IV

「才華ちゃん、弥くん。きょうはデパートに行きましょう。才華ちゃんは高等部の新しいリボンを買いに、弥くんは注文した制服の受け取りに」

 朝食の時間、おばさんからそう告げられて三人で出かけることに決まった。おばさんに連れられて出かけることは幾度かあったけれど、三人揃っては初めてだ。入学準備が本格的になってきたと実感される。

 いよいよ天保高校の制服に袖を通す時が来た。家入才華をはじめ数多の「天才」たちに囲われる高校生活のスタート。ぼくはそれに耐えられるだろうか――と不安に思うところは大きいけれど、それでもやはり高校生になる、しかも全国随一の天保の生徒になれるのだから、その制服をまず手に入れるという日にワクワクするのも正直な自分だ。

 ついでに、揃って出かける機会というのも期待に胸膨らむ。このあたりの地理を少しでも頭に入れ、交通機関などにも慣れるチャンス。そして、家の外での家入才華を見る機会も初めてなのだ。

 ところが、横目で窺うに彼女はうわの空で、おばさんの話を聞いているかどうかもわからない。ちょっと呼びかけてみるが、「ううん」と唸りながらパンを咀嚼するのみ。

「ああ、また自分の世界に入っちゃったのね。普通にご飯食べて片づけたら勝手に調べ始めるだろうから、放っておいて」

 おばさんの言葉に、苦笑い。なるほど、慣れればその程度のことなのか。

 テレビでは、朝のニュースが有名な事件の再審について報じていた。



 届いていた制服は少し大きかった。

 特に肩パッドはぼくの肩から大きく外れていて、腕のところに段差ができてしまう。ぼくは軽く不満を述べたが、「すぐ成長して小さくなるから」「大は小を兼ねるから」と諭された。中学生のときの学ランもそう言われて、三年間ぶかぶかだったのだけれども。

 グレーのブレザーに、それより濃い色でチェック柄のズボン。紺に深緑のストライプが走るネクタイ。胸には派手すぎるくらいに堂々と天保高校の校章が縫われている。天保大学と同じデザインで、その下にHigh Schoolと記されているだけのそれは、ひと足飛んで名門大学の称号を手に入れたようで胸を張りたい気分になった。

 マネキンにかけられた女子制服も上下同じようなデザインだ。リボンも紺地に緑のストライプ。さらに隣のマネキンには中等部の制服があり、そちらではリボンやネクタイが緑一色になっている。なるほど、内部進学をするとリボンの買い替えが必要になるわけだ。

 制服の入った大きな紙袋を持ち、うきうきしながら帰り道を歩いていると、窪寺駅を出たところで不意に同居人から声をかけられる。

「ねえ、弥。トイレに行っておいたほうがいいんじゃない?」

 唐突な言葉に、ぼくはどきりとして言葉を失う。

「デパートにいたときから我慢してたでしょ。……どうしてわかったか、説明したほうがいい?」

「しないほうがいい」

 彼女の指摘はまったく間違いではないのだけれど、正直もう少し上手に伝えてほしい。

 というか、ぼくが我慢していると思っていたなら、もっと早く訊いてみればよかったじゃないか。その旨意義を申し立てると、「だっていま確証が持てたから」だそうだ。でたらめを言わないのは立派かもしれないけれど、そりゃないよ。

「でも困ったわねぇ。家までにお手洗いには寄れないわよ。駅だと改札の中にしかないもの」おばさんが首を傾げながら考えて、ふと思いつく。「あ、そこにコンビニがあるわね。そこで借りましょう。で、借りるだけじゃ申し訳ないから、アイスでも買って帰りましょうか」

 駅を出てすぐのところにあるコンビニに駆け込む。客は少なく、幸いお手洗いも使用中ではなかったので、店員さんに一言言ってお借りした。ぼくが個室を出ると、残るふたりが冷凍庫を物色していた。

 ぼくをお呼びではなさそうだったので、雑誌コーナーに歩いて行って野球雑誌の表紙を眺めたり失礼してぱらぱらと立ち読みしたりしていると、背後で店員さんが会計を始めた。アイスを決めたのかな、と振り返ったけれど、そこにいたのは才華たちではなく、大きなリュックサックを背負った男性だった。小さなグミの袋をひとつ購入したらしい。

 なんだ、と思ってまた手元に視線を戻そうとしたとき、意外な言葉が聞こえてきたものだから驚いてしまった。

「お箸、もらってもいいですか?」

 ――え?



「ねえねえ、気が付いた? さっきコンビニで男の人がグミか飴かを買って、お箸を頼んでいたのよ? 可笑しいわよねぇ、あんな体躯のいい人がお菓子を食べるに箸を使うだなんて」

 先ほどの場面はおばさんも気が付いていたようで、家に帰ってアイスを食べようというとき、笑い話としてそのことを思い出したらしい。

「弥くんも見た?」

「うん、見ました。確かに、ちょっと滑稽でした」

 箱を開封し、中からカラフルなアイスバーを取り出して配る。ソーダ味、オレンジ味、メロン味だそうだ。

 おばさんは眼の端に涙がにじむほど笑っている。そして、

「才華ちゃんも見た?」

 と、問いかけるが、問われた本人は反応が鈍い。また自分の世界に入ってしまったのだろうか、とぼくとおばさんが顔を見合わせたとき、「あれはね」と声を発した。

「ほんの簡単な話なの。あの男の人は、別にグミを食べるために箸をお願いしたわけじゃない。箸が必要なのに、持っていなかったからついでにもらおうとしただけ。そう、弥がトイレを借りて、アイスを買って帰ったのと同じで」

