第8話 戦場での邂逅
薄明の中に鋭い音が鳴り響いた。それは長く尾を引く
先頭を進んで来た秦兵が正面から矢を受け、斜面を転がり落ちていった。
後続の秦兵は足を止め、張良たちの後方斜面を見上げ、口々に悲鳴をあげる。
にわかに浮き足立ち、背を向け斜面を逃げ下りはじめた。
弓兵の一斉射により、秦の追撃部隊はその多くを失い、逃げ去った。
張良と周苛は半ば呆然と、突如現れたその部隊を見上げた。
彼らを率いていた男が斜面を駆け下って、二人の前に立った。
剣を抜いたまま、周苛と対峙したその男。
長身で均整のとれた体躯と、精悍な表情をした若い男だった。
張良はなんだか、見覚えがあるような気がした。
「貴様らか、張良どのの名を
その男は周苛に向けて言った。
「怪しいと思い、あえて近づかなかったのだが。これは思わぬ偶然だったな」
ずっと、張良たちとは別に、一軍を率い戦っていたらしい。
周苛は張良の方を見やった。
どうしましょう、と目で問いかける。彼女は頷いた。
「張良を名乗っているのは、わたしだ」
胡蓉は顔を上げた。
男は長身をかがめ、彼女をのぞき込んだ。
その時、朝の光が差し込んだ。
男の表情が変わった。
「
張良も、やっとその男が誰なのか気付いた。それは懐かしい顔だった。自然と笑みが浮かんできた。
「信、いつの間にそんなに背が高くなった。いったい誰だこいつ、と思ったぞ」
つい、からかうような口調になっていた。
「ああ、ごめん、胡蓉。そうだな、これじゃ分からないかな」
男は身を縮め、泣き笑いで謝る。
韓信、というのがこの男の名前である。後に韓王となったため、史書には韓王信と記される事が多い。
もちろん、背水の陣で有名な韓信とは別人である。
韓王の一族ではあるが、傍系のため王位継承権は持っていない。そのせいもあって、制約を受けず自由に宮廷で暮らしていた。
宰相の孫娘である胡蓉とは同年代でもあり、その頃から特に仲がよかった。はっきり言えば、胡蓉の子分的な扱いだったのだ。
彼らは、韓の滅亡の際に離ればなれになって以来の再会だった。
「また会えるとは思わなかったよ、胡蓉」
泣き顔の韓信を張良は、じっと見詰めている。
「ん、なに?」
「いや、なあ信。お前、わたしが集めた部隊を引き継いでくれないか」
彼女に、感傷にひたっている暇はない。旧韓の民を糾合するためにはどうしても王族の名前が必要なのだ。
「それは、胡蓉。楚の配下になれと言うことなのかな」
しかも、楚の懐王の。
これには、張良も苦笑するしかなかった。
「わたしも同じ事を考えたよ。選りによって懐王とはな、と。堪えてくれ、頼む」
結局、韓信はその子飼いの部隊共々、張良に合流することになった。
これでやっと、秦の正規軍に対抗できる目途がたった張良は、これからの方針を打ち出した。
「城の確保には拘らない。秦軍を叩く、これを優先する」
守城に人数を割くほどの余裕はない。攻略した城は、秦軍をおびき寄せるための餌にする。つられて出てきた正規軍を個別に撃破するのだ。
張良と周苛、そして韓信は旧韓の地を転々としながら、秦の正規軍と戦い続けた。
その頃、北へ向かった楚の主力軍の内部で異変が起きていた。
大将軍の宋義が項羽に殺されたのだ。
それまでなぜか動きが鈍かった楚軍だが、主戦派の項羽が実権を握ったことで北上の速度が加速した。一気に
一方の劉邦軍は季節外れの台風のように進路が定まらない。中原を攪乱している、とさえ言えない状態だった。
目前の城に攻めかかっては弾き返され、また別の城へ向かう。ただそんな事を繰り返しているだけだった。
そんな劉邦軍の情報は張良の許にも入ってきていた。
「何をやっているんだ、あいつは」
彼女は頭を抱えた。兵数はともかく、装備で劣っているのに力攻めばかりしているらしい。秦は地方軍に至るまで最新の兵器を揃えている。流民軍のような連中が敵う訳がないのだ。だが、今ここを離れても良いものだろうか、張良は迷っていた。
「やはり、行かなきゃならないだろうな」
宿舎の部屋で、心を決めた張良は呟いた。手紙で指示を送るのでは時間が掛かりすぎる。彼女は揺れる小さな灯火を見詰めた。
「入ってもいいか、胡蓉」
部屋の外で韓信の声がした。
張良はその声で、自分はずっと韓信を待っていたのだと云う事に気付いた。
「劉邦どのが苦戦しているそうだ」
韓信が言った。
「少しだけれど兵をつける。胡蓉も周苛と一緒に、劉邦どのの所へ戻るといい」
やはりこの男は分かっていた。張良は立ち上がると、韓信の身体を抱きしめた。
「胡蓉?」
韓信もおそるおそる彼女の背に手を回す。
「怒らないよ。わたしをなんだと思っているのだ、お前は」
ああ、ごめん。韓信は安心して力を込めた。胡蓉の耳元に顔を寄せる。
「また会えるかどうか、分からないけれど」
うん。胡蓉はうなづいた。
お互いに明日さえ知れないのだ。もう一度会えるかどうかなど、誰にも分からない事だった。
二人は、どちらからとも無く唇をあわせ、抱き合ったまま寝台へ倒れ込んだ。
灯火が大きく揺れて、消えた。
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