III

 本の在り処を言い当てられて唖然とするぼくを見て、にっと笑った家入さん――才華の顔が目に焼き付いている。

 その笑顔は、ぐっと上がった口角にだけはっきりと表れる。一方で目は細められるわけでもなく、眉もまっすぐ凛々しく伸びていた。嬉しさが滲み出るその表情こそ、彼女が最大の満足を示したときのものだと、爛々と輝く瞳を見てすぐにわかった。

 手伝ってもらいながらいくつか言葉を交わしたり、一緒に夕食を食べたりしているうち、家入才華という人物に慣れてきた。新しい生活はまだまだてんやわんやで落ち着かないものの、少なくとも同居人との関係に心配は消えつつある。

 それでも、すべての壁が取り払われたわけではない。まだ数日の関係だし、生活に慣れない限りはどうしても距離を置いて振舞ってしまう。こういった場合、自然、彼女を見る目は観察するときのそれになる。

 もちろん、いやらしい意味ではない。

 たとえば、勉強面。高校から課せられた宿題の進み具合から、彼女の知識には偏りがあることがなんとなくわかった。


 数学――できない。

 理科――できない。

 社会――分野ごとにムラがあるけれど、関心のある事柄には詳しい。

 国語――すばやく読み解き、また簡潔に要約して理解するのが得意。

 英語――きわめて優秀。海外在住経験はないものの、リスニング、ライティング、スピーキング、いずれもまるで母語のようだ。


 宿題のレベルは確かに高い。難しいけれど、小中学校の知識で解けないものはない。それこそ受験勉強をしてきたぼくにも何とか解けるわけで、天保中学からの内部進学生である彼女はもっと偏らず能力を持っているべきだ。高校一年生にして「文系」という括りに収まってしまっているらしい。

 しかし、当然、彼女の本性というものは勉強への取り組みだけで見えてくるものではない。生活の様子から導きだされる性質こそ彼女を特徴づける。

 特に「気になる」「気にならない」という最大の価値観――口癖でもある――は、ほとんどの行動に一貫している。

 彼女が「気にならない」こととは何か。正直に言ってしまえば、少々デリカシーを欠いているということ。愛想の良い姿からは想像もできなかったが、なかなかずぼらなところがある。彼女は要するに、同年代の男の子が同じ空間で生活していることを忘れているのと同じ振舞いをするのだ。

 お風呂上りに濡れた髪のまま薄着で歩く。夕食の時間にぼくを呼びに来たときには部屋のドアを全開にする。ぼくがいる目の前でも平気で洗濯物を運ぶ。リビングのソファでうつらうつらと船を漕ぐ。その他些細なことが諸々。

 ……おばさんとのふたり暮らしだったいままでの習慣が続いているだけとは思うが、それを見せられるぼくとしては、正直気が気ではない。これは、新参者がどうこう言ってはならないことなのかな?

 反対に「気になること」――これはもはや法則を見出すことはできない。

 どんなに些細なことでも、何か引っかかれば、それだけで気になって仕方がないのだ。数学の課題をやっている最中に、偶数の「偶」の字の意味や成り立ちを疑問に思い宿題を投げ出す。ソファに座ってテレビニュースを見ていてホワイトハウスが映し出された瞬間、ワシントンD.C.の「D.C.」が何の省略か思い出せなくなって立ち上がる。一緒に夕飯の支度をしている中でぼくが発した「しゃもじ」のアクセントに引っかかりがあったらしく、しつこく聞き出そうとする。

「ねえ、弥。もう一回『しゃもじ』って言って?」

「は? ……しゃもじ」

「うん、やっぱり。わたしとも朝子あさこおばちゃんとも違う。どうして?」

 その他本当にどうでもいいような細かなことが諸々。

 こうした疑問に法則性はまったく感じられない。でも、何かを疑問に思ったあとの行動ならば、概ね予測できる。

「気になること」を発見したら最後、現在やっていたことをすべて忘れて、その疑問を自分の中で解消できるまで徹底的に調べあげるのだ。

 そんなとき彼女が用いるのはおばさんの旦那さん、つまり彼女の伯父が遺した書斎の辞書や事典、図鑑などだ。書斎には彼女にとって有益なアイテムがいろいろと揃っていて、国語辞典や漢字辞典、百科事典はもちろんのこと、類語、古語、英和、和英――それ以外にもバラエティ豊かな書籍が本棚を埋め尽くしている。彼が博学であったことが容易に想像できる。

