第6話 たった一人の攻略戦

 張良の故郷、韓は戦国七雄の一国である。

 中原における要地であると共に、西は秦、南は楚という当時の大国に接していることから、常に外交上の火種を抱えていた。

 そして、宰相であった彼女の祖父の努力もむなしく、秦軍の侵攻により韓は滅ぶことになる。


 韓と同盟を結んでいた楚の王は、秦の甘言に騙され救援の兵を出すことは無かった。そんな楚国最後の王が『懐王』である。

 彼女がその名前に対し、含むところが有るのは当然だろう。


 だが、今は劉邦ともども懐王(その時の懐王とは全く別人なのだが)の臣下になった張良だった。


「別に、あの老人のために戦う訳ではないのだし」

 自分に言い聞かせるように呟く。そんな彼女を劉邦は面白そうに見詰める。


「なんだ、沛公。そんな顔で」

「いや。お主も考えることが多くて大変だな、と思っただけだ」

「放っておけ。それより、韓地への出兵許可は出たのか」

 劉邦は懐から竹簡を取り出した。短く、裁可された旨が記されてあった。

「この通り、項梁どのの了解済みだ。大手を振って出発できる」


 ここで劉邦の表情が曇った。

「だが、ちょっと困った事になった。聞いてくれるか、張良」

 彼女は眉をひそめた。

「わたしが、お前の言うことなど聞くわけがないだろう」

 にべもない答えに、それはよく分かっているけども、と劉邦は口ごもった。


「聞け。わしは韓へ向かう事が出来なくなった」

 これにはさすがの張良も意表をつかれた。

「大規模な動員が行われる事になってな、今この軍を分ける事は出来ないのだ」


 劉邦が出した名前に、張良も戦慄した。

「秦の章邯しょうかん将軍が迫っているらしい。全軍を挙げて迎撃の準備をしなくてはならないのだ」

 章邯といえば、反乱の先駆者である陳勝の大軍を、ただの一戦で壊滅させた名将として名高い。その男が来るのであれば是非も無かった。

「だから、これは延期せざるを得ないだろうなぁ」


「いや、その必要はない」

 張良は即座に答えた。劉邦軍を背景にすれば仕事がしやすいと思ったのだが。

「もともと軍を連れていく気は無かった。護衛を兼ねて、従者をお借りできればそれでいい」


 劉邦が付けてくれたのは、やや小柄な若い男だった。

周苛しゅうかと申します」

 二人分の荷物を背負い、張良の前に立っているこの男。兵卒ではなく小隊長クラスらしい。人材不足の劉邦軍にしては気前がいいことだ。


「正直、そう腕が立つという程ではないのだが」

 劉邦は申し訳なさそうに言った。

「わしの直属では、まあ良い方だと思う。お前の事情は話してあるから、遠慮無く使ってやってくれ」

 性格のいい男だから。と最後に劉邦は保証して、送り出してくれた。

 

「つまり、知っているのだな。わたしが張良、本人ではないことを」

 歩きながら彼女が問うと、周苛は穏やかな表情を変えず頷いた。

「もちろん、女性だという事も」

 二人で旅をするのだ。隠しきれることではないし、知らせておくのが正解だろう。


「言っておくが、変な気は起こさない方が身のためだぞ」

 念のため、脅しておくことにする。

「ご心配なく。張良どのの事はしっかりお守りいたします」

 周苛は屈託無く微笑んだ。善良を絵に描いたような男だった。


「あなたは本当に劉邦の部下なのか」

 張良は可笑しかった。


 韓の地に入った彼女たちは、かつての宰相家ゆかりの者の邸を拠点に活動を開始した。まずは、新たな韓王とする人物を見つけなければならない。


 旧韓王の一族にせいという男がいた。父、張良が、反秦で蜂起する際に担ぐべく、既に目をつけていたのである。会ってみると、いかにも才子然とした中年の男で、確かに見栄えはするのだった。


 宿に戻ると、周苛がしきりと首をひねっている。


 それを問うと、彼は慌てて手を振った。

「いえ、飾りとしてはああいう方が良いのでしょうけれど。しかしあれは何とも……」

 周苛の指摘に、張良も苦笑するしかなかった。

「分かっている。ああいう口先だけの男が信用ならないと云うのはな」


 張良はこの男を韓王に立てた。

 これは楚の懐王、というより、真の主権者である項梁も事前に了解していることだ。

 韓王の軍は周辺の小城を次々と陥としていった。


「これらは空き家同然の城なのです。喜んでいる場合ではありません」

 張良は何度も言うのだが、この韓王には分からないらしい。

 毎夜、祝杯だと馬鹿騒ぎを繰り返している。まさに得意の絶頂にあった。

 張良はため息をついた。


 ある日、それを打ち砕く、最大級の凶報がもたらされた。


『将軍、項梁が戦死』


 楚軍の総帥が死んだ。つまり楚軍も壊滅したという事だ。

 

 相手は、またしても章邯しょうかんだった。張良は唇を噛みしめた。

 更に悪い報せは続く。


「韓王が行方不明です。おそらく逃走したものと思われます」

 周苛が告げた。やはり、敗軍を悟って逐電したのだ。


 韓軍は突如、瓦解の危機に陥った。

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