第5話 咸陽宮の陰謀

 秦の国都、咸陽かんよう

 その広大な宮殿の深奥に据えられた玉座についているのは、まだ年若い男だった。

 かつてこの座を占めていた始皇帝は、領内を巡る途中で死んだ。彼はその始皇帝の末子だった。


 名を胡亥こがいというその青年は、本来であればここに座ることは出来なかったであろう。だが、始皇帝の側近であった宦官、趙高の持つ遺言書がそれを変えた。

『胡亥を後継とする』

 遺言には、そう記されていたからだ。


 なぜ、よりによって。声に出さないまでも宮廷に集まった百官は皆そう思った。

 人望、軍事的実績ともに隔絶していたのは長兄の扶蘇ふそである。北方の辺境にあり、塞外の騎馬民族との戦いでめざましい功績を上げていた。

 次期皇帝は彼であると、衆目の一致するところであったのだ。

 その彼については『反乱を企んだ罪により、死を命ず』とだけ記されていた。


 嘘だ。誰もがそう思った。だが、一人として声をあげる者は無かった。それは遺言書が絶対だからではない。最早、そんな物は誰も信じてはいなかった。

 その遺言書には皇帝の印璽が押されていた。だが、その印を所持しているのは、趙高なのである。公式文書はすべてこの男から発せられるのだ。

 次の文書に自分の名が記載される事だけは避けねばならない。


 二代皇帝は、長兄の扶蘇を始め、自分の地位を脅かすであろう他の兄弟姉妹をすべて殺し尽くした。そして、彼はそれを残酷な事とは思っていない。かつての王位継承の際にもよくあった事だ。当然の事をしたまでであった。


 形ばかりの朝儀を終えると、彼はすぐに後宮へ向かった。

 趙高が女の許へ案内する。男にして男ならざる者、宦官である趙高は後宮への出入りも自由なのだ。

 胡亥は寝台の前にひざまづく女を見た。初めて見る顔である。というよりも、毎回違う女なのである。特定の女がこの二世皇帝に対して影響力を持たないようにするための、趙高の策であった。


 媚薬を漬込んだ酒をあおりながら激しく交わる男女を、趙高は冷たい目で見ていた。かつては彼自身も性への欲求を強く持っていた。しかし、今は権力への欲求がそれを上回っている。たかが女一人屈服させて満足するものではない。

 すべての中原ちゅうげんの民をこの足下にひれ伏させてやるのだ。


 そのために、この愚者をとことん利用してやる。趙高は目を細めた。




 楚というのは長江流域に築かれた大国であった。政治家にして高名な詩人でもあった屈原くつげんは記憶に新しい。彼の自死により、楚の崩壊は決定的なものとなったと言っていい。そして、楚国の最後の王をかい王といった。


「はあ。懐王ね」

 張良(胡蓉)はどこか気の抜けた声をあげた。

 劉邦は項梁こうりょう率いる軍に部将として所属している。その項梁が楚王の末裔を拾って来たのだ。確かにこの場合、拾ったというのが最も相応しいのだろう。その老人を楚の最後の王でもある『懐王』と呼ぶ事になったのだ。


 しかし、彼女が見る限りどこにでも居そうな老人であった。胡散臭い事この上ない。

「そう言うな、張良。大事なのは楚国が復興されたと云うことだ。これでわしも一国の将軍様だぞ」


「野盗の頭目が将軍か。確かに世も末だな」

 そんな張良の嘆きも耳に入らないように、劉邦は浮かれている。

 子供か、彼女は思った。まあ、これが劉邦の可愛いところではあるのだが。


「ひとつ提案してもいいか、沛公どの」

 張良の言葉に、劉邦は表情を輝かせた。

「おう、良いとも。お主の言うことなら何でも聞くぞ。いや、聞かせていただくぞ」

 そう嬉しそうに言われると、張良も悪い気はしなかった。


劉邦軍うちはまだ弱体だからな。その解消にも繋がると思う」

「ほう、それは凄いではないか。なんだ、それは」

 彼女の手をとり、顔をくっつけんばかりに迫ってくる。


「近いっ、それに手を離せ。この馬鹿」

 張良は劉邦の手を振りほどき、服の裾で拭う。

「そんな、汚い物に触ったような……、すまん。先をどうぞ」

 睨まれた劉邦は、弱々しく話の続きを促した。


「我々で、韓を復興しよう」

 韓とは、中原のほぼ真ん中にあった国である。秦と国境を接していることから、六国の中では最初に秦に滅ぼされていた。

 そして韓は張良たちの故郷だった。張良はその宰相の一族なのである。


「また父の名を借りるようで心苦しいが、使えるものは使わせてもらう」

 劉邦は彼女の両肩に手を置いた。

「わかった。出陣の手筈を整えよう」

 二人は大きく頷きあった。




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