 そんな蔵書の数々でも解決を見ない場合や、もう少し簡単に解決できそうな場合には、彼女が持っている電子辞書を用いたり、インターネットを用いたりして、徹底的に調べ尽くす。

 何かを調べているときの彼女は、いつも凛とした表情で、息を呑んでしまうほどだ。

 そうして、留飲を下すことを成功したならば――それはもう魅力的な笑顔を浮かべる。発見の瞬間、解明の瞬間こそが、彼女にとって無上の喜びなのだろう。

 彼女の能力をまとめると、その実力の正体を大まかに把握することができる。

 物事に引っかかりを覚える着眼点と、思考の瞬発力。解明までの適切なプロセスを選ぶ判断力、実行力。そして最後には、集めた情報をまとめ上げて不足を補い、完璧な結論を導き出す論理の構築力。これらをすべて束ね上げた家入才華という人物にとって、道端でぼくを久米弥だと見抜いたり、目当ての荷物を一瞬で見つけ出したりすることなど、普段の生活をほんの応用した程度。ごくごく自然で容易い推理なのだ。

 つまるところ、彼女もまた「天才」のひとりである。

 しかし、ただの「天才」ではない。ぼくは大げさに褒め称えているわけではない。


 ホンモノだ。



「天才」という言葉に踊らされたぼくの新たな生活は、疑いなく「天才」である同居人とともにスタートしてしまった――なんたる悪運か。彼女とともにいれば、ぼくが「偽物」であると証明され続けるだろう。受験のための知識を蓄えているだけで、その使い方をろくに知らず、周囲からの言葉を鵜呑みにしていたぼくは、決して「天才」ではないと。

 やはり、これは天罰に違いない。自分を正当に評価できず、自意識過剰に浮かれていたぼくにはお仕置きが必要だったのだ。

 えらいことになった。

 しかし、この生活からすぐに逃げ出したいとも思わない。もちろん、まだ始まったばかりでこの先どう転ぶかわからないから。ただそれ以上に、「本物の天才」に対する怖いもの見たさがある。正確には言い表せない高揚感が胸の中で疼く。

 お風呂でそんなことを考えて危うく湯あたりしかけ、部屋に戻ると、父さんからメールが届いていることに気が付いた。こちらの様子を問うだけのものだったので、「大丈夫」とだけ文面を打ちながら、ベランダに出てみた。長湯をしたので涼みたいのと、ベランダや外を見たことがなかったので興味があったから。

 空は真っ黒で何も見えない。家々の灯りが眩しすぎるのだろう。隣の土地が畑なので視界はやや開けてはいるけれど、特段面白いものはないというか、正直言ってつまらない景色だ。昼間に見ても何もないだろう。

 そこは大阪とあまり変わらない。いや、大阪より少し虚しいだろうか。

 ふと、そよ風に甘く爽やかな香りを感じる。すぐ近く――このベランダからだ。

「うわ! 家ぃ――才華!」

 寝間着の彼女はぼくに背を向けていた。その背中がびくりと震えて、まもなく抗議の表情が向けられる。

「もう、弥。驚かさないでよ」

 この香り、そうだ、彼女が使っているシャンプーの匂いだ。

「ぼ、ぼくかて驚いたわ! そっちは気づいてたやろ?」

 携帯を畑に投げてしまう寸前だった。

 そこでもうひとつ気が付いて、ばたばたと慌てて部屋に戻った。鍵をかけ、カーテンを閉める。突然屋内に引き返したものだから、不思議がった彼女が戸のすぐ前まで歩み寄ってきたのがわかった。

 ぼくはガラス越しに捲し立てる。

「ベ、ベランダ、いぇ――才華の部屋と続きやったの? 仕切りもあらへんの? せめて観葉植物の一本くらい置いたほうがええんちゃう?」

 窓の外から素っ気ない声で返答される。

「そう? わたしは気にならないけど」

 ぼくの話や!

「まあ、いいや。うるさくすると朝子おばちゃんに叱られるよ。じゃ、おやすみ」

 と言って、彼女は部屋に帰ったようだった。隣の部屋の戸が閉まる音を確認して、ほっと大きくため息をつく。

 ああ、わからない。言葉では言い表せないけれど、この生活は、すごく、すごく――


 ドキドキする。

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