第7話 死地の張良

 楚の総帥、項梁こうりょう死すの報は、反乱軍に激震を与えた。

 彼がなぜ少数の兵を率いたのみで別行動をとっていたのかは分からない。定陶ていとうというさほど重要でも無い小城を攻めている時に、秦の正規軍の急襲を受けたのだった。


「叔父の情報を流した奴がいる」

 軍議の席で大柄な若者が立ち上がった。

 項籍、あざなを羽というこの男は項梁の甥だった。常に軍の先頭に立ち、必ず、敵軍を粉砕してきた。その彼が、顔を朱に染め、座を見回す。

 居並ぶ将軍、文官たちはみな、訳も無く首をすくめた。

 その視線がある男の所で止まった。

 彼の視線の先にあったのは、懐王の隣に座る宰相の宋義だった。

「如何に、宋義どの」


 決して大きな声ではない。

 だが宋義は、圧倒する風のようなものを感じた。思わずたじろぎそうになった。

「控えなさい、将軍。御前であるぞ」

 懐王を矢面に立てることで、辛うじて威厳を取り繕う。

 項羽は再び腰を下ろした。しかしその目は宋義を睨み付けたままだ。


「諸将にお集まり頂いたのは、楚軍の方針を伝えるためである」

 宋義は、決して項羽と目を合わせない。

 おい、協議ではないのか、声があがった。

「すでに方針は決定している。懐王陛下の裁可も得ているのであるぞ」

 その王は起きているのか、眠っているのか。半眼のまま身じろぎひとつしない。


「待て。おれは、誰が叔父を売ったのかと訊いているのだ」

 項羽が吼えた。

「黙りなさい。我が軍の目的は秦の撃滅である。それが、ひいては項梁将軍の仇討ちにもなるのである。項羽どのは、まさか反対をなさるおつもりか」

 宋義は正面から答える気はないのだった。

 項羽は歯がみした。


「章邯は北へ去った」

 宋義の言葉に、顔を見合わせた諸将は一様に安堵の表情を浮かべた。

「項梁将軍を討ったことで、その目的を達したと考えたのであろう」

 だが、と宋義は続けた。

「楚人の魂は死んでおらぬ。必ずや章邯を撃ち破り、秦を滅ぼす事を此処に誓おう」

 おう、と声があがった。

 満足げな宋義を、項羽は苦々しげに見詰めた。


 宋義を大将軍とする、軍の陣容が発表された。項羽は副将ですらなく、他と同じ一部将という扱いだった。項羽は黙ってそれを受けた。

 この主力軍は北方の章邯を叩いたあと、秦の国都である咸陽かんようを目指すことになる。


 そして、その間、中原に散在する秦軍を引きつけるための、いわば囮の役目を持った部隊が設けられた。

「わしが、か」

 困惑した表情になっているのは、その主将に任じられた劉邦りゅうほうだった。後方に控えた簫何しょうかに促され、急いでお礼を言上する。だが、これは貧乏クジを引いたぞ、と考えているのは明らかだった。


「これは結局、捨て駒という事だ」

 自分の陣営に戻った劉邦はため息をついた。

「なあ、簫何。張良に手紙を書いてくれ。奴なら、こんなわしの事を慰めてくれるだろうからな」

「さあ、それはどうでしょうか」

 簫何は首をひねった。




 たとえ手紙を貰ったとしても、張良の方もそれどころではなかっただろう。

 こっちも総帥の韓王が行方不明なのだ。城門を閉ざさせたが既に脱出した後だったらしい。しかも、秦の正規軍が兵を集結させつつあるとの報告が来ていた。

「周苛どのが言った通りになってしまったな」

 あの男は信用ならないと。

「しかし他に方法は有りませんでしたよ、張良どの」

 周苛は微笑んだ。肝の据わった男だな、張良は感心した。

 後悔しても現状は変わらない。そうなると、いま出来る事をやるまでだった。


「急いで逃げましょう」


 張良は城内の兵を集めて状況を告げた。

 彼女が危惧したほどには、動揺がなかったのが救いだった。兵士達は小隊ごとに分かれ、各地に散らばって行った。


 張良と周苛を含む10人ほどは、秦軍の補給線を狙って出没を繰り返した。他の部隊も同じように各地で小戦闘を行っている。

 小部隊で、秦軍の集中を避けるにはこれしか無かった。

 だがこのままでは、いつまでも秦軍に決定的な打撃を与えることは出来ない。


「あなたが、韓軍の総帥を務められては如何ですか」

 冗談めかして周苛が言った。

「兵たちは心服していたように見えましたが」

 まさか、と張良は肩をすくめた。宰相の孫娘などでは、人は集まらない。


 その日、宿営地の焼き討ちに成功した張良たちだったが、後方から急速に迫る騎馬隊の追撃を受けた。度重なる襲撃に業を煮やした秦軍が、密かに用意していたのだ。


 張良の部下たちは次々に討たれていく。

 二人は、いよいよ死を覚悟する所まで追い詰められた。

「ああ、これはマズいですな」

 足を負傷した張良をかばいながら周苛が呟いた。

 すでに手持ちの矢も尽きていた。周苛は剣を抜き立ち上がった。


「わたしは、よくやったと思いますか」

 張良は静かに言った。周苛もいつも通りの表情で彼女を見た。

「はい。父上の名にたがわぬ戦い振りであったと」

「有り難うございます」

 彼女も剣を抜いた。


 馬を降りた秦兵が、彼女たちの隠れた岩場へ上ってくる。

 ギラリ、と剣が光を反射する。


 夜が、明け始めていた。


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