めたころには雑踏の中で見失ってしまっていた。そもそも、中学から一度も部活動をしたことがないらしい彼女は、高校の部活にもそれほど興味がないようだった。誘ったとしても良い返事はなかっただろう。

「なるほど。でも、焦ることはありません。まだ授業も始まっていませんよ」

 そうして独りぼっちで部活動巡りを始め、とりあえず将棋部を訪れた。運動部に所属した実績もなく、高校、まして天保高校のレベルでもある程度渡り合える自信があるのは、正直小学生のころから遊んでいてそれなりに経験を積んだ将棋しかなかった。

 将棋部で迎えてくれたのは、姫川英奈ひめかわえなという二年生の先輩。部長なのだとか。

「そうですよね……それこそ、部活で友達が作れるかもしれないですもんね」

 ふふ、と上品に微笑みながら、独特の笑い声。

 ポニーテールに、吊り上がった眉に横長でやや垂れた目。フレームの丸い眼鏡の奥で、ぎらりと瞳が輝いている。口許には微笑をたたえていて、いかにも怜悧そうな印象を醸し出す色白な細面だ。いかにも育ちが良さそうで、才華とは違ったタイプの近寄りがたさがあるけれど、穏やかな声と丁寧な口調がそれを和らげている。

 彼女はさっそく盤の支度をしてくれて、一局を交えることになった。現在、対局は序盤戦から中盤戦へ移ろうとしている。

「それにしても人が来ませんね……ほかの部活のように、賑やかに勧誘をできるわけではありませんが」

 まだ勧誘の時間が始まってからそれほど経っていない。その将棋部の部室――国語科資料室。教材が並ぶ棚の一角に将棋道具が並べられ、机が三つ、椅子が六脚。そこにはぼくと姫川先輩のふたりだけ。ほかに一年生もいなければ、迎え入れる先輩も見当たらない。

 蛍光灯が消された部屋は、差しこむ陽光のおかげでカーテンを閉めていても明るい。窓の向こうからは外で行われている勧誘活動の賑やかな声が聞こえてくる。

 ぱちん、と一手。居飛車党のぼくに対して四間飛車で対抗する先輩。持久戦の構え、後輩相手にしては随分と手堅い戦法。我慢比べか。

「というか、いま勧誘している将棋部員も部長だけですよね? まさか、先輩しか部員がいないなんてことはありませんよね?」

 素朴な疑問に先輩はまた、ふふ、と笑った。どうやら癖なのか。

「そのまさかだとしたら、部活どころか同好会にもなれませんよ」

「あ、なるほど。部室があるんだから、ちゃんと部員がいるんですよね。……それなら、なぜいまはひとりで勧誘を?」

「みんな幽霊部員になってしまいました」

 いい加減じれったい展開に、ぼくは歩兵を前進させてちょっかいをかける。相手が上手く引っかかれば裏を取れるし、もし慎重に守ったとしても、のちのちぼくの優勢を保証してくれる、我ながら好手だ。

 気分が良くなったついでに、どうして他の部員が幽霊部員になってしまうのか尋ねた。すると、先輩の口角がぐぐっと上がっていく。

「私が強すぎるせいかもしれません」

 ぱちん、とぼくの挑発は完全に無視して、序盤に交換した歩を打ってきた。

 あかん、ぼくのほうが背後を衝かれた!

 当然、待ったはなし。いや、明らかに格下のぼくなら許してくれるかもしれない。勧誘のための対局だし。ああ、でもそれはあかん。なんたって最初に駒落ちを提案されて断っている。いまさら許しを請うなんてあまりにも情けない。

「良い天気です。うっかりするとうたた寝をしてしまいそう」

 先輩は窓からの明かりに目を細める余裕っぷり。一口喉を潤した水筒からは紅茶の香りが漂った。

 次の一手に窮していたそのとき、こんこん、と国語科資料室の扉がノックされた。

「おや、誰でしょう? 新入生なら嬉しいのですが」

 姫川先輩が立ち上がり、扉を開くと、そこには三人の男女。線が細く色の白い眼鏡の男子生徒と、丸顔で髪の長い女子生徒。もうひとり、背が低く髪も短い眼鏡の女子生徒。

「悪い、姫川。ちょっと部屋を見せてくれないか? 部誌を探していて」

「そういうことでしたか。どうぞ、調べてみてください」

 許可を得ると、三人はぞろぞろと部屋に入って来て、棚を調べはじめた。何かを探しているらしい。

 これは? と問うてみると、将棋部部長が説明してくれた。

「文芸部です。実は今年、部室が変わりましてね。昨年までは文芸部がこの部屋を使っていました」

「つまり、探している部誌があって、ひょっとしたらこの部屋に置き忘れていないか調べに来たわけですね」

 そういうことだよ、とは文芸部の男子部員だ。それから、苦々しそうに続ける。

「今年は部員がふたり以上入らないと同好会格下げは必至だ。活動場所が図書室にされたのも、そういうことなんだろうなあ。そんなときに、よりにもよってあの傑作がなくなるなんて」

 傑作とは何のことだろう、と思っていると、姫川先輩が「ああ」と声を上げた。

「もしかして、去年の五月号がないのですか? それは残念です……確かに面白い作品が多くて、勧誘にはうってつけでしょうに」

 だから参っちゃってさ、と男子部員が嘆息をついたところに、残りのふたりが見つからなかった旨を伝える。これを聞いて一層落胆した彼は、姫川先輩に礼を言うと、とぼとぼ部屋を去っていった。

 部屋に再びの沈黙。短時間で人が出入りしたものだから、少し埃が舞っている。

 ここで、ふと思い出す。

「そういえば先輩。天保は五人以上から部活、五人未満だと同好会なんでしたっけ?」

「そうですよ」

「なら、いま図書室には誰もいないわけですよね」

 同好会への格下げを逃れるにはあとふたり必要だと言っていた。ということは現在の部員は三名で、全員が部誌を探しに来てしまったということではないか。せっかく勧誘している図書室のブースを放置してはもったいない。

「それはありません。ブースでひとり、留守番しているでしょう」

「え?」

「三人のうちふたりは部員です。これは私も知り合いですから間違いありません。でも、もうひとりは知らない一年生でした。上履きの色も、久米くんと同じ学年カラーの赤でしたよ。要するに、あの背の低い彼女だけは部員ではないのでしょう。おそらく、勧誘ブースにたまたま来ていたときに紛失が発覚して、探すのを手伝っていたのではないかと」

「おお……なるほど」

 よく見ているなあ。

 ふと、満足げに頷いていた先輩がすっと表情を改めて、盤面に視線を落とした。手番は先手のままで、ぼくが長考している体だ。背後に滑り込んできた敵兵、適切に対応しないと一気に勝負を付けられてしまう大ピンチ。しかもまともに対応したなら、陣形を大きく崩してしまう。

 圧倒的劣勢。

 これもまた、天保の実力なのだろうか。

「さて、続けましょうか」

「続けるんですか?」

「続けないのですか?」

「……続けましょうか」

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