II

「迎えに来てくれたの?」

 心臓を大暴れさせながら型通りの挨拶を済ませ、家まで案内されながら少し打ち解けようと問いかける。

「うん。よかった、思った通り迷子になりかけてたもん」

 お恥ずかしい。

 彼女と顔を合わせてからずっと頬がほんのりと温かい。赤くなってはいないだろうか、悟られなければいいのだけれど。

 ああ、そうだ、この道だった――と道のりを思い出したり道を選び間違えたことを後悔したりしながら歩いていくと、道の反対側から下宿先の秦野さんがやってきた。黒いジャンパーを引っかけたおばさんは、ぼくらが並んで歩いているのを見ると目を丸くする。小走りに近寄って来ると、ぼくより先に家入さんに声をかけた。

「才華ちゃん、写真を置き忘れていたから持ってきたのに、ちゃんとお迎えに行けたのね。弥くんの顔、憶えていたの?」

 おばさんの手にはぼくの写真があった。家入さんに迎えを任せたはよかったが、当の姪っ子がうっかりそれを持たずに外へ出てしまったので、慌てて届けにきたのだろう。もしこうして偶然出会えなかったら、迎えの務めが果たせなかったかもしれない。

 けれども、家入さんはちゃんとぼくの顔を憶えて――

「わたし、そんなにすごいことしてないよ」

 あれ?

 笑顔で否定する家入さん。ということは、ぼくがどんな顔だったか曖昧なまま外に出たということ?

「じゃあ、たまたま声をかけたのが弥くんだったの? それとも、弥くんに見つけてもらった?」

 おばさんの問いに、家入さんは再度首を横に振る。

「こんなの簡単な話。昼間にこんな住宅街の真ん中で、大荷物を――といっても大部分は先に送ってあるから手荷物だけだけど――背負って歩いている人なんて、そうそういないよ。それで、高校生くらいの男の子が道に迷ってる様子だったら、まず間違いなく久米くんってことじゃない? 写真を見なくたってわかるってば」

 言われてみれば、そりゃそうだ。ぼくは感心して頷いていた。

 と、それでよかったのだけれど、家入さんは余計な一言を付け足す。

「わたし、他人の顔を憶えるの苦手だもん。名前だけで精いっぱいだった」



 おばさんの家にはすでに、大阪からのぼくの荷物が届いていた。

 ぼくが生活することになるのは、おばさんの家の二階。かつておじさんが使っていた部屋である。家入さんがいま使っている隣の部屋は、以前は娘さんの部屋だったそうだ。

 この家の二階に上がるのは初めてだった。よその家の二階に上がるときは、いつだって緊張するものだと思う。その上すぐ隣が女の子の部屋だなんて。いま自分が外にいるのか、建物の中にいるのかも覚束ないほどの緊張――ここで暮らす実感が湧かないどころか、一晩泊まるだけでも気疲れしてしまいそうな気分だ。

「部屋の収納は好きに使っていいから」

「あ、はい。ありがとうございます」

 おばさんから一通り家の中の説明をしてもらって、最後にぼくが新生活をスタートさせる部屋に案内された。収納を使えることは事前に伝えてもらっていたので、大阪から棚や机を運んでくることはなかった。

 夕食の支度をするためにおばさんは階段を下りて行き、部屋にひとり残される。東京の新しい家に来て初めての、ひとりの時間。これで手持無沙汰だったら途方に暮れてホームシックにでもなってしまったかもしれないが、幸いにしてまずやるべきことがある。

「さて、整理するかな」

 家具類を持ち込まなかったとはいえ、段ボールの数はそれなりに多い。洋服に本、置時計や鞄など、生活の品をごっそり移すとなるとその片づけは簡単に終えられる作業ではない。それにしても、段ボールにそれぞれ何を入れたかくらい書いておけばよかった。

 とりあえず、手近にあった箱を持って引き寄せる。かなり重たい――たぶん本か目覚まし時計かが入っている箱だろう。

「手伝おうか?」

 振り返ると、開けっぱなしにしていたドアに家入さんが寄りかかっていた。

 服装はジャージにパーカーを羽織っただけのラフな姿に変っている。先刻制服を着ていたのは、用事があって学校に出かけていたからだという。邂逅の目印にもなってくれた制服から一転して見せられた生活感には、これからの下宿生活を示唆するものを感じる。

 こうして家の中で彼女を見ると、結構背が高いことがわかる。ぼくと同じくらいか、ひょっとすると少し高いか。お互いに立っていると目線の高さがぴったり一致していて、自然と目が合う。初めて会う人――しかもかなりの美人――とこれだけしっかり視線を交差させれば、戸惑いのあまり頭が真っ白になってしまう。