 自分の世界に入っているあいだに、先刻の男性が何をしたかったのかを理解したようだ。

 もう一度、ぼくとおばさんは向かい合い、お互いに彼女の話の全体を掴めていないことを確認する。

「才華ちゃん、どういうこと? もう少し詳しく」

「だからね、簡単な話。あの人はおそらく、別の場所で食べ物を予め用意していたの。……いや、買ったとみて間違いない。あのリュックに自分の家で作ったお弁当を入れたらぐしゃぐしゃになるし、あんまり料理をするような人には見えなかったからね。まあそれは印象の話だから忘れるとして、少なくとも、その別のところで買った食べ物――たぶんお弁当――を食べるための箸が欲しかっただけ」

 食べ物を持っていた、という証明がどうやって導かれたのか。そもそも、お弁当を持っていたとして、箸なら家に帰ればあるはずだし、それを買った場所でも箸を手に入れられる。どうしてわざわざコンビニで入手しようとしたのか。

 その点気になって問うてみると、やはりごく当たり前のこと言うように語る。

「あの男の人の荷物。あれを見てわかるのは、つまり、彼がアウトドアに興じる予定だということ。肌が日焼けして浅黒かったから、よく出かけるのだと思う。具体的には、たぶん、スポーツ観戦。なぜなら、大きな荷物の割に容量は少なそうだったから。山登りや釣りなら、もっと大荷物のはずでしょう? お弁当と飲み物のほかには、会場で応援に着るレプリカユニフォームくらいしか入っていなかったとみるのが自然だね」

 なるほど、ぼくも大阪で友達と一緒に野球やサッカーを見に行ったことがあるからわかる。そういうときにはリュックサックが便利で、かといってレプリカやTシャツ以外に荷物は多くないのだ。

 スポーツ観戦の予定があったという推理には納得したと伝え、改めて、なぜわざわざコンビニで箸をもらおうとしたのかを問うた。

「弥、それは訊き方が少しズレているの。『なぜコンビニで』じゃなくて『なぜ箸の用意を忘れたのか』だよ。スタジアムで買う食べ物は大抵高いものばかりだから、安い弁当を地元のスーパーで買った。けれど、電車の中で箸を忘れていたことに気が付いて窪寺で下りたのね。ええと、それで……ああ、そう、なぜ箸を忘れたか。それも簡単な話で、単に気を取られていたからというだけ」

 それでは意味がわからない。だって、スーパーならなおのこと、レジで「箸は要りますか?」と問われるはずだから。それなら何に気を取られてもらい忘れるのか。店員さんがよっぽどのべっぴんさんだったのか。

 天才少女はにっと口角を上げた。

「セルフレジ、使ったことない?」

「セルフレジって……ああ、店員さんじゃなくて自分で会計するやつ? 最近増えているらしいね。ぼくは使ったことがないけれど、母さんは使ったことがあるって」

「あれ、使える?」

 ぼくは首を傾げた。隣でおばさんも「ややこしくて苦手」と首を横に振った。

「そう、そういうこと。彼は慣れないセルフレジに困惑して、箸を持っていくのを忘れたというわけ」

 これで整理ができた。

 あの男性は、きょうスポーツ観戦に出かける。普段から観戦によく出かけるのでスタジアムグルメが高価なことを知っていた彼は、地元のスーパーでお弁当を購入する。しかし、想定外にも出くわしたセルフレジに焦るあまり、箸を持ち忘れてしまった。それに電車の中で気が付いて、窪寺のコンビニに立ち寄る。そこで、グミを買ってごまかしながら箸をもらったのだ。

 おお、綺麗に筋が通る!

 ところが、まだ浮かない表情をする名探偵。曰く、

「でも、何を見に行こうとしていたかまではわからない。ジャンパーを着ていたせいでもあるけど、何のスポーツが好きなのかがわからなかった。わたし、興味もないし……」

 とのこと。

「朝子おばちゃん、窪寺から行けるスポーツ会場ってある?」

「窪寺はちょうど乗り換え駅よ。野球場かサッカー場ね。電車なら野球場、バスならサッカー場」

 どちらの開場が目的地か――彼女は男性の特徴を思い出そうと目を閉じて考えている。

 ははあ、ここではぼくが一枚上手だったようだ。

「才華、きょうはプロ野球の開催日だよ」

 え? とおばさんと才華が顔を上げる。

「あの人はきっと野球ファンだ。だって、リュックにプロ野球チーム――シーガルズ――のストラップを付けていたからね。チーターズのホーム、シーガルズはビジターだ」

 きょとん、とする才華。彼女は野球に興味がないようだから気が付かなかったのだろう。一方ぼくは、筋金入りの野球ファン、いや、大阪で鍛えられたこてこてのタイガーズファンや。そして、特定のチームのファンであるからこそ、他球団を象徴するマークやマスコットにかえって目ざとくなることもある。

 才華はぼくの意見を確認するためだろう、テーブルの隅に置かれていた朝刊を手に取る。ばさばさと手荒くめくってスポーツ面を開くと、日程とシーガルズのエンブレムとを確認し、はあ、と息をついた。

「お見事」

「才華のこと?」

 お互いに見合ってにっと笑い、やがて堰が切れて笑い合った。

 わかったのはほんの些細なこと。それなのに、こんなに気持ちがいい。

 この得も言われぬ充足感。そうか、これが――才華の体感している歓び。

 ぼくは高校に通う前からひとつ、東京に来てわかったことがある。偽物の天才でいることはとても辛いことだけれど、本物の天才の傍にいることはとても心躍る体験なのだ。ああ、この爽快感は癖になりそうだ!



「アイス、気を付けて食べてね」

 おばさんが食べ終えたアイスの棒と袋をゴミ箱に捨てる。思えばぼくと才華は一切手を付けておらず、少しずつ溶けはじめていた。

 さすがに熱くなってしまったようだ。

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