 彼女の手には、鋏とカッター。言葉の通り、ぼくを手伝うために持ってきてくれたのだろう。

 黙って見つめていてはいけない。家入さんが首を傾げたのをきっかけに、ようやく、返事をしなければと我に返った。

「ええと、家入さん」

「いいよ、才華で。わたしも弥って呼ぶから」

 あかん、めっちゃドキッとした。

「で、何から手伝おうか?」

 再度問いかけられて、ぼくはよくよく考えを整理しながら話す。

「あ、うん。ありがたいんだけど……遠慮しておこうかな。初めて会う人に見せるものではないっていうか」

 衣類の中には下着もある。

「これから一緒に住もうっていうのに、そこまで気にしなくても。わたしも気にならないし。そうだ、本くらいだったらいいでしょ?」

 と、家入さん――才華は部屋の中へ入って来て、ぼくが「でも」と抗議の声を上げるころには、カッターで段ボールの封を切ってしまっていた。

「背が高い本は下の段に入れるね。上だと棚の高さが足りないから。漫画とか文庫とかは何となく分けて上から順に入れちゃうよ。そうだ、教科書は机の棚にしようか」

 彼女は開封した段ボールから次々本を取り出すと、言った通りに本棚へと手際よく収納していく。

「え、あ……うん。ありがとう。そうしてくれると」

 ――助かるよ、と言おうとして口の動きが止まった。

 あれ? 何かがおかしい。さっき初めて出会った瞬間と同じだ。何かが都合よく進み過ぎている違和感。説明が足りていない。

「そうだ!」

「うわ、どうしたの? 急に大きな声を出して」

 新しい同居人は目を丸くする。いや、そういう顔をしたいのは正直ぼくのほうなのだけれど。

「どうしてその箱に本が入っているってわかったの?」

 ぼくは「本から整理を始める」とか「あの箱に本が入っている」とかは一切口にしていない。段ボールにも本が入っていると示すことは書かれていないのだ。ぼくから彼女にサインを出していないのだから、彼女自身でわかっていたことになる。

 本人は、何をおかしなことをとばかりにきょとん、としている。

「あ、でも、そうか……運んでくれたんだよね。そのときにわかったのか」

 いまこうして段ボールに囲われているということは、玄関先に届いたものを二階のこの部屋まで運ばれたということだ。運びながら重さでなんとなく中身を予想できたなら、いまそれがわかってもおかしなことではない。

 ところが、彼女は首を横に振った。

「どこに運んだかは気にしていなかったし、重いものはおばさんと一緒に運んだもの。どれがどれかなんて正確に憶えていないよ。重い箱だからって本とは限らないしね」

 言われてみればその通り――腑に落ちないようで納得してしまう。これも、最初に言葉を交わしたときと同じだ。街でぼくが誰かわかったときの説明も、家でどの箱に本があるかがわかったときの説明も、どちらも当たり前のことを言っているとしか聞こえないのに、新鮮な驚きがある。

「なら、改めて訊くけど、どうして?」

「説明しないとわからない?」

 二、三度頷いた。黒髪の少女はやや得意げに、そうだね、と切り出して語りだした。

「簡単な話だよ、弥。段ボールを少し詳しく見てみればすぐにわかるから。……ほら、わたしが一番に手を付けた箱。これは四隅を見ると、箱が歪んで少し破けた跡がある。きっと無理に詰め込んだんだろうね。側面を見ても真っ直ぐに筋が残っているから間違いない。で、どうしてその跡が本で付けられたとわかるのかっていうのは、要するに消去法だよ。洋服なら強引に隙間を埋めないし、それ以外の荷物も、多くは隙間を埋めるために新聞紙を使うはず。つまり、新聞紙を使わなくて、しかもいっぱいに詰めこむものといえば、ほとんどが同じような長方形をしている、本だということになる」

 ここで一旦言葉を切って、周囲を見回す。そして、もうひとつの箱に歩み寄った。

「この箱も同じような特徴がある。ほら、この通り」

 ガムテープにカッターの刃を走らせる。無理やりに蓋を閉められていたため、勢いよく箱は開かれ、中に詰まった単行本や参考書が顔を覗かせる。ふたつ連続で本が入った箱を言い当てて見せた――ただの偶然と思うこともできるが、そうは思えない。

 彼女は止めとばかりに付け足す。

「ふたつの箱に力任せに入れようとしたってことは、ふたつでも入りきらなかったわけだよね。だから、どれかもうひとつの段ボールに入っているはずだけれど……今度はむしろ容量に余裕があるだろうね。容量が少ない箱に入れようとするもの。そういう箱なら、ガムテープと蓋の具合をよく見てみれば見つかると思うんだ」

 再び部屋の段ボールを観察すると、すっとぼくの手元にあったものを指さした。

 彼女から鋏を受け取り、それを使って封を開ける。

「嘘やろ……」

 そこには、目覚まし時計や携帯電話の充電器などといった電子機器と一緒に、国語辞典と英和辞典、二冊の辞書が納められていた。